第14話 メイド生活の始まり
十歳の頃から古書店で猛勉強を続けてきたリリアが、十六歳の美しい娘へと成長した。
隙間風の吹き込む薄暗い孤児院での質素な生活と、古書の埃っぽい匂いが立ち込める書棚の往復。その過酷な日々の繰り返しの中で、彼女は自身の持つ時間を十秒巻き戻す『チクタクリターン』の能力を、ひたむきに知識の吸収のためだけに行使し、誰にも知られることなく圧倒的な教養を身につけていったのだ。
王都セント・グランデに名をとどろかせる大富豪の豪商・アルバート。
莫大な財力を持ちながらも温和な笑顔を絶やさない彼は、特産品や美術品の収集家でもあり、リリアに本をたくさん読ませてくれた古書店の気難しい店主とは「古い友人」であり「お得意様」という間柄であった。
ある日、アルバートが希少な書物を求めて古書店を訪れた際、店主は彼に一人の少女を強く推薦した。
「アルバート、お前にぜひ紹介したい素晴らしい娘がいるんだ」
人を滅多に褒めない店主が、まるで自慢の孫娘でも語るかのように目を細めて話し始めたことに、アルバートは驚きを隠せなかった。
店主の口から語られたのは、リリアが十歳から十六歳になるまでの間、この古書店でどれほど血の滲むような努力を重ねてきたかという軌跡であった。
「あいつはただの孤児じゃない。毎日埃まみれになりながら店の掃除を完璧にこなし、空いた時間は全て読書に捧げていたんだ」
日が暮れて閉店の時間になっても、たった一単語でも多く知識を得ようと食い入るように文字を追いかける姿。他国の歴史、貿易の関税率、古い帝国の言語など、大人が匙を投げるような難解な書物でも、分からないことがあれば躊躇うことなく頭を下げて教えを乞う実直さ。
「幼い頃によっぽど酷い仕打ちを受けたんだろうな。とにかく優しくて、むさぼるように本を読んで知識を集めることが楽しくて仕方ないといった感じで、本当に素晴らしい娘なんだ」
そう熱っぽく語った後、店主は力強い声でこう締めくくった。
「身寄りがなく今は孤児院生活だが、人間性は私が保証する」
長年の付き合いである店主がそこまで太鼓判を押したことで、アルバートは彼女に強い興味と深い信頼を抱き、リリアは彼の大邸宅でメイドとして働き始めることとなったのである。
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かくして大富豪の広大な屋敷に雇われたリリアであったが、働き始めたばかりの彼女に対する周囲の風当たりは決して優しくはなかった。
格式を重んじる屋敷の古株の使用人たちは、彼女が「孤児院出身」であるという理由だけで少し侮り、冷ややかな視線を向けていたのである。
(どこの世界でも、見えない身分の壁や偏見というものはあるのね……)
リリアは内心で静かにため息をついた。だが、彼女は決して怯えたり、感情的に反発したりはしなかった。無知ゆえに悪意ある大人に搾取されかけた十歳の頃の彼女とは、すでに何もかもが違っていたのだ。彼女の心には、古書店で蓄えた深い知識と、どんな状況でも冷静に対処できる揺るぎない理性が根付いている。
ある日のこと、リリアは先輩のメイドから書斎で山積みになっていた外国語の書類整理を命じられた。それは、他国との取引を記録した複雑な言語の書類であり、他の使用人たちが何日もかけて解読できずに放置していた代物だった。
「これ、整理してほしいの。孤児院出身のあなたには字を読むのも難しいかもしれないけれど、出来る範囲でいいわ」
嫌味を含んだ言葉を投げかけられても、リリアはただ優雅に微笑んで「承知いたしました」と返すだけだった。
そして彼女は、古書店で培った多国籍な他国語の知識を遺憾なく発揮し、その難解な書類をあっという間に完璧に整理してのけたのだ。
そればかりではない。客人をもてなす際にお茶を淹れる所作や、身のこなしの端々に至るまで、彼女は本で学んだ貴族以上の美しい作法を自然と体現していたのである。
「あ、あの孤児院上がりだという新人、一体何者なの……?」
孤児とは思えない完璧な所作と教養の深さで実力を見せつけられた周囲の同僚たちは、ただただ驚愕し、リリアを侮る者はあっという間に誰一人としていなくなった。
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メイドとしての確固たる地位を実力で築き上げていくリリアであったが、ただ一つだけ、思い通りにいかない悩みの種があった。
それは、アルバートの愛娘である十四歳のクロエの存在である。
ふくよかで堂々としたアルバートとは対照的に、小動物のように可愛らしい容姿を持つクロエは、極度の人見知りであった。リリアが優しく微笑みかけ、少しでも心を開こうと接しても、彼女はいつもオドオドと視線を逸らしてしまい、中々心が通じ合わずにいたのだ。
(どうすれば、クロエお嬢様に安心していただけるのかしら……)
リリアはクロエの自室の前で、淹れたての温かいお茶が乗った銀のトレイを持ちながら、静かに思案していた。
その頃、自室の中にいるクロエは、ドアの向こうにリリアがいることなど露知らず、一人静かに息を潜めていた。
彼女の小さな手の中には、繊細な意匠が施されたガラス細工の小鳥が握られている。それは、今は亡き母親の形見であった。
社交界という華やかな場を恐れ、他人の鋭い視線に怯えるクロエにとって、この美しく儚いガラス細工を一人で眺めている時間だけが、唯一心を落ち着かせることのできる大切な瞬間だったのだ。
窓から差し込む柔らかな光にガラス細工を透かして見つめていると、コンコン、と控えめなノックの音が部屋に響いた。
「クロエお嬢様、リリアです。新しいお茶をお運びいたしました」
ドアの向こうから聞こえる、心地よく透き通るような声。クロエはビクッと小さな肩を震わせると、母親の形見をぎゅっと胸元で握りしめた。
「……はい、入って」
クロエの細い声に応え、リリアが静かにドアを開け、部屋へと足を踏み入れた。




