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不時着した零戦を改造して歴史を変える?〜不死の体を手にした俺は第二次世界大戦を無双する〜  作者: よみ はじめ
変わりゆく歴史編

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静かな夜

ここまで読んでくださり本当にありがとうございました♪

今回は少し長くなってしまいました。

静かな夜


 その夜、未来基地の食堂には、久しぶりに明るい笑い声が響いていた。

 テーブルの上には、はるみが用意した料理が並んでいる。

 焼いた肉。

 香ばしく炙った魚。

 温かいスープ。

 色鮮やかな野菜と、食べやすく切られた果物。

 そして、中央には冷やされた缶ビールが積まれていた。

 幸雄が、そのうちの一本を手に取る。

 プシュッ。

 小気味のいい音が響いた。


「これだよな」


 幸雄は満足そうに缶を眺めた。


「まだ一口も飲んでないだろ」


 慎一が笑う。


「最初の音まで含めて酒なんだよ」


「ずいぶん細かいな」


「機械屋は細かいんだ」


「その割には、さっき皿を一枚落としかけてたぞ」


「あれは重心の確認だ」


「床で確認するな」


 美希が、口元を押さえて笑った。


「幸雄さん、もう酔ってるみたいですねぇ」


「まだ開けただけだ」


「でも、言い訳の精度が少し落ちています」


「美希、最近言うようになったな」


「観察してるだけですよ」


 そう答えながら、美希も自分の缶を開けた。


 プシュッ。


 一口飲み、目を細める。


「くー!おいしいですぅ」


「たまらんなぁ」


 幸雄も嬉しそうに一口目を味わっている。

はるみが言った。


「美希が飲むなんて珍しいですね」


「ゼロちゃんも格納庫で休んでいますから。私も少し、ゆっくり飲みたいんですぅ」


 いつもの柔らかな声だった。

 けれど、最後の言葉には、ほんの少しだけ安堵が混じっていた。

 慎一が出撃しない日。

 警報も鳴らない。

 零戦の修理もない。

 それだけのことが、この基地では貴重だった。

 はるみも缶を手に取った。


「では、私もいただきます」


「はるみまで飲むのか」


 慎一が言う。


「私だって飲みますよ」


「いや、酒よりお茶の方が似合うと思ってな」


「どういう意味ですか」


「落ち着いてるってことだ」


「今、慌てて言い直しましたね」


 慎一が黙る。


 美希がくすりと笑った。


「慎一さん、今日は旗色が悪いですねぇ」


「まだ飲み会が始まってもいないのに、三対一だぞ」


「京子さんがいますよ」


 美希が振り返る。

 京子は、缶を一本だけ自分の前に置いていた。


「京子さんは、どちらの味方ですか?」


「内容によります」


「一番厳しい答えが来たな」


 慎一が苦笑した。


 京子はプルタブに指をかける。


 プシュッ。


 その音に、美希が嬉しそうに目を細めた。


「京子さんも、ちゃんと飲むんですねぇ」


「一本だけです」


「一本でも、飲まないよりずっといいです」


「何がですか?」


「同じ夜を過ごしている感じがしますから」


 美希は、何気なくそう言った。


 京子は一瞬だけ美希を見た。


 それから、静かに笑う。


「そうですね」


 慎一も缶を開けた。


「さて、何に乾杯する」


 幸雄が全員を見回す。


「慎一が、今日は何も壊していないことに」


「そんなに壊してるか?」


「まあ、気にするな、ははっ」


「はるみは?」


「私は賛成です」


 最後に、皆の視線が京子へ向いた。

 京子は缶を持ち上げる。


「それなら、もう一つ加えましょう」


「何をだ?」


「全員が、ここにいることに」


 少しだけ、空気が静かになった。

 誰も茶化さなかった。

 五つの缶が、中央で触れ合う。

 軽い金属音が重なった。


「カンパーイです」


 美希の声が、柔らかく食堂に広がった。


     ◇


 最初の一本が半分ほど空く頃には、食堂の空気もすっかりほどけていた。

 幸雄は早くも零戦の話を始めている。


