嵐の前触れ
第九十五話 嵐の前触れ
一九四二年七月下旬。
アメリカ合衆国、ワシントンD.C.
陸軍省の会議室には、太平洋全域を描いた巨大な地図が掲げられていた。
日本列島。
フィリピン。
ニューギニア。
ソロモン諸島。
そして、果てしない海に散らばる無数の島々。
長い会議机の正面には、ジョージ・C・マーシャル大将が座っていた。
アメリカ陸軍参謀総長。
陸軍全体を預かる男である。
机上には、太平洋戦線の報告書と、一冊の分厚い技術資料が置かれていた。
マーシャルは最後の頁を閉じると、向かいに座る男へ視線を向けた。
「アーノルド将軍。説明をお願いします」
「承知しました、マーシャル将軍」
ヘンリー・“ハップ”・アーノルド中将が立ち上がった。
陸軍航空軍司令官。
アメリカの航空戦力、その未来を背負う男だった。
副官が会議机の上へ大きな三面図を広げる。
そこに描かれていたのは、従来の爆撃機を遥かに上回る巨大な四発機だった。
長大な主翼。
太い胴体。
鋭く絞られた機首。
図面の隅には、短い記号が記されている。
XB-29。
さらに、その横へ精巧な木製模型が置かれた。
まだ空を飛んでいない機体。
だが、すでに量産準備さえ進められている、アメリカの新しい賭けだった。
「ボーイング社が開発中の新型超重爆撃機、B-29スーパーフォートレスです」
アーノルドは模型へ軽く手を添えた。
「試作初号機は完成へ近づいています。現在、初飛行へ向けた最終準備が進められています」
マーシャルは図面を見る。
「完成の見込みは」
「問題は残っています」
アーノルドは隠さなかった。
「新型エンジン、与圧された乗員区画、遠隔操作式銃塔。従来機にはない技術を、あまりにも多く採用しています」
「容易ではない」
「はい」
アーノルドは模型を見下ろした。
「ですが、完成させます」
短い言葉だった。
そこに迷いはない。
「計画上の全長は約三十メートル。全幅は四十三メートルを超えます」
副官が性能表を掲げる。
「二千二百馬力級のエンジンを四基搭載」
「最高速度は、時速五百七十キロ前後」
「高高度を飛行し、四トンを超える爆弾を搭載した長距離攻撃を想定しています」
将校たちが資料へ目を落とした。
それだけでも、現在の爆撃機を凌ぐ性能だった。
だがアーノルドが本当に伝えたいものは、別にあった。
「最大の価値は航続力です」
彼は太平洋の地図へ向かった。
「計画どおりの性能を発揮すれば、五千キロを超える長距離作戦が可能になります」
指示棒の先が、日本列島へ触れた。
「日本本土を、直接攻撃できます」
会議室が静かになった。
空母から発進する爆撃機では、継続的な本土攻撃はできない。
中国大陸の基地を使うことはできる。
だが燃料も、爆弾も、交換部品も、すべて長大な補給路で運ばなければならない。
巨大な爆撃機を多数運用するには、あまりにも不安定だった。
マーシャルは木製模型ではなく、地図を見ていた。
「その機体を飛ばす基地が必要ですね」
「そのとおりです」
アーノルドは中国大陸を指した。
「中国からの攻撃は可能です。しかし、大規模な航空攻勢を継続するには補給が足りません」
指示棒が南へ移る。
オーストラリア。
ニューギニア。
「この方面からでは、日本本土まで遠すぎます」
「では、どこなら届くのです」
マーシャルの問いに、アーノルドは答えなかった。
代わりに、指示棒を太平洋の中央へ動かした。
棒の先が、小さな島々で止まる。
「この地域です」
副官が地図の一部を拡大した。
マリアナ諸島。
サイパン。
テニアン。
グアム。
三つの島が、白い海図の上へ浮かび上がった。
「ここなら、日本本土をB-29の作戦圏内へ収められます」
「長い滑走路を建設する土地がある」
「港湾を整備すれば、燃料と爆弾を海上輸送できる」
「多数の機体を継続して運用する前進基地となります」
一人の参謀が資料を確認した。
「サイパンとテニアンは、日本の委任統治領です」
「グアムは違う」
別の将校が言った。
「グアムは我が国の領土だ。現在、日本軍に占領されている」
アーノルドが頷く。
「グアムは奪還」
指示棒が北へ動く。
「サイパンとテニアンは攻略になります」
そして三島を一つの円で囲んだ。
「しかし航空戦略上は、マリアナ全域を一つの目標として考える必要があります」
