海から来た幻影
第八十話 海から来た幻影
試験飛行から二日後。
未来基地の監視室には、いつもの低い機械音が流れていた。
巨大な表示板には、ソロモン方面の海域が映し出されている。
はるみは端末を抱えたまま、海域の反応を追っていた。
京子は腕を組み、黙って表示板を見つめている。
幸雄は少し離れた席で、整備記録を確認していた。
美希だけが、マグカップを両手で包むように持っている。
「……このコーヒー、少し薄くないですか」
「今それを議題にする必要はない」
幸雄が即座に言った。
「でも、作戦会議で眠くなったら困ります」
「眠くなるな」
「努力します」
京子が小さく息を吐いた。
その時だった。
はるみの端末が、短く鳴った。
警報ではなかった。
だが、監視室の空気を変えるには十分だった。
「反応を補足しました」
はるみが表示板を切り替える。
海図の一点に、日本側の補給船団を示す小さな光点が並んだ。
その進路の北東。
複数の米軍機を示す反応が、ゆっくりと近づいている。
「日本の補給船団です」
はるみが言った。
「護衛機は少数。米軍機、接近中」
京子の目が細くなった。
「狙われているわね」
慎一はすでに立ち上がっていた。
表示板の上で、米軍機の反応が補給船団へ向かっている。
迷いのない動き、それは獲物を見つけた鳥のように、一直線に補給船団に向かっていた。
京子が振り向いた。
「慎一、出動よ」
「ああ」
慎一は短く答えた。
「行ってくる」
美希がマグカップを置いた。
「新しいゼロちゃんの初仕事ですね」
幸雄が鼻で笑う。
「仕事は同じだ」
そして、表示板の中の補給船団を見た。
「守るだけだ」
◇
いつもの草地に、風が吹いていた。
そこは、あの日、三上慎一が零戦と共に不時着した場所、未来基地の中でありながら、そこだけは、時間が止まったような場所だった。
慎一は草地の端に立ち、空を見上げた。
次の瞬間。
草の上に、淡い光が走る、空気がわずかに揺れる。
何もなかった場所に、薄いマリンブルーの零戦が静かに姿を現した。
物質転送。
格納庫から発進地点へ、零戦だけが送られてきたのだ。
機体は、静かにそこに現れた。
その零戦は、海と空の境界に溶ける色をまとっている。
慎一は主翼に手を掛け、操縦席へ上がった。
風防を閉める。
ゼネレーターのスイッチを入れた。
栄改が低く回り始め、計器類が順に目を覚ます。
「周辺区域確認」
はるみの声が通信に入る。
「異常なし。偵察機影なし。発進可能です」
京子が続ける。
「空間磁気コイル、正常」
零戦が、ふわりとブッシュの上に浮き上がる。
主脚が静かに格納される。
幸雄がモニターを見ながら、短く告げた。
「粒子加速噴射起動しろ」
「了解」
零戦は音もなく前へ動き出した。
ブッシュの上を滑ら、白い砂浜を越える。
そして、海へ出た。
水面すれすれを、薄いマリンブルーの零戦が滑っていく。
空間磁気コイルが零戦と海面を遮断している。
その姿は、空を飛ぶ戦闘機ではなかった。
海と空の間を進む幻影だった。
◇
日本の補給船団は、低速で南へ進んでいた。
甲板の上では、見張り員が空を見上げている。
護衛の零戦は少ない。
上空には、米軍機の影が見え始めていた。
「敵機!」
誰かが叫んだ。
船団の空気が一気に固まる。
護衛の零戦隊が上昇する。
だが、数が足りない。
米軍機は補給船を狙って降下を始めている、米軍側は、勝利を確信していた。
「敵護衛機は少数」
「補給船を叩く」
「Phantomの反応は?」
「なし。レーダーにも何も映らない」
「よし、一気に叩く、行くぞ!」
慎一は下から見上げていた。
補給船に向かって行く爆撃機。
時間が無い。
栄改の出力を解放する。
栄改が唸りを上げた。
グォォォォォン!!
その音は、突然そこに生まれた。
日本の護衛機の搭乗員たちは、目を見開いた。
何もなかったはずの前方。
海の上から、一機の零戦が飛び出してきた。
「なっ……!」
「どこから来た!?」
一方、米軍側は混乱していた。
「下だ!零戦だ!」
「海から出てきたぞ!」
「そんな馬鹿な!」
別のパイロットが叫んだ。
その声に、全員が息を呑んだ。
通常の零戦ではない。
あり得ない角度。
あり得ない加速で突入してくる!
「Phantomだ!!」
叫びが無線を走る。
慎一は垂直に上昇して行った。
飛び上がりざま、トリガーを押す。
先頭の爆撃機が、空中で砕けた。
降下しかけていた機体の翼が吹き飛ぶ。
補給船に向かっていた米軍機の隊形が、一瞬で乱れた。
日本の搭乗員たちは、声を失ったままそれを見ていた。
さっきまで自分たちの前には、何もいなかった。
だが今は違う。
マリンブルーの零戦が、敵と補給船団の間にいる。
まるで海そのものが、日本の船を守るために一機の零戦を吐き出したかのようだった。
米軍機が炎を引いて落ちていく。
米軍の声が乱れる。
慎一は無言だった。
海面滑空でここまで近づいた。
そして、浮上した瞬間にはもう戦場の中心にいた。
敵が理解する前に、戦いは始まっている。
それが、新しいPhantomの戦い方だった。
◇
補給船の甲板で、見張り員が空を見上げていた。
最初は、何が起きたのか分からなかった。
敵機が迫っていた。
護衛機は少なかった。
もう駄目だと思った。
その時、海から零戦が現れた。
薄い青の機体。
見たことのない色。
だが、その飛び方は、人の目を奪う何かがあった。
敵機があっという間に崩れていく。
甲板の誰かが、低く言った。
「守護神が来た……」
その言葉は、波の音に溶けた。
だが、そこにいた全員が同じものを見ていた。
空から来たのではない。
海から来た零戦。
補給船団の前に突然現れた、マリンブルーの守護神。
その機体は、敵編隊の中を抜けて行った。
栄改が唸る。
青い零戦が、空を切り裂く。
米軍にとっては、悪夢だった。
日本にとっては、希望だった。
そしてそのどちらにとっても。
それは、海から現れた幻影だった。