「あの左翼な」


「どの左翼だ」


「補修跡が残っている方だ」


「いつの話だ!」


 幸雄は気にせず続けた。


「あれを直すのに、何時間かかったと思ってる」


「知らん」


「十四時間だ」


「そんなにか」


「そんなにだ。途中で美希が四回来た」


「三回です」


「いや、四回だ」


「最後は見に行ったのではなく、おやすみを言いに行ったんです」


「それを含めて四回だ」


「では、三回と一度ですぅ」


「分ける意味があるのか?」


「あります」


 美希は真顔だった。


「三回は状態の確認です。最後の一度は、ただ心配だっただけですから」


 慎一が美希を見る。


「零戦が?」


 美希は少し首を傾げた。


「ゼロちゃんもです」


「も?」


「操縦していた人もですぅ」


 そう言って、美希は静かに缶へ口をつけた。

 大げさな言い方ではなかった。

 だからこそ、慎一は返す言葉に少し困った。

 幸雄が缶を置く。


「だから、撃たれ方を考えろ」


「敵に相談しろと言うのか」


「そうだ。次から、もう少し右を狙ってくれとな」


「右肩を撃ち抜かれたばかりだぞ」


「なら、左だ」


「片方ずつ壊すな」


 はるみが吹き出した。

 珍しく声を上げて笑っている。


「幸雄さん、それでは慎一が長持ちしません」


「機体も人も均等に使うのが長持ちの秘訣だ」


「俺を機械扱いするな」


 また笑い声が広がった。

 京子も缶を口元へ運びながら、目を細めている。

 普段より少しだけ表情が柔らかい。

 その変化に気づいたのか、美希が京子を見た。


「京子さん、今日はよく笑いますねぇ」


「そうですか?」


「はい。いつもより、少しだけ早く笑っています」


「笑う速さまで分かるのか」


 幸雄が呆れたように言う。


「分かりますよぉ」


「どうやって」


「見ていれば」


 美希はさらりと答えた。


 京子は困ったように笑った。


「美希は、よく人を見ていますね」


「ゼロちゃんほど細かくは見ていません」


「そこで比べるのか」


 慎一が言う。


「ゼロちゃんは、少しの傷でもすぐに分かりますから」


「人の傷は分からないのか?」


 美希は慎一を見た。


「分かることもあります」


 その声だけが、少し静かになった。


「でも、人は隠しますから」


 慎一は、美希の視線を受け止めた。

 何も言わない。

 美希も、それ以上は続けなかった。

 代わりに明るく笑い、二本目の缶を開けた。


「幸雄さんは、二本目から声が大きくなります」


「なってない」


「今、少し大きいです」


「慎一はどうだ」


「慎一さんは、酔ってくると返事が短くなります」


「そうか?」


「はい」


「ふうん」


「今のがそうですぅ」


 食堂に笑いが弾けた。


     ◇


 やがて、京子の缶が空になった。


 「もう一本どうだ?」


 慎一が言った。

 京子は慎一の目を見た、少し笑う。


「じゃもう1本だけ」


「そうこなくっちゃな」


 そう言って慎一も2本目を開けた。


 はるみは三本目。

 美希は四本目をゆっくり飲んでいる。

 幸雄は、当然のように五本目へ手を伸ばした。

 プシュッ。


「まだ飲むんですか?」


 はるみが言う。


「これが最後だ」


「さっきも聞きました」


「さっきは四本目の最後だ」


「一本ずつ最後になるんですね」


 美希が感心したように言った。


「真似するなよ」


「私は四本で終わります」


「美希の方がしっかりしてるな」


「美希は馬鹿じゃないですから」


 はるみが当然のように言った。


「誰もそんなことは言ってないぞ」


「幸雄さんの顔に書いてありました」


「お前たち、酒が入ると手厳しいな」


 幸雄は五本目を一口飲み、慎一を見た。


「ところで、お前は二本で終わりか」


「ああ」


「その体は二十歳だろ」


「中身は六十六だ」


「便利だな。都合のいい方の年齢を使えて」


「若い体で無茶をして、年寄りの頭で反省する。なかなか忙しいぞ」


「反省してるのか?」


「したこともある」


「何年前だ」


「忘れた」


