帰ってきたゼロちゃん
第八十四話 帰ってきたゼロちゃん
薄いマリンブルーの零戦が、格納庫へ転送された。
表示板の隅に、機体固定完了の表示が灯る。
格納庫内カメラには、静かに収まった青い零戦が映っていた。
「ゼロちゃん、帰って来ましたね」
美希が、ほっとしたように言った。
京子は小さく頷く。
「ええ。無事に帰ってきたわ」
はるみも胸に手を当て、息を吐いた。
「よかったです」
幸雄は腕を組んだまま、表示板を見ている。
「機体反応も安定してる。損傷もない」
その時、作戦室の扉が開いた。
慎一が入って来る。
「ただいま」
京子が振り向き、小さく笑った。
「お帰りなさい」
美希もぱっと顔を明るくした。
「慎一さん、お帰りなさい! ゼロちゃんも無事です!」
慎一は表示板を見る。
格納庫に収まった青い零戦。
海から現れ、空へ上がり、補給船団を守って帰ってきた機体。
慎一は少し首を傾げた。
「ところで美希」
「はい?」
「いつまでその呼び方なんだ?」
美希はきょとんとしてから、当然のように言った。
「だって、ゼロちゃんはゼロちゃんです」
幸雄がぼそりと言った。
「説明になってないな」
京子が小さく笑った。
作戦室の空気が、少しだけ柔らかくなった。
◇
表示板には、今回の戦闘記録が再生されていた。
補給船団。
米軍攻撃隊。
海面すれすれから接近した零戦。
そこから一気に跳ね上がり、下から三機。
さらに上空へ抜け、反転。
次の三機を上から撃ち落とす。
逃げに入った敵機は、距離が離れたところで一機ずつ消えていった。
記録の上では、ただ光点が消えるだけだった。
だが、その一つ一つに人が乗っていた。
京子は黙って見ていた。
幸雄が画面の一部を拡大する。
「海面滑空のデータだ」
表示が切り替わる。
高度。
速度。
空間磁気コイルの出力。
海面への干渉値。
幸雄が少し目を細めた。
「思った以上だな」
「何がですか?」
美希が覗き込む。
「波が立ってない」
幸雄は指で数値を示した。
「機体と海面が、完全に切れてる。見た目は海の上を滑ってるが、実際には触れてない」
はるみが画面を見つめる。
「航跡もありません」
「そうだ」
幸雄が頷く。
「これなら、どこから来て、どこへ帰ったかは追えん」
美希の顔が明るくなった。
「ゼロちゃん、すごいです!」
「すごいのはコイルだ」
幸雄が言う。
「でも、飛ばしたのは慎一さんです」
美希はすぐに言い返した。
慎一は少し困ったように笑う。
「飛んだだけだ」
「その“飛んだだけ”が普通じゃありません」
京子は表示板を見たまま、静かに言った。
「でも、成功ね」
「ああ」
幸雄は低く答える。
「海面発進も、海面滑空も、実戦で使える」
その言葉に、作戦室の空気が少しだけ引き締まった。
ただの成功ではない。
これで、慎一の零戦はまた一つ、新しい入り口を手に入れた。
空からだけではない。
海からも現れる守護神。
それは敵にとって、見えない脅威になる。
◇
表示板には、補給船団の光点が残っていた。
攻撃を受けたはずの船団は、今も航路を進んでいる。
沈んでいない。
止まっていない。
京子が静かに言った。
「今回は、補給船団を守れました」
慎一は、その光点を見つめていた。
「戦争は、良くない」
ぽつりとした声だった。
誰も口を挟まなかった。
「もちろんだ。けど、どうしても戦わなきゃならない時もある」
慎一の視線は、補給船団の光点から動かない。
「でもな」
少しだけ間が空いた。
「飯や薬を運ぶ船を沈めるのは違う」
作戦室が静かになった。
