歴史の鍵
第九十四話 歴史の鍵
未来基地。
管制室の大型モニターには、太平洋全域の地図が映し出されていた。
日本列島。
フィリピン。
ニューギニア。
ソロモン諸島。
そのさらに東。
青い海に浮かぶ、小さな島々。
一登はコーヒーカップを手にしたまま、黙って地図を見ていた。
昨夜、アルメディアから届いたログ。
原子爆弾の完成予測が早まっている。
自分たちが変えた戦争が、その開発を後押ししている。
その事実は、今も全員の胸に重く残っていた。
「京子」
「はい」
「史実では、原爆を積んだ飛行機は、どこから飛んだ?」
京子はすぐに答えなかった。
答えを知らないからではない。
その先にあるものを、慎重に選んでいるようだった。
「テニアン島です」
モニター上の一点が光る。
マリアナ諸島。
その中にある、小さな島。
「広島へ向かった機体も、長崎へ向かった機体も、テニアンから発進しました」
一登は地図へ近づいた。
「B-29か」
「はい」
京子が別の資料を表示する。
巨大な四発爆撃機。
長大な主翼。
高高度を飛び、日本本土へ大量の爆弾を運ぶために作られた機体。
美希が画面を見上げた。
「こんなに大きいんですね……」
「当時としては、桁違いです」
はるみが静かに言った。
「航続距離も、搭載量も」
幸雄が腕を組む。
「だが、どこからでも日本へ届くわけじゃない」
「そうです」
京子は地図を拡大した。
マリアナ諸島から日本本土へ、一筋の線が伸びる。
「B-29が爆弾を搭載し、日本本土まで往復するためには、前進基地が必要でした」
「それが、ここか」
「はい」
サイパン。
テニアン。
グアム。
三つの島が、地図上で光った。
◇
「史実では、一九四四年」
京子の声が管制室に響く。
「アメリカ軍はマリアナ諸島へ侵攻します」
画面に、史実の流れが表示された。
サイパンへの上陸。
マリアナ沖海戦。
グアム。
テニアン。
そして、日本軍の敗北。
「島々を占領したアメリカ軍は、既存の飛行場を拡張し、B-29を運用できる巨大基地を建設しました」
次の映像。
長く伸びる滑走路。
整備場。
燃料施設。
爆弾庫。
港湾から運び込まれる膨大な資材。
島そのものが、一つの巨大な航空基地へ変わっていく。
「そして、日本本土への爆撃が始まります」
誰も言葉を発しなかった。
未来の記録。
焼け落ちる町。
夜空を埋める爆撃機。
炎に包まれる東京。
一登は、静かに画面を見ていた。
「つまり」
幸雄が口を開く。
「マリアナを取られなければ、B-29は日本へ届かない」
「少なくとも、史実と同じ形では届きません」
京子の答えは慎重だった。
「中国大陸からの作戦も行われましたが、補給や運用に大きな制約がありました」
「だから米軍はマリアナを欲しがった」
「はい」
京子はテニアンを指した。
「ここを得たことで、B-29は継続的に日本本土を爆撃できるようになりました」
一登は地図を見つめた。
しばらくして、静かに言った。
「でも今は」
全員が一登を見る。
「まだ日本の基地なんだろ?」
京子は頷いた。
「はい」
「サイパンも」
「はい」
「テニアンも」
「はい」
「グアムもか」
「グアムも現在は日本軍の占領下です」
一登は、もう一度地図を見た。
未来では、奪われた島。
だが今は違う。
まだ敵の基地ではない。
まだB-29の滑走路もない。
まだ原爆を積んだ機体も、そこから飛び立ってはいない。
「だったら」
一登が言った。
「まだ失ってない」
短い言葉だった。
だが、その一言で管制室の空気が変わった。
◇
京子は一登を見つめた。
「マリアナを守れば、原爆投下を防げる可能性はあります」
「可能性は、か」
「はい」
京子は別の予測図を表示する。
枝分かれする未来。
一つは、マリアナを失う史実。
一つは、日本軍が保持し続ける未来。
さらに、その先で無数に分岐している。
「ただし、マリアナを守れば全てが解決するわけではありません」
「戦争が長引く」
はるみが言った。
「そうです」
京子は頷いた。
「アメリカは別の基地を探すかもしれません。別の投下方法を考える可能性もあります」
幸雄が画面を見る。