 京子が吹き出した。

 慎一がそちらを見る。


「何がおかしい」


「いえ」


「笑っただろ」


「慎一らしいと思っただけです」


「それ、褒めてないだろ」


「半分は褒めています」


「残り半分は?」


「呆れています」


「正直だな」


 慎一は少し目を丸くし、それから笑った。


「京子も酔うんだな」


「酔っていません」


「みんなそう言う」


 二人のやり取りを見て、美希が静かに微笑んでいた。

 京子が気づく。


「何ですか?」


「何でもありませんよぉ」


「その顔は、何かありますね」


「ただ、いい夜だなと思っただけです」


 美希は缶を持ったまま、テーブルを見回した。


「こうしていると、基地じゃないみたいです」


 幸雄が答える。


「じゃあ何だ」


「家でしょうか」


 美希は少し考えてから言った。


「帰ってきた時に、誰かがいる場所ですから」


 今度は、誰もすぐには言葉を返さなかった。

 美希は酔っていた。

 頬も赤い。

 声もいつもより少しゆっくりしている。

 それでも、言葉は妙にまっすぐだった。

 慎一が缶を置く。


「そうだな」


 短い返事だった。

 美希は目を細める。


「ほら、返事が短くなりました」


「観察を続けてたのか」


「はい」


「油断ならんな」


「慎一さんは油断しすぎですぅ」


 美希は笑った。

 その直後、少しだけ表情を変えた。


「だから、帰ってきてくださいね」


 食堂が静かになる。

 美希は缶を見つめたまま続けた。


「慎一さんが出撃している間、格納庫はとても静かなんです」


「零戦がないからだろ」


「それだけではありません」


 美希は顔を上げた。


「ゼロちゃんが戻る音を、みんな待っていますから」


 慎一は黙って美希を見る。


「帰ってるだろ。毎回」


「はい」


「なら大丈夫だ」


「次もです」


「ああ」


「その次も」


「ああ」


 美希は少し笑った。


「とにかく何があっても、ちゃんと帰ってきてください」


 慎一は、しばらく何も言わなかった。

 それから、静かに頷いた。


「分かった」


 はるみも三本目の缶を置く。


「私からもお願いします」


「はるみまでか」


「人は機体のように修理できませんから」


「俺は普通より治るぞ」


「そういう話ではありません」


 はるみの返事は早かった。


「怪我をしても治るから、心配しなくていいわけではありません」


「……そうだな」


「はい」


 幸雄も慎一を見る。


「俺は零戦を直せる。だが、お前の代わりは直せん」


「珍しくいいことを言うな」


「五本目だからな」


「酒の力か」


「半分は」


「残りは?」


「本音だ」


 幸雄は照れ隠しのように缶を傾けた。

 京子は、何も言わず慎一を見ていた。

 美希も、はるみも、幸雄も。

 皆が同じことを思っている。

 それは京子も同じだった。

 けれど、なぜか言葉にしようとすると胸が詰まる。

 司令としてなら簡単だった。

 必ず帰還してください。

 無理はしないでください。

 だが今、京子の中にあるものは、それだけではない。


「京子?」


 慎一が気づいた。


「どうした」


 京子は少しだけ迷った。

 そして空になった缶へ視線を落とす。


「私も、同じです」


 京子は顔を上げた。


「帰ってきてほしい、という話です」


 慎一が京子を見る。

 ほんの一瞬。

 食堂の音が遠のいたように感じた。


「分かってる」


 慎一は、静かにそう答えた。

 京子は頷く。

 美希が、ほっとしたように微笑んだ。


「これで全員ですねぇ」


「何がだ?」


 幸雄が聞く。


「慎一さんを帰す係です」


「帰すのは俺の仕事じゃないのか」


「帰るのが慎一さんの仕事です」


「なるほど」


「私たちは、待つ係ですぅ」


 誰も笑わなかった。

 けれど、重くもならなかった。

 美希の言葉が、柔らかくその場に残った。


     ◇


 それからも、飲み会は続いた。

 幸雄は五本目を飲みながら、また零戦の修理の話を始めた。


