第13話 優しさのハンカチ
「君、大丈夫かい?」
不意に、頭上から涼やかな声が降ってきた。
ハッとして顔を上げると、尻餅をついていたはずの少年が、いつの間にかリリアの目の前にしゃがみ込んでいた。フードの奥から覗く藍色の瞳が、気遣わしげにリリアの足元を見つめている。
「あ……はい。平気、です」
リリアが慌てて身を縮めようとすると、少年は無言で懐に手を入れ、純白の布を取り出した。それは、一目見ただけで最高級の絹だと分かる、美しい光沢を放つハンカチだった。
少年は躊躇うことなく、その真っ白なハンカチをリリアのすりむいた傷口へと優しく押し当てた。
「えっ……だ、駄目です! そんな綺麗な布が、血で汚れて……」
「君が私と、あの店主を庇ってくれたのだろう。……ありがとう。傷の手当ては、きちんとした方がいい」
少年の手は、リリアのひび割れた冷たい手とは違い、とても温かかった。至近距離で見つめ合う二人。フードの影に隠れてはいるが、彼の瞳の奥に宿る深い知性と優しさが、リリアの胸を強く打つ。
しかし、その静寂は長くは続かなかった。
「坊ちゃん、ご無事ですか!」
店外で待機していたのであろう、目立たない平服を着た大柄な男が血相を変えて店内に飛び込んできた。男は少年の無事を確認すると、周囲の客たちの視線を警戒するように、少年を囲うようにして素早く立ち塞がった。
「ここは目立ちすぎます。すぐにお戻りを」
男の切羽詰まった声に、少年は小さく頷いた。彼はハンカチから手を離し、リリアの小さな掌にそれをふわりと預けた。
「……ありがとう、勇敢な少女よ」
言葉以上の深い感謝を視線に残し、少年は立ち上がった。そして、側近の男に退店を促されるまま、足早に古書店を後にする。
カラン、と入り口のベルの音を残し、少年の姿は夕暮れの喧騒の中へと消えていった。
床に座り込んだままのリリアは、傷口に当てられたハンカチを両手でそっと包み込んだ。
この小さな出来事が、底辺を這う孤児の少女と、次期国王となる王太子との未来を照らす、運命の交差点となったのである。
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騒ぎが完全に収まり、客たちが三々五々に散っていった後。
リリアは、血の滲んだハンカチをじっと見つめていた。その隅には、金色の糸で複雑な意匠の刺繍が施されている。
彼女は足の痛みを堪えて立ち上がり、歴史や紋章に関する専門書が並ぶ棚へと向かった。
「えっと……確か、この本に……」
古書店の蔵書の中から『紋章学』の分厚い本を引っ張り出し、急いでページをめくる。これまで本で得た知識を頼りに目次を引き、該当するページを探し当てた。
「……やっぱり」
本に描かれた図解と、ハンカチの刺繍。それは寸分違わず一致していた。
『グランデリア王家・直系王族の紋章』
自分が助けたのが間違いなくあのパレードの時の王太子であったことを、リリアは自らが学んできた知識によって確信したのだ。
(私なんかが、殿下のお役に立てる日が来るなんて……)
手の中にある絹の感触と、彼が残していった温かな体温の記憶が、リリアの胸の奥底に小さな、しかし決して消えない火を灯した。
いつかは自分も、彼のような光の世界に生きる人々と、堂々と対等に言葉を交わせるような存在になりたい。
しかし、今の自分はただの身寄りのない孤児だ。身分違いにも程がある、ただの淡い夢でしかない。
それでも、あの圧倒的な知識の差を見せつけられた今日、リリアの心には確固たる決意が芽生えていた。
(もっと……もっと勉強しなきゃ。無知のままじゃ、あの方のいる世界には絶対に近づけない)
いつか訪れるかもしれない彼との再会を夢見て、リリアは古書店での猛勉強にいっそう打ち込む決意を固めた。
「おい、小娘」
不意に、背後から声をかけられた。振り返ると、軽い打撲で済んだ店主が、複雑な表情でリリアを見下ろしていた。
「……さっきは、助かった。お前が飛び込んでくれなかったら、俺は今頃、首の骨を折っていたかもしれねえし、あの高価な本も台無しになっていた」
「いえ……店主さんが無事でよかったです」
リリアが控えめに微笑むと、気難しい店主はふいっと視線を逸らし、わざとらしく咳払いをした。
「今日から、奥の棚の希少本も読んでいい許可を出してやる。ただし、絶対に汚すなよ」
「えっ……! ほ、本当ですか!?」
「俺は嘘は言わねえ。お前みたいな度胸のある賢いガキには、そのくらいのご褒美があって然るべきだ」
リリアの顔がパッと輝き、彼女は足の痛みも忘れて深く頭を下げた。この一件で店主に大層気に入られた彼女は、「ありがとうございます!」と弾むような声で礼を言い、すぐさま奥の特別な棚へと向かっていった。
埃を払いながら、店主はその後ろ姿を静かに見つめていた。
孤児でありながら、決して運命に屈することなく、貪欲に知識を吸収し続ける少女。そして今日見せた、我が身を顧みない咄嗟の勇敢さと機転。
(……末恐ろしい娘だ。あの知識欲は、きっとあいつの未来を切り拓くための、新たな扉を開ける糧になるだろうな)
店主の小さな独り言は、古書店の静寂の中に吸い込まれていった。
その日を境に、リリアはさらに多くの希少な書物に触れることができるようになり、知識の海へとさらに深く潜っていく。
十秒だけ時間を戻す能力と、スポンジのように吸収していく無尽蔵の教養。
王家の紋章が入ったハンカチを胸に抱きながら、リリアは誰にも知られることなく、静かに、そして確実に、自らの未来を変えるための実力を磨き続けていくのだった。




