痛恨
第八十七話 痛恨
米軍作戦室の空気は、冷えていた。
長机の上には、太平洋の海図が広げられている。
赤い印が、いくつも付けられていた。
輸送船団。
油槽船。
弾薬輸送。
そして、その近くに現れたPhantomの記録。
サッチ少佐は、海図を見下ろしたまま言った。
「補給線ですか。実に分かりやすい」
情報士官が頷く。
「はい。出現率は、他の作戦域より明らかに高くなっています」
「でしょうね」
サッチは、赤鉛筆の先で航路を軽く叩いた。
「Phantomは、船を見捨てません」
誰も笑わなかった。
それは、もう噂ではなかった。
「では、攻撃を?」
「攻撃はします」
サッチは静かに答えた。
「ですが、目的を間違えないでください」
ハーパー大尉は黙っていた。
隣にはリチャード中尉がいる。
サッチは、ようやく顔を上げた。
「君達の仕事は補給船を沈めることではありません」
短い沈黙。
「Phantomがどこを見るか。それを観察するのです」
ハーパーの目が、わずかに動いた。
「はい」
「追ってはいけません」
サッチは続けた。
「奴の後ろを取ろうと焦れば、君は死にます」
リチャードが口を開きかけたが、何も言わなかった。
「君たちは、訓練を積みました」
サッチは、二人を見た。
「ですが、本物のPhantomは訓練とは違います」
ハーパーは静かに頷く。
「分かっています」
「なら結構」
サッチは赤鉛筆を置いた。
「刃を置きなさい。奴がそこを見る、その瞬間にチャンスは来ます」
◇
格納庫には、二機の戦闘機が並んでいた。
ガンメタリックの機体。
尾翼に銀色の文字。
PHANTOM HUNTER。
ハーパーは、その機体を見上げていた。
本土での訓練は、嫌というほど積んだ。
Phantomの飛行記録。
射線。
回避。
上昇。
捻り込み。
何度も見た。
何度も追った。
だが、それは記録の中の幽霊だった。
本物は違う。
こちらを見てくる。
こちらの一手を、さらに先から切ってくる。
リチャードが隣に来た。
「いよいよだな」
「ああ」
「勝てると思うか」
ハーパーは、少しだけ間を置いた。
「勝つんじゃない」
「じゃあ何だ」
「届かせる」
リチャードは小さく笑った。
「まずは、そこからか」
ハーパーは操縦席へ手を掛けた。
「今日、届かせる、そして撃つ」
二機のPhantom Hunterが、滑走路へ向かった。
◇
未来基地。
美希の端末が短く鳴った。
「京子さん」
声が硬い。
「補給線です」
大型モニターに海図が浮かぶ。
南方補給船団。
敵攻撃隊、接近中。
護衛は少ない。
直掩の零戦も、間に合わない。
慎一は画面を見るなり言った。
「出る」
京子は慎一を見た。
「誘われてるわ」
「だろうな」
「補給線を狙えば、あなたが出る。米軍も、もう読んでいるはずよ」
「読まれても、沈めさせる理由にはならん」
幸雄が鼻を鳴らした。
「損な性格だな」
「今さら直らん」
美希が通信を拾った。
「攻撃隊の後方に二機。通常とは違う反応です」
「新型か」
「コードネームが出ました」
美希は画面を見る。
「Phantom Hunter」
慎一は少しだけ笑った。
「俺専用か」
京子は笑わなかった。
「慎一さん」
「ん?」
「全部を救おうとしないで」
慎一は京子を見た。
「難しいことを言うな」
「あなたは、守るものが多いと全部を見ようとする」
京子の声は静かだった。
「そこを狙われる」
慎一は少しだけ目を細めた。
「覚えておく」
◇
草むらに、朝の風が吹いていた。