「だからな、あの補修跡は残してあるんだ」


「直せなかったんじゃないのか」


「違う。直そうと思えば消せる」


「では、なぜ残したんです?」


 はるみが尋ねる。

 幸雄は少しだけ缶を見つめた。


「消してしまうと、何もなかったみたいになるからだ」


 美希が静かに頷く。


「ゼロちゃんが帰ってきた証ですねぇ」


「ああ」


「幸雄さん、いいことを言います」


「五本目だからな」


「便利ですねぇ、五本目」


 幸雄は笑った。


「慎一、お前はどう思う」


「傷が増えるたびに残されると、最後には青い部分がなくなるぞ」


「なくなるほど壊されたらたまらんわい」


 幸雄はぐびっとビールを飲んだ。

 美希が慎一を見た。


「さっき、京子さんに言われた時は出ていましたよ」


「何が」


「嬉しそうな顔ですぅ」


 慎一が黙る。

 京子が缶を置く手を止めた。

 はるみは美希を見る。


「美希」


「はい?」


「そこまで観察しなくてもいいと思います」


「そうですか?」


「そうです」


 美希はしばらく考えた。


「では、今のは忘れますぅ」


「お前が忘れても、みんな聞いてるぞ」


 幸雄が言った。

 京子はわずかに俯いた。

 慎一は残っていたビールを一気に飲む。


「二本目が空いたな」


「話を変えましたねぇ」


「美希」


「忘れました」


 美希は真顔で答えた。

 今度こそ、全員が笑った。


     ◇


 最初に眠ったのは、美希だった。

 四本目をきちんと飲み終えたあと、しばらく皆の話を聞いていた。

 やがて幸雄の肩に、そっと頭を預ける。


「美希?」


「起きていますぅ」


「目を閉じてるぞ」


「音をよく聞くためです」


「そうか」


「はい」


 数秒後、規則正しい寝息が聞こえ始めた。

 幸雄が横目で見る。


「知的な理由をつけて寝たな」


「美希らしいですね」


 はるみが笑った。

 そのはるみも、しばらくすると椅子の背へ深く身を預けた。


「はるみ、大丈夫か」


 慎一が声をかける。


「大丈夫です」


「三本飲んでるぞ」


「数えています」


「立てるか?」


「立てます」


 そう言って立ち上がったが、一歩目で身体がわずかに傾いた。

 慎一がすぐに腕を支える。


「ほら」


「床が少し動いただけです」


「基地ごと酔ったのか」


「その可能性もあります」


 普段のはるみなら言わない冗談だった。

 京子が笑う。


「今日は、はるみまで随分楽しそうですね」


「はい。今日は、いい日ですから」


「何もなかった日だぞ」


 慎一が言う。

 はるみは慎一を見た。


「何もなかったから、いい日なんです」


 慎一は、少しだけ目を細めた。


「そうだな」


 慎一が言う。


「ビールはもう無いのか?」


 幸雄はそう言いながら、自分も椅子の背へもたれた。


「もう眠そうだぞ、まだ飲むのか?」


「飲む、、、」


「目を閉じてるぞ」


「はるみと同じだ。音を聞いてる」


「便利な言い訳だな」


「機械屋は音で判断する」


「寝息が出てるぞ」


 返事はなかった。

 最後まで起きていたのは、慎一と京子だけだった。

 テーブルの上には、空になった缶が並んでいる。


 京子、二つ。


 慎一、二つ。


 はるみ、三つ。


 美希、四つ。


 幸雄、五つ。


「見事ですね」


 京子が言った。


「本数どおりに倒れたな」


「幸雄が最後でした」


「意地だろうな」


 二人は顔を見合わせる。


 声を抑えて笑った。

 食堂には、三人の静かな寝息が重なっている。

 散らかった皿。

 倒れた缶。

 飲みかけの水。

 いつもの未来基地とは思えない光景だった。


「たまには、こういう夜もいいな」


 慎一が言う。


「はい」


「京子も、もっと飲めばよかったのに」


「二本も飲みましたよ」


「そうだな、少し酔ってる」


「酔っていません」


「みんな同じことを言うな」


「慎一こそ、二本で随分楽しそうでした」


「俺はいつも楽しそうだろ」


「そうでしょうか」


「違うか?」


 京子は、慎一の顔をしばらく見つめた。

