第11話 運命の再会
季節が巡り、リリアが孤児院と古書店を往復する日々がすっかり日常として定着した頃。
その日、リリアはいつものように店主の足元を掃除した後、店の奥にある特別な棚の前で足を止めた。そこには、ガラスの向こう側に恭しく飾られた、一冊の分厚い古書が置かれていた。
他国から流れ着いたであろうその本は、重厚な革張りの装丁に、色褪せた金箔の文字が刻まれている。以前のリリアであれば、ただの模様にしか見えなかっただろう。しかし、店主に文句を言われながらも必死に文字を覚え、外国語の猛勉強を続けてきた今の彼女には、その意味を少しだけ読み解くことができた。
(……『古代帝国における、統治機構と権力闘争の歴史』)
装丁の文字を心の中で翻訳した瞬間、リリアの胸が強く高鳴った。
それは、まさに今の彼女が最も欲している知識だった。大国の歴史の裏で、人々がどのように権力を握り、どのように失脚していったのか。絶対的な力を持たない者が、知略と交渉によってどう生き延びたのか。この世界で自分の身を守るための、最高の生きた教材になるはずだ。
リリアはガラスに額がつくほど顔を近づけ、食い入るようにその本を見つめた。しかし、値札に書かれた金額を見た瞬間、熱を帯びていた心に冷水がぶっかけられたような心地になった。
それは、貧しい孤児院で暮らすリリアにとって、一生かかっても稼げるか分からないほどの途方もない金額だった。
(……無理だわ。私には、一生手に入らない)
知識こそが自分を守る唯一の武器だ。その武器が目の前にあるのに、貧しい身分という見えない壁に阻まれ、手を伸ばすことすら許されない。
どうしようもない己の無力さを痛感し、リリアは小さくため息をついて、古書から名残惜しそうに視線を外した。
その時だった。
カラン、と古書店の入り口のベルが静かに鳴った。
振り返ったリリアの視界に入ってきたのは、背丈はリリアより少し高い程度の、一人の少年だった。
王都の喧騒から逃れるようにして店内に入ってきた彼は、目立たないように暗い色の厚手の上着を羽織り、深いフードを目深に被って顔を隠している。
しかし、リリアの鋭い観察眼は、彼がただの平民ではないことをすぐに見抜いた。
上着の裾からわずかに覗く生地は、明らかに最高級の絹糸で織られたものであり、身のこなしには、王都の裏路地で生きる者には決して出せない、生来の優雅さと気品が漂っていた。
(身分の高い、貴族の子供……?)
リリアが不思議に思って見つめていると、少年は迷うことのない足取りで店の奥へと進み、リリアが先ほどまで眺めていた特別な棚の前で立ち止まった。
そして、彼もまた、あの革張りの希少な古書へと真っ直ぐに視線を向けたのだ。
「……これか」
フードの奥から漏れたのは、年齢不相応なほど落ち着いた、涼やかな声だった。
少年は静かにガラスケースに手をかけ、高価なその本をまるで自分の所有物であるかのように、ごく自然な動作で取り出そうとした。
自分には一生手の届かない知識を、あっさりと手に入れようとする彼と、ただそれを見つめることしかできない自分。
その残酷な身分の差を見せつけられたようで、リリアの胸がチクリと痛んだ。
だが、リリアが少年に気を取られていたまさにその瞬間、頭上で不吉な軋み音が響いた。
「わ、わあっ!?」
慌てたような悲鳴が上がり、リリアが弾かれたように上を見上げる。
高い脚立に登り、天井近くの棚で重い本の整理をしていた店主が、足を滑らせてバランスを崩していたのだ。古びた脚立が大きく傾き、店主の体が宙に投げ出される。
「危ないっ!」
リリアが叫んだ。
店主が落下していくその真下には、古書を取り出そうとしているフードの少年がいた。
落下する店主の腕が、空を切る。そして運悪く、その太い指先が、少年の頭を覆っていた深いフードの縁にガッチリと引っかかった。
「なっ……!?」
少年が驚愕の声を上げる間もなく、店主の巨体が落ちる凄まじい勢いに引かれ、彼を隠していたフードが後ろへ激しく剥ぎ取られた。
ドォンッ!という重い音を立てて、店主が床に叩きつけられる。周囲に積まれていた本が雪崩のように崩れ落ち、店内に濛々《もうもう》と埃が舞い上がった。
「い、痛え……! 足が……」
床に転がった店主が、苦痛に顔を歪めてうめき声を上げている。
だが、リリアの視線は店主ではなく、その場に呆然と立ち尽くしている少年の顔に釘付けになっていた。
フードが完全に外れ、あらわになったその素顔。
窓から差し込む夕暮れの光を受けて、美しい銀色の髪がキラキラと輝いている。そして、驚きに見開かれたその瞳は、吸い込まれそうなほど深い藍色をしていた。
ドクン、と。リリアの心臓が、痛いほど大きく跳ねた。
(嘘……。どうして、あなたがここに……?)
見間違えるはずがない。
あのパレードの日、豪華な馬車の窓から退屈そうに下界を見下ろしていた、この世のものとは思えないほど美しく神々しい少年。
リリアが初めて能力を使い、何度も何度もその姿を瞳に焼き付けた、孤高の王太子・ユリウスその人であった。
埃が舞う静寂の中、驚きに目を見開くリリアと、突然フードを剥がされ微かに息を呑むユリウス。
十歳の孤児と、次期国王となるはずの尊き少年。
決して交わるはずのなかった二人の視線が、古い書物の匂いが漂う薄暗い古書店の中で、はっきりと交差した。
それは、知識という海に導かれた二人の運命的な出会いであった。