マーシャルは地図を見つめた。
「B-29が完成しても、マリアナがなければ日本本土への本格的な航空攻勢は難しい」
「はい、マーシャル将軍」
「機体だけでは戦争はできない」
「飛ばす場所が必要です」
二人の言葉には、命令する者と従う者という硬さはなかった。
陸軍全体を見渡す男。
航空戦力の未来を築こうとする男。
互いの責任を理解しているからこそ、余計な言葉はいらなかった。
◇
若い参謀が太平洋の地図を見た。
「しかし、マリアナまでは遠すぎます」
「そのとおりだ」
マーシャルが答えた。
「現在の我々に、いきなりマリアナを攻略する力はない」
日本軍は、今も太平洋の広大な地域に基地を持っている。
ラバウル。
ニューギニア。
ソロモン諸島。
幾重にも連なる飛行場と補給拠点。
その防衛線を越えずに、マリアナだけを奪うことはできない。
「まず、日本軍の前進を止めなければならない」
マーシャルが地図の南へ視線を移した。
オーストラリアとアメリカを結ぶ海上交通路。
その北側へ、日本軍の影が伸びつつある。
アーノルドも同じ場所を見た。
「日本軍がソロモン諸島の航空基地を完成させれば、我々の補給路が脅かされます」
「それだけではない」
マーシャルは言った。
「彼らを止められなければ、我々は攻勢へ移れない」
地図上に、まだ小さな印しか付けられていない島があった。
ガダルカナル。
日本軍は、そこで飛行場の建設を進めている。
「ここで日本軍の前進を止める」
マーシャルの指が、ガダルカナルへ置かれた。
「太平洋の主導権を取り戻す」
その指は、ゆっくりと北へ移る。
ニューギニア。
中部太平洋。
そして、遠いマリアナ。
「マリアナは、その先にある」
会議室にいた将校たちが、二つの場所を見比べた。
目の前に迫る争点。
ガダルカナル。
まだ遠い将来の目標。
マリアナ。
一本の道で直接結ばれているわけではない。
だが、最初の一歩を踏み出さなければ、遠い島々へ届くこともない。
◇
マーシャルはアーノルドへ向き直った。
「B-29の開発を続けてください」
「もちろんです」
「初飛行で問題が出れば、解決する」
「必要な生産設備も、人員も確保します」
アーノルドは静かに頷いた。
「必ず飛ばします、マーシャル将軍」
「期待しています、アーノルド将軍」
マーシャルは次に、参謀たちを見る。
「マリアナについて、基礎調査を始めてください」
参謀の一人が顔を上げる。
「攻略計画を立案するのですか」
「まだ早い」
マーシャルは即座に答えた。
「現時点で攻略を決定するわけではない」
「地形」
「既存の飛行場」
「港湾」
「長大な滑走路を建設できる土地」
「必要になった時、何も知らないでは済まされない」
「承知しました」
命令は静かだった。
だが、その瞬間から、マリアナは単なる地図上の島ではなくなった。
将来、必要となる場所。
アメリカが日本本土へ近づくための、巨大な踏み石。
マーシャルは三島を見つめた。
「今はまだ、日本の基地か」
「はい」
アーノルドが答える。
マーシャルは僅かに目を細めた。
「今は、まだ」
◇
会議が終わった。
将校たちは資料を抱え、静かに部屋を出ていく。
机の中央には、B-29の木製模型が残されていた。
まだ空を飛んでいない。
まだ爆弾を積んでいない。
日本本土へ向かうことなど、まだできない。
だが、その機体を飛ばす場所は、すでに探され始めていた。
アーノルドは模型を見つめた。
「どれほど優れた飛行機でも、基地がなければ飛べません」
マーシャルは、壁の地図から目を離さなかった。
「基地へ至る道も必要です」
「ええ」
二人の視線が、南太平洋へ向かう。
ガダルカナル。
まだ戦いは始まっていない。
日本軍は、そこへ飛行場を造ろうとしている。
アメリカは、その意味に気づいていた。
マーシャルは静かに言った。
「まずは南太平洋です」
アーノルドが頷く。
「その先に、マリアナがある」
地図には、二つの島影があった。
これから戦場となる島。
ガダルカナル。
その遥か先にある、未来の基地。
マリアナ。
どちらも今は、日本軍の側にある。
だがアメリカはすでに、その価値を測り始めていた。
そして太平洋では。
歴史を変える最初の戦いが、静かに近づいていた。