 そして、少しだけ笑う。


「今夜は、いつもより楽しそうでした」


 慎一も笑った。


「京子もな」


 その言葉に、京子は返事をしなかった。

 ただ、空になった缶を指先でそっと回した。

 こんな夜が、ずっと続けばいい。

 誰もが、心のどこかでそう思っていた。

 けれど、口には出さなかった。


     ◇


 慎一が目を覚ました時、部屋の中はまだ暗かった。

 枕元の表示を見る。

 午前三時を少し過ぎている。


「早いな」


 もう一度目を閉じた。

 だが、眠りは戻ってこなかった。

 二本のビールで酔っているわけではない。

 頭は妙に冴えていた。

 昨夜の笑い声。

 美希の言葉。

 はるみの声。

 幸雄の本音。

 京子の、帰ってきてほしい。

 その言葉だけが、静かに胸に残っている。

 慎一は天井を見つめたあと、ゆっくりと起き上がった。

 廊下へ出る。

 基地の中は眠りに沈んでいた。

 食堂を覗くと、皆はまだ昨夜のままだった。

 美希はソファで毛布を被って寝息をたてている。

 はるみは机に片腕を置き、その上に頬を乗せている。

 幸雄は椅子に沈み込み、腕を組んだまま眠っていた。


「よく寝てるな」


 慎一は小さく笑い、誰も起こさないように基地の外へ出た。

 夜気が肌に触れる。

 冷たくはない。

 風もなかった。

 草木は微動だにせず、闇の中に静かに立っている。

 慎一は、砂浜へ続く細い道を歩いた。

 皆が何度も通っている、いつもの道だ。

 昼間なら、何ということもない。

 だが夜は、両側のブッシュが黒い壁のように見えた。

 やがて、その切れ目が現れる。

 慎一が抜けると、視界が一気に開いた。

 白い砂浜。

 その向こうに、黒い海が広がっている。

 空には、細い三日月が浮かんでいた。

 その夜は、本当に風がなかった。

 椰子の葉も動かない。

 海には波らしい波もなく、水面は鏡のように静まり返っている。

 三日月の光だけが、細い筋となって海の上へ落ちていた。


「静かだな」


 慎一は靴を脱いだ。

 裸足で砂浜へ降りる。

 夜の砂は、ひんやりとして柔らかかった。

 足の裏に、細かな砂粒の感触が伝わる。

 そのまま水際まで歩く。

 波がないため、海と砂浜の境目さえ曖昧だった。

 慎一は浅い水の中へ、一歩踏み入れた。

 その瞬間。

 足元で、青白い光がふわりと灯った。


「ん?」


 慎一は立ち止まった。

 光は、すぐに消えた。

 もう一歩。

 今度は足首の周りで、無数の青い粒が弾けた。

 暗い水の中から、星が湧き上がるようだった。


「夜光虫か」


 慎一の顔に、ゆっくりと笑みが広がる。

 一歩。

 また一歩。

 足を動かすたび、青白い光が水の中に生まれる。

 すぐに消える。

 そして次の一歩で、また現れる。

 慎一の足跡を追うように、静かな海が瞬いていく。


「すげえな」


 声が、思わず漏れた。

 慎一は少しだけ大きく足を動かしてみた。

 水が広がる。

 その動きに沿って、光の粒が一斉に弾けた。


「ははっ」


 年齢も立場も忘れたような笑い声だった。

 慎一はしゃがみ込み、両手で海水をすくう。

 掌の中で、小さな光がいくつも瞬いていた。

 指を少し開く。

 海水が、さらさらと零れ落ちる。

 青白い光が指の間を抜け、暗い海へ戻っていった。


「まるで、星をすくってるみたいだな」


 口にした言葉は年寄りくさい。

 けれど、その顔は子供のように輝いていた。


     ◇


 京子もまた、同じ頃に目を覚ましていた。

 時刻を見る。

 午前三時を過ぎている。

 昨夜は、いつもより早く眠った。


 ビールはニ本だけ。

 酔いはそれほどでもなかった。むしろ短時間で久しぶりにぐっすりと寝れた。

 もう一度眠ろうとしたが、意識だけが妙に冴えていた。

 京子は静かに起き上がり、部屋を出た。

 食堂には、皆がまだ眠っている。

 美希は毛布から片足を出し、はるみは頬を伏せたまま動かない。

 幸雄も、椅子に座ったまま深く眠っていた。

 京子はその様子を見て、小さく笑う。

 ふと、慎一の姿がないことに気づいた。

 部屋に戻ったのだろう。

 そう思った。