美希の声が通信に入る。
『ゼロちゃん、転送します』
空気が、わずかに揺れた。
次の瞬間。
ブルーゼロが静かに現れた。
慎一は乗り込む。
ハーネスを締める。
計器を確認する。
通信。
レーダー。
レールガン。
空間磁気コイル。
異常なし。
『空間磁気コイル、正常』
『周辺区域、異常なし』
『ブルーゼロ、発進できます』
「行くか」
栄改が低く回り始めた。
空間磁気コイルが機体を支える。
ブルーゼロは、草の上に浮いた。
高度、約二メートル。
主脚が静かに格納される。
『粒子加速噴射起動』
「了解」
シュイイーン。
細い音が、朝の風の下を走った。
ブルーゼロは草地を抜け、砂浜を越え、海へ出る。
海面を滑る青い機体の下で、朝の光だけが揺れていた。
速度は上がる。
二百。
三百。
四百。
五百。
島は、もう後方に小さくなっていた。
未来基地から十キロ。
慎一は栄改の出力を上げた。
プロペラ後流が加わる。
マリンブルーの零戦が速度を増す。
空間磁気コイルで遮られた海面をプロペラ後流が撫でた。
海面に白い軌跡が伸びて行く。
ブルーゼロの速度は700キロを示していた。
◇
補給船団は、低速で南へ進んでいた。
輸送船。
油槽船。
護衛艦。
甲板では、見張り員が空を睨んでいる。
その目に、黒い点が映った。
一つではない。
複数。
「敵機!」
警報が鳴る。
対空機銃が空を向く。
米軍攻撃隊は、すでに降下に入っていた。
雷撃機が海面近くへ沈む。
爆撃機が上空から角度を作る。
護衛機が、その周囲を固める。
上空。
二機のガンメタリックの機体が、少し離れていた。
ハーパーとリチャードだった。
「来ると思うか」
リチャードが訊いた。
ハーパーは補給船団を見下ろした。
遅い船。
薄い護衛。
逃げられない人間。
「ああ」
短く答える。
「来る」
その時、海面の一点が動いた。
青い影。
海と空の境目を、何かが走っていた。
ハーパーは息を止めた。
「あれか?」
薄いマリンブルーの零戦が、攻撃隊の下へ入り込んでいた。
誰も気づいていない。
次の瞬間。
レールガンが鳴った。
ガガッ。
先頭の雷撃機が砕けた。
二機目。
三機目。
海面近くにいた攻撃隊の腹が裂ける。
『下だ!』
『海から来た!』
『Phantomだ!』
編隊が乱れる。
補給船団へ向かっていた攻撃線が崩れた。
一機。
また一機。
爆弾が海へ落ち、水柱が上がった。
船団の甲板で、誰かが叫ぶ。
「守護神だ!」
◇
ハーパーは動いた。
「リチャード、左を切れ」
「了解」
「私は上を押さえる」
二機のPhantom Hunterが、同時に角度を変えた。
慎一は、それを見ていた。、
上に一機。
左に一機。
追ってこない。
逃げてもいない。
空を塞いでいる。
「今までと違うな」
慎一は呟いた。
『慎一さん、二機が分かれています』
「見えてる」
『攻撃隊、右下に二機。うち一機、魚雷を抱えています』
「そっちが先だ」
慎一は機体を沈めた。
その瞬間、上のPhantom Hunterが撃った。
当てに来た弾ではない。
慎一が降りる先を予測した弾だった。
ブルーゼロは、わずかに横へ流れる。
弾道が風防の上を抜けた。
近い。
「読んできたな」
慎一は、海面近くへ沈む。
魚雷機が投下姿勢に入っていた。
7.7ミリ。
短い連射。
一機が黒煙を噴く。
もう一機が魚雷を落とした。
白い航跡が、輸送船へ向かう。
「しまった」
慎一は機首を下げた。
魚雷を撃つ。
海面を走る小さな影。
レールガンの照準が重なる。
