第12話 事故の回避
埃が舞う薄暗い古書店の中、時間が止まったかのような静寂が落ちていた。
高い脚立から落下した店主の手によってフードが剥ぎ取られ、少年の素顔が完全に顕わになっている。
窓から差し込む夕暮れの淡い光が、少年の美しいシルバーカラーの髪を照らし出していた。そして、驚きに見開かれたその瞳は、深い海のように澄んだ藍色をしている。
ドクン、と。リリアの心臓が、早鐘のように打ち鳴らされた。
(間違いない……。あのパレードの時の、王太子殿下だわ)
豪華な馬車の小窓から、退屈そうに下界を見下ろしていた孤高の存在。十歳のリリアが初めて能力を使い、何度も時間を巻き戻して網膜に焼き付けた、神々しいほどの美貌を持つ少年。
彼がなぜ、こんな薄汚れた下町の古書店に、身分を隠して一人で立っているのか。リリアの頭の中は混乱で真っ白になりかけた。
だが、その静寂は一瞬にして破られた。
崩れ落ちた本と店主のうめき声に驚き、店の奥で本を探していた数人の客がこちらを振り返ったのだ。彼らの視線が、床に転がる店主から、呆然と立ち尽くす少年の顔へと移る。
「おい、あの髪の色……それに、あの瞳……」
一人の客が、信じられないものを見るように震える声を上げた。
「まさか……王太子、ユリウス殿下……?」
「殿下だ! 王太子殿下が、なぜこんな下町に!?」
客たちの間に、火が燃え広がるような動揺が走った。誰かが外に向かって叫ぼうとし、別の誰かが少年に駆け寄ろうと身を乗り出す。狭い店内の空気が、急激に熱を帯びて膨張していくのを感じた。
その異様な気配に、リリアの脳裏に、かつて経験したあの地下の闇カジノでの凄惨な記憶がフラッシュバックした。
群衆が興奮し、理性を失う瞬間の恐ろしさ。大騒ぎになれば、野次馬が殺到し、お忍びで来ているこの少年に危険が及ぶかもしれない。そして何より、リリアにとって唯一の安らぎの場所であり、新たな扉を開くための知識を与えてくれるこの静かな古書店が、混乱によってめちゃくちゃにされてしまう。
(だめ、そんなこと絶対にさせない!)
自分を搾取から救ってくれたのは、間違いなく能力のおかげだった。しかし、同時に能力は大人たちを狂わせた。だからこそ、今度は自分がこの力で、大切な場所と、この人を守らなければならない。
リリアは強く瞼を閉じ、連続で三回、マバタキをした。
パチ、パチ、パチ。――チクタクリターン。
強烈な吐き気と浮遊感が、リリアの小さな身体を容赦なく襲う。
視界が大きく歪み、重力が逆転したかのような不快感。耳の奥で、鼓膜を引っ掻くような逆再生の不協和音が鳴り響く。
床に叩きつけられていた店主の巨体が、見えない糸で乱暴に引き上げられるようにふわりと宙を舞う。バラバラに崩れ落ちた希少な古書たちが、まるで意志を持っているかのように本棚の隙間へと次々に吸い込まれていく。
そして、少年の頭から剥ぎ取られた深いフードが、空中で翻りながら再び彼の顔をすっぽりと覆い隠した。
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ふっと浮遊感が消え、足の裏に固い床の感触が戻る。
時間は、正確に十秒前へと巻き戻っていた。
「……これか」
フードを目深に被った少年が、静かにガラスケースに手をかけ、高価な本を取り出そうとしている。
その頭上では、高い脚立に登って重い本の整理をしていた店主が、「ギシッ」と不吉な軋み音を立ててバランスを崩し始めたまさにその瞬間だった。
リリアの身体は、思考よりも先に動いていた。
「危ないっ!」
悲鳴のような声を上げながら、リリアは床を蹴り、無我夢中で少年に向かって飛び込んだ。
驚いて振り返ろうとした少年の胸元に、リリアは細い両腕を思い切り突き立てる。
ドンッ、と鈍い感触。
彼の上着から漂う、微かながらも上品な香水と上質な絹の匂いが鼻先を掠めた。少年は予想外の衝撃に目を見開き、リリアの突進によって後ろへと大きくよろめき、尻餅をついた。
少年を突き飛ばした反動を利用して、リリアは床に這いつくばるように体勢を低くする。そして、すぐ足元に置かれていた、古い書物を包むための分厚い布の束――巨大なクッション材を両手で掴み、力任せに引っ張った。
「うわぁぁっ!」
頭上から落下してくる店主の巨体。その真下へと、リリアは渾身の力で分厚いクッションを滑り込ませた。
直後、背後で凄まじい轟音と振動が響く。
だが、それは人が床に激突する嫌な音ではなかった。リリアが滑り込ませた分厚いクッションが見事に衝撃を吸収し、店主は「ぐえっ」と短いカエルが潰れたような声を上げただけで済んだのだ。雪崩のように本が崩れ落ちてくることもなかった。
「痛っっ……」
しかし、間一髪で二人を救ったリリアは無傷では済まなかった。
少年を庇って思い切り飛び込み、無理な姿勢でクッションを引き寄せたため、リリアはそのまま勢い余って固い床へと倒れ込んでしまったのだ。
倒れた拍子に、近くにあった本棚の角に右足を強く打ち付け、鋭い痛みが走る。粗末なスカートの裾がめくれ、すりむいた肌からじんわりと赤い血が滲み出していた。
舞い上がった僅かな埃の中で、リリアは荒い息を吐きながら顔を上げる。
尻餅をついた少年は、呆然としながらも怪我一つなく無事だった。彼の頭にはしっかりとフードが被さったままであり、その美しい銀髪も藍色の瞳も、完全に隠されている。
店内の奥にいる客たちは、物音に驚いてこちらを見ているものの、少年の正体に気づく者は誰もいなかった。
「い、痛てて……何がどうなったんだ……?」
クッションの上で身悶えしている店主も、軽い打撲で済んだようだ。
(よかった……。誰も、傷つかなかった)
ズキズキと痛む足の傷を押さえながら、リリアは安堵の息を漏らした。
自分が未来を変えたのだ。恐ろしいパニックも、少年の正体露見も、店主の重傷も、すべて未然に防ぐことができた。十歳の少女が命がけで選択した巻き戻しは、確かに最悪の運命を回避していた。