 だが、なぜか足は基地の出口へ向かった。


「少しだけ、外の空気を吸いましょうか」


 誰に言うでもなく呟く。

 外へ出る。

 空気は静かだった。

 風一つない。

 草も木も、夜そのものも、息を止めているように見えた。

 京子は砂浜へ続く道を歩いた。

 何度も通った道。

 それなのに今夜は、知らない場所へ続いているように感じる。

 ブッシュを抜ける。

 白い砂浜が現れた。

 そして京子は、その場で足を止めた。

 暗い海の中に、慎一がいた。

 一歩進むたび、その足元に青白い光が広がっている。

 慎一はしゃがみ込み、両手で海水をすくっていた。

 掌から零れる水が、星屑のように瞬いている。


「すげえな……」


 その声は、驚くほど無邪気だった。

 京子は、しばらく声をかけることができなかった。

 二十歳の青年の姿。

 だが、ときどき妙に年寄りくさいことを言う。

 誰かが困っていれば、何も言わずに手を差し出す。

 危険な任務へ向かう時でさえ、近所へ出かけるように笑う。

 それなのに今は、初めて光る海を見た子供のようにはしゃいでいた。

 その姿を見た瞬間。

 京子の胸の奥に、遠い記憶が浮かんだ。

 父も、そういう人だった。

 難しい計算を何日も続けていたかと思えば、庭で変わった形の葉を見つけただけで、幼い京子を呼んだ。

 普段は静かな声が、その時だけ少し弾んでいた。

 顔が似ているわけではない。

 声も違う。

 けれど。

 何かを見つけた時の目。

 静かな優しさ。

 自分の中で答えを見つけるまで、他人へ押しつけないところ。

 慎一と話していると、なぜか最初から話しやすかった。

 NOVAに選ばれた人。

 任務のために連れてこられた人。

 最初は、それだけだった。

 だが、出撃するたびに必ず帰ってくる。

 皆を安心させるように笑う。

 そして、また一人で空へ向かう。

 帰ってくるたび、頼もしくなる。

 頼もしくなるほど、次に出ていく時が怖くなる。

 胸の奥に溜まったものが、慎一の姿を見た瞬間に消えていく。

 その安心が、いつから始まったのか。

 京子には分からなかった。


「京子?」


 慎一が振り返った。

 京子は我に返る。


「起きていたのか」


「慎一こそ」


「目が覚めた。もう一度寝ようと思ったんだが、眠れなくてな」


「私もです」


「そうか」


 慎一は足元の海を見た。

 そして、少し嬉しそうに手招きをする。


「見てみろ。歩くと光るぞ」


 声が、わずかに弾んでいる。

 京子は思わず笑った。


「随分、楽しそうですね」


「こんなのを見て、楽しくならない方がおかしいだろ」


「六十六歳とは思えません」


「今は二十歳だからな」


「都合のいい時だけですか」


「そういうことだ」


 慎一は平然と答えた。

 京子は靴を脱いだ。

 裸足で砂浜へ降りる。

 慎一のいる浅瀬まで歩き、一歩、海へ足を踏み入れた。

 足元で、青白い光が弾けた。


「……きれい」


 思わず、声が漏れた。

 もう一歩。

 光が増える。

 足を動かすたび、暗い水の中に小さな星が生まれる。

 京子は慎一の隣まで歩いた。


「こんなに光るんですね」


「水が動くと光るみたいだな」


 慎一が足先で、そっと海水を揺らす。

 青白い光が輪になって広がった。

 京子も同じように足を動かす。

 自分の周りに、光が生まれる。


「不思議です」


「ああ」


「まるで、海が眠っていて、触れたところだけ目を覚ますみたいです」


「京子も、なかなか詩人だな」


「慎一に言われたくありません」


「俺は星をすくってたんだぞ」


「見ていました」


「いつからいた」


「星をすくう少し前からです」


「それなら、かなり見られてたな」


「子供みたいでした」


「今は二十歳だと言っただろ」


「二十歳でも、あそこまではしゃぐ人は少ないと思います」


「六十六歳だから珍しいものが身に染みるんだ」


「また都合よく戻りましたね」


 二人は顔を見合わせ、笑った。

 京子はしゃがみ込み、両手で海水をすくった。

 掌の中で、青白い光が静かに瞬いている。

 指を少し開く。