ガッ。
一発。
水柱が上がった。
魚雷は輸送船の手前で砕けた。
甲板の兵たちが伏せる。
慎一は、すぐに機体を上げた。
海面から上昇。
その先に、護衛戦闘機が一機、降ってくる。
慎一は操縦桿を引いたまま、照準を合わせた。
ガガッ。
敵戦闘機が火を噴く。
黒煙を引きながら落ちていく。
ブルーゼロは、その落ちる機体を追い抜いた。
空へ一気にかけあがる。
全ての戦闘機を飛び超えて高く飛び上がる。
慎一は、操縦桿を引き、ラダーを蹴って機体を捻った。
上昇からの反転。
空を切り返すための捻り込み。
これまでなら、その一瞬で敵の射線は外れていた。
だが。
ハーパーは、そこだけを待っていた。
◇
何度も見た。
訓練で。
記録で。
頭の中で。
海面から魚雷を撃ち、上昇し、敵を一機落とし、さらに抜ける。
その後、必ず機体を捻る。
次の射線を取るために。
その一瞬だけ、Phantomの速度が落ちる。
ハーパーは照準器の中で、青い零戦を捉えた。
「そこです」
声は低かった。
引き金を絞る。
ダダダダダ!
強化された十二・七ミリ弾が、空を走った。
◇
「しまった!」
それは一瞬の油断だった。
俺は、気づいた。
遅い。
風防の右前方に、火花が散った。
次の瞬間。
透明な壁が砕けた。
破片が操縦席へ飛び込む。
熱い衝撃が、右肩の付け根を撃ち抜いた。
「ぐっ……!」
12.7ミリの弾丸が開けた穴がばっくりと開いていた。
声にならない息が漏れた。
右腕から力が消える。
血が吹き出して飛び散った。
風防の内側に、赤いしぶきが広がる。
照準器。
計器盤。
操縦桿。
すべてが赤く染まった。
京子の声が聞こえた。
『慎一さん!?』
返事はできなかった。
視界が歪む。
音が遠くなる。
ブルーゼロは、捻り込みの姿勢を崩した。
回転が残ったまま、機首が下を向く。
海へ。
頭から。
落ちていく。
◇
「当たった!」
リチャードが叫んだ。
「Phantomに当たったぞ!」
ハーパーは答えなかった。
風防に赤が散ったのを見た。
青い零戦が、回転しながら落ちていく。
「落ちるな……」
その声に、喜びはなかった。
ただ、見ていた。
Phantom Hunterは、初めてPhantomに届いた。
だが、ハーパーはまだ笑わなかった。
◇
未来基地の管制室で、警報が鳴った。
美希の顔が青ざめる。
「生体反応、急低下!」
はるみが端末を叩く。
「右肩部に損傷反応! 出血!」
京子は叫んだ。
「慎一さん! 返事をして!」
返事はない。
モニターの中で、ブルーゼロは回転しながら落ちている。
高度が減る。
海面が近づく。
幸雄が歯を食いしばった。
「操縦が戻ってねえ!」
「慎一さん!」
京子の声が、管制室に響いた。
◇
補給船団の甲板でも、誰もが空を見ていた。
守護神が撃たれた。
風防が赤く染まった。
青い零戦が、頭から海へ落ちていく。
「守護神が……」
誰かが呟いた。
その先は、誰も言えなかった。
青い機体は、空と海を何度も入れ替えながら落ちていく。
もう間に合わない。
未来基地も。
補給船団も。
米軍機も。
誰もが、そう思った。
◇
慎一は動かなかった。
血が風防の内側に広がっている。
右肩は、もう自分のものではないようだった。
左手も、操縦桿から力を失いかけている。
空。
海。
赤。
青。
回る。
落ちる。
音が遠い。
さらに遠くなる。
海面が迫っていた。
もう、誰も間に合わない。
その時。
操縦桿を握る慎一の指が、ぴくりと動いた。