「それに、日本軍が強く残れば、原爆開発はさらに加速するかもしれない」
「はい」
美希が不安そうに一登を見る。
「じゃあ、守っても駄目なんですか?」
一登はすぐには答えなかった。
地図の上で、三つの島が光っている。
「駄目かどうかは分からん」
「でも……」
「分からんから、何もしないのか?」
美希が黙った。
一登はテニアンを指した。
「史実では、ここから原爆を積んだB-29が飛んだ」
「はい」
「だったら、少なくともここは一つの鍵だ」
京子は一登の言葉を待った。
「守れば全部終わるわけじゃない」
「だが、奪われれば、その先が見えてる」
一登は地図から目を離さなかった。
「なら、取らせるわけにはいかん」
◇
幸雄が低く言った。
「でも、まだ二年近く先だぞ」
「分かってる」
「今すぐ行っても、何も起きちゃいない」
「それも分かってる」
一登は椅子へ座った。
「だから今、飛ぶわけじゃない」
美希が首をかしげる。
「じゃあ、どうするんですか?」
「調べる」
「何を?」
「全部だ」
一登はコーヒーカップを机へ置いた。
「島の守備隊」
「飛行場」
「補給路」
「周辺の海域」
「アメリカが、どうやってそこまで来るのか」
画面の地図を指でなぞる。
ソロモン。
ニューギニア。
ギルバート。
マーシャル。
その先に、マリアナがある。
「敵は、いきなりテニアンへ来るわけじゃない」
「そこまでの道がある」
京子が静かに言った。
「はい」
「なら、その道を見なきゃならん」
一登は太平洋全体を見渡した。
「基地を守るだけじゃ駄目だ」
「そこへ敵を近づけない流れを作る」
幸雄が腕を組んだ。
「戦場を一つずつ変えるってことか」
「違う」
一登は首を振った。
「戦場だけじゃない」
「補給も」
「港も」
「飛行場も」
「全部だ」
その言葉に、はるみが少しだけ表情を変えた。
「補給線……」
「ああ」
一登は頷く。
「戦争は、飛行機だけでやってるんじゃない」
ブルーゼロがどれほど強くても。
一機で全てを守れるわけではない。
敵の侵攻を止めるには、もっと大きな流れを見なければならない。
◇
京子は地図を切り替えた。
現在の日本軍勢力圏。
未来の米軍侵攻ルート。
二つが重なる。
今はまだ、日本側の色で塗られているマリアナ。
だが、その周囲には、未来の矢印が伸びていた。
美希がその矢印を見つめる。
「今はまだ、日本の場所なんですよね」
「そうだ」
一登が答える。
「未来のB-29基地じゃない」
「今は、日本の基地だ」
美希は小さく頷いた。
一登は画面のテニアンへ指を置いた。
「未来人にとっては、ここは失われた場所かもしれん」
京子の表情がわずかに揺れた。
「でも俺にとっては違う」
一登は、ゆっくりと言った。
「まだ、失ってない場所だ」
管制室に静かな余韻が残った。
未来を知る者たちは、結末から歴史を見る。
だが一登は、その結末へ向かう途中にいる。
まだ決まっていない時間の中に。
まだ変えられる場所に。
◇
一登は地図を見ながら考えていた。
マリアナを守る。
それだけでは足りない。
だが、何もしなければ、史実と同じ道を進む。
サイパンを失い。
テニアンを失い。
巨大な滑走路が造られ。
B-29が日本へ向かう。
そして、最後には原爆を積んだ機体が飛び立つ。
そこまでの道筋は、すでに分かっている。
ならば。
どこを変えるのか。
いつ変えるのか。
どう変えるのか。
一登は、地図に散らばる島々を見た。
歴史の鍵は、一つではない。
だが、その中に確かに、未来へ続く扉がある。
「京子」
「はい」
「マリアナに関する記録を全部集めてくれ」
「守備隊だけでなく、補給、飛行場、周辺海域、米軍の侵攻計画まで」
「分かりました」
「まだ飛ばない」
一登は静かに言った。
「でも、今度飛ぶ時は」
地図の向こうに広がる太平洋を見つめる。
「目の前の敵だけを見るわけにはいかんな」
ブルーゼロは、格納庫で静かに翼を休めている。
まだマリアナへ向かう時ではない。
だが、その島々はこの日、一登たちの戦いの中へ初めて姿を現した。
未来では、B-29が飛び立つ場所。
今はまだ、日本の基地。
そして。
歴史を変えるための、最初の鍵だった。