 光る雫が、一筋ずつ零れ落ちていく。


「本当に、星みたいですね」


「だろ」


 慎一も隣にしゃがみ込んだ。

 二人の掌の中で、光る水が揺れている。

 京子が顔を上げる。

 思っていたより、慎一の顔が近くにあった。

 目が合う。

 ほんの一瞬。

 京子の胸が、わずかに強く鳴った。

 慎一も何も言わなかった。

 静かな海だけが、二人の足元で青く瞬いている。

 京子は先に視線を落とした。


「不思議ですね」


「何がだ」


「こんな光が、ずっと海の中にあったなんて」


「見えないだけで、あるんだろうな」


「何がですか?」


「光るものが」


 慎一は暗い海を見つめた。


「普段は見えなくても、何かが動けば、そこにあると分かる」


 京子は慎一の横顔を見た。

 また、年寄りくさいことを言っている。

 そう思った。

 けれど、その言葉は胸の奥へ静かに沈んでいった。

 普段は見えないもの。

 何かが動けば、そこにあると分かるもの。

 慎一が出ていくたびに膨らむ不安。

 帰ってきた時に広がる安心。

 それも、ずっとそこにあったのだろうか。


「どうした?」


 慎一が首を傾げる。


「いえ」


 京子は小さく笑った。


「慎一は、本当に不思議な人ですね」


「よく言われる」


「誰にですか」


「今、初めて言われた、ははっ」


 京子は吹き出した。


「適当ですね」


「六十六年も生きてるからな」


「その割には、夜光虫ではしゃいでいました」


「それは別だ」


「別なんですね」


「別だ」


 慎一は真顔で答えた。

 その顔を見て、京子はまた笑った。

 風のない夜。

 細い三日月。

 青く光る海。

 京子は、こんなふうに笑ったのはいつ以来だろうと思った。

 父がいた頃。

 まだ未来の重さも、歴史を変える責任も知らなかった頃。

 あの頃の自分は、もっと簡単に笑えていた。


「父も」


 気づけば、声が漏れていた。

 慎一が京子を見る。


「父も、慎一に少し似ていました」


「そうなのか」


「顔ではありません」


「それは分かってる」


「難しいことを考えているのに、変わったものを見つけると、急に子供みたいになる人でした」


「それは、いい親父さんだな」


「はい」


 京子は海を見つめた。


「とても優しい人でした」


「そうか」


 慎一は、それ以上聞かなかった。

 慰めようともしない。

 言葉を重ねることもしない。

 ただ隣にいて、京子と同じ海を見ていた。

 その沈黙が、京子には心地よかった。


「慎一と話していると」


 京子は、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「少しだけ、父と話していた頃を思い出します」


 慎一は黙って聞いている。


「最初から、話しやすかった理由も、それなのかもしれません」


「俺が年寄りだからか」


「それだけではありません」


「じゃあ、何だ」


「分かりません」


 京子は正直に答えた。


「ただ、懐かしい感じがしたんです」


「初対面の六十六歳にか」


「見た目は二十歳でした」


「余計に不思議だな」


「はい」


 京子は微笑んだ。

 けれど、胸の中には別の言葉が残っていた。

 父に似ている。

 それは、きっと間違いではない。

 だが、それだけなら。

 出撃するたびに、あれほど不安になるだろうか。

 帰ってきた姿を見ただけで、胸の奥がほどけるだろうか。

 父の面影を見ているだけなら、慎一の横顔を見つめた時、こんなふうに胸が揺れることはないはずだった。


「京子」


 慎一の声で、意識が戻る。


「はい」


「冷えてないか」


「大丈夫です」


「夜明け前は、少し冷えるぞ」


「慎一こそ」


「心配してくれてるのか?」


 京子が慎一を見つめた。


「そろそろ帰りますか」


「そうだな、ここには帰る場所がある」


「美希が言ってただろ。誰かがいる場所が家だって」


「あの子は、ときどき驚くようなことを言います」


「よく見てるんだろうな。人も、零戦も」


「はい」


 慎一は、青く光る海を見つめた。


「俺にとっても、ここはもう、ただの基地じゃない」