「あの船には、弾だけじゃない。食料も、薬も、部品も、人の明日も乗ってる」
美希は黙っていた。
はるみも、何も言わない。
幸雄は腕を組んだまま、じっと表示板を見ている。
「戦うなら、戦う相手だけでいい」
慎一は短く息を吐いた。
「戦わない人間を巻き込むな。町を焼くな。飯や薬を運ぶ船を沈めるな」
京子は慎一を見ていた。
慎一の声は大きくない。
怒鳴ってもいない。
だが、その言葉だけが、静かに作戦室へ沈んでいく。
「そんな戦い方は、やめろ」
慎一、いや、それは仲川一登の言葉なのだろう。
誰もすぐには答えなかった。
表示板の上で、補給船団の光点だけがゆっくり進んでいる。
やがて京子が、小さく頷いた。
「だから、全機落としたのね」
「ああ」
慎一は短く答えた。
「逃がせば、また狙う」
幸雄が低く言った。
「帰ってこなかった攻撃隊、か」
慎一は何も言わない。
だが、その意味は全員に伝わっていた。
補給船を狙えば、帰れない。
それを米軍に刻む。
それは復讐ではない。
次に船を狙わせないための、守るための戦いだった。
◇
重くなりかけた空気を、やわらかく破ったのは美希だった。
「……コーヒー、淹れてきます」
少しだけ鼻にかかった、いつもの声。
京子が微笑む。
「お願い」
しばらくして、美希はマグカップを二つ持って戻ってきた。
「慎一さん、京子さん、どうぞ」
湯気が白く上がっている。
その時だった。
美希の足先が、床に置かれていた工具箱の角に引っかかった。
「きゃっ」
体が前へ傾く。
二つのマグカップが、手を離れた。
コーヒーが大きく揺れる。
誰もが、こぼれたと思った。
次の瞬間。
慎一の両手が、二つのマグカップを受け止めていた。
右手に一つ。
左手に一つ。
どちらも傾いていない。
コーヒーは、一滴もこぼれていなかった。
美希は目を丸くした。
「え……?」
慎一は、何事もなかったように片方を京子へ渡す。
「熱いから気を付けろ」
美希は、慎一の手元と顔を何度も見比べた。
「今、どうやったんですか?」
「取っただけだ」
「取っただけで、コーヒーが一滴もこぼれないんですか?」
慎一は少し首を傾げた。
「こぼれてないだろ」
「そういう問題じゃないです!」
幸雄が工具箱を足で脇へ寄せた。
「普通は取れんと思うぞ」
はるみが小さく笑う。
「私、もう少しで叫ぶところでした」
京子はマグカップを受け取り、苦笑した。
「慎一だから」
「京子さん、そこで納得しないでください!」
美希だけが、まだマグカップを見つめていた。
慎一はコーヒーを一口飲む。
「うまいな」
美希は一瞬黙り、それから少し赤くなった。
「……ありがとうございます」
作戦室に、少しだけ明るい空気が戻った。
◇
表示板の隅では、格納庫に収まったゼロちゃんの機体反応が、今も静かに灯っていた。
帰ってきた。
守って帰ってきた。
そしてまた、次に守るべきものがあれば飛ぶ。
京子はマグカップを両手で包みながら、表示板を見た。
「青い守護神、ね」
美希が嬉しそうに頷く。
「はい。ゼロちゃんです」
慎一は苦笑した。
「まだ言うか」
「言います」
美希は胸を張った。
「だって、帰って来てくれましたから」
その言葉に、慎一は少しだけ目を細めた。
基地の外では、夜の海が静かに揺れている。
その海の上を、波一つ立てずに帰ってきた青い零戦。
それは、ただ敵を倒すための機体ではなかった。
沈むはずだった船を守るための翼。
届くはずだった食料を、薬を、明日を、届けるための翼。
慎一は表示板を見つめた。
補給船団の光点は、まだ進んでいる。
それでいい。
今は、それでいい。