 京子は慎一を見る。


「そうなんですか?」


「ああ」


「では」


 京子は一度、言葉を止めた。


「帰ってきてください」


 慎一が振り向く。


「昨夜も言っただろ」


「もう一度です」


 京子は慎一から目を逸らさなかった。

 ここは戦場なのだ。

 戦場に必ずなどない。

 京子はそれを誰よりも知っていた。


「でも、帰れる時は、ここへ帰ってきてください」


 慎一は、しばらく京子を見つめた。

 その表情から、いつもの軽さが消えていた。


「ああ」


 短い返事。

 けれど、今までで一番まっすぐだった。


「帰るよ」


 京子の胸の奥で、何かが静かにほどけた。

 足元の水が揺れる。

 二人の周りに、青白い光が広がった。

     ◇


 東の空が、わずかに青み始めていた。

 細い三日月の光が薄れていく。

 夜光虫も、少しずつ光の中へ溶けていった。

 京子と慎一は、まだ海から上がらずにいた。

 言葉がなくても、気まずくはない。

 時折、どちらかが足を動かす。

 そのたびに、名残惜しそうに青い光が弾けた。


「もう消えるな」


 慎一が言う。


「朝が来ますから」


「惜しいな」


「また見られますよ」


「同じ夜は、二度とないぞ」


「また年寄りくさいことを」


「六十六だからな」


「今は二十歳では?」


「都合による」


 京子は笑った。


「本当に、不思議な人です」


「褒めてるのか?」


「半分は」


「残りは?」


 京子は少し考えるふりをした。


「まだ、分かりません」


「なんだそれは」


「六十六年生きているなら、自分で考えてください」


 昨夜の言葉を返す。

 慎一は一瞬黙り、それから笑った。


「京子も言うようになったな」


「ビール二本も飲みましたから」


「まだ残ってるのか」


「少しだけ」


 二人は、ゆっくりと浜辺へ戻った。

 濡れた足を砂の上へ置く。

 その足跡にも、最後の青い光がわずかに残った。

 京子は靴を履く前に、もう一度海を振り返る。

 夜光虫の光は、ほとんど見えなくなっていた。

 けれど、もう消えたとは思わなかった。

 見えないだけだ。

 静かな海の中に、ずっとある。

 京子は隣に立つ慎一を見る。

 父に似ている。

 そう思ったのは、間違いではない。

 けれど今、隣にいるのは父ではない。

 慎一だった。

 父の面影を探しているのではない。

 この人が帰ってくることを願っている。

 この人が笑うと、嬉しい。

 この人が空へ向かうと、怖い。

 それはもう、懐かしさだけではなかった。


「戻るか」


 慎一が言う。


「はい」


 二人は並んで、基地へ続く道を歩き始めた。

 夜明け前の空が、少しずつ明るくなっていく。

 慎一の背中を見ながら、京子は思った。

 帰ってきてほしい。

 次も。

 その次も。

 できるなら、ずっと。

 けれど、その言葉はまだ胸の中に置いたままにした。

 ブッシュの向こうに、未来基地の灯りが見える。

 二人が帰る場所。

 その朝。

 誰にも見えない海の底で、青い光は静かに瞬き続けていた。

「おかげさまで、ついに100話に到達しました!いつも応援ありがとうございます。本作は『零戦で無双する』というテーマでありながら、【なるべく殺さない、戦いを根本から断つ、静かな無双】という信念を大切にここまで書き続けてきました。主人公がこれからさらにどんな未来装備で戦場を平和に導くのか、101話以降も全力で執筆してまいります。『この静かな無双のスタイルが好き!』『100話おめでとう!』と思ってくださった方は、ページ下部の【ブックマークに追加】や評価(☆☆☆☆☆)で応援していただけると、次の101話への大きな大きな原動力になります!」

よろしくお願いします。


作者 よみ はじめ

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100話おめでとうございます。いつも楽しまさせて頂いております。今後も投稿を楽しみにしています。
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