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不時着した零戦を改造して歴史を変える?不死の体を得た俺は第二次世界大戦を無双する。  作者: よみ はじめ
変わりゆく歴史編

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波紋

第七十六話 波紋


 プリンストンの朝は、静かだった。


 太平洋の空に響くエンジン音も、空母の甲板を叩く靴音も、ここにはない。


 窓の外では、若い木々の葉が風に揺れていた。


 芝生の上を、数人の学生が本を抱えて歩いていく。


 その姿は、戦争から切り離された別の世界のように見えた。


 プリンストン高等研究所。


 その一室に、一人の老人がいた。


 白く乱れた髪。


 深く刻まれた皺。


 古びたセーター。


 机の上には、数式の書かれた紙が何枚も重ねられている。


 その横には、一本のパイプと、古い万年筆。


 窓際には、使い込まれたバイオリンケースが置かれていた。


 アルベルト・アインシュタインは、静かに紙面を見つめていた。


 彼の瞳には、年老いた者の疲れと、少年のような好奇心が同時に宿っていた。


 その時、扉が軽く叩かれた。


「先生、お手紙です」


 秘書が封筒を差し出す。


「ありがとう」


 アインシュタインは穏やかに受け取った。


 差出人の名を見て、少しだけ眉を動かす。


「アラン・ホイットマン……」


 懐かしい名だった。


 派手な男ではない。


 だが、誠実に物を見る技術者だった。


 アインシュタインは封を切った。


 便箋を広げる。


 最初の一行が目に入った。


 先生、お変わりなくお過ごしですか。


 彼は小さく笑った。


 だが、その笑みはすぐに消えた。


 手紙には、奇妙な報告が記されていた。


 ある日本軍機。


 零戦。


 速度を失ったまま空中に留まり、爆撃機の降下に合わせて高度だけを下げたという。


 複数の証言。


 時間。


 高度。


 位置。


 そして、共通する一つの現象。


 零戦は、止まっていた。


 にもかかわらず、落ちなかった。


 アインシュタインは、しばらく便箋から目を離さなかった。


 読み終えても、すぐには何も言わない。


 窓の外で、木の葉が揺れている。


 やがて、彼は静かに呟いた。


「彼は、正しい問いを立てている」


 秘書は何も言わなかった。


 アインシュタインはもう一度、手紙の最後に目を落とした。


 私は敵を倒す方法を知りたいのではありません。


 私は、何を見たのかを知りたいのです。


 その一文を、彼は長く見つめた。


「戦争は、人を急がせる」


 アインシュタインは眼鏡を外し、机に置いた。


「だが、自然は急がない」


 彼は立ち上がり、本棚へ向かった。


 古びたノートを一冊取り出す。


 表紙は擦り切れ、角は丸くなっていた。


 重力。


 空間。


 時間。


 かつて自分が追い続けた問いが、その中に眠っている。


 重力とは、単なる力ではない。


 時空の曲がりである。


 それを人類は、まだ完全には理解していない。


 アインシュタインはページをめくった。


「反重力……」


 彼は小さく首を振った。


「そんな言葉で片付けるには早すぎる」


 固定翼機は、相対風を失えば揚力を失う。


 止まれば落ちる。


 それは航空工学の話だ。


 だが、もし落ちなかったのなら。


 その機体を支えていたものは何か。


 上向きの力か。


 未知の場か。


 あるいは、機体の周囲の空間そのものが、通常とは違う振る舞いをしたのか。


 アインシュタインは、机へ戻った。


 便箋を取り出す。


 返事を書くためではない。


 まず、問いを書き留めるためだった。


 万年筆を手に取る。


 そして、紙の上に短く記した。


 固定翼機が、揚力なしに空中に留まる条件。


 その一行を見つめ、彼はしばらく黙った。


 質量とエネルギー。


 光。


 重力。


 人類は、自然の秘密を一つずつ開いてきた。


 だが、秘密を開いた人間が、その力にふさわしいほど賢いとは限らない。


 彼はそれを知っていた。


 かつて、自分の理論が示したもの。


 小さな質量が、途方もないエネルギーへ変わるという事実。


 それは、自然の美しい真理であると同時に、人間にとって危うい扉でもあった。


 まだ、その扉の向こうで何が起きるのかを、彼は知らない。


 都市が焼かれる未来など、まだ誰も見てはいない。


 だが、ホイットマンの手紙は、別の小さな不安を彼の中に残した。


 人間は、理解する前に力を使おうとする。


 その性急さこそが、いつも危うい。


 アインシュタインは、窓の外を見た。


 芝生の上を歩く若者たち。


 風に揺れる木々。


 静かな朝。


 その平和な景色の中に、戦場から届いた一通の手紙が、小さな波紋を広げていた。


「これは、兵器の話ではない」


 彼は呟いた。


「人間が、理解する前に使おうとしている力の話だ」


 その声は、誰に向けたものでもなかった。


 アインシュタインは、ホイットマンの手紙をもう一度読み返した。


 証言は複数。


 写真はない。


 だが、それでよかった。


 写真は一瞬を切り取る。


 一瞬は、人を欺く。


 大切なのは、観測の積み重ねだった。


 時刻。


 高度。


 位置。


 証言の一致。


 現象が存在するかどうかは、そこから始まる。


 彼は秘書を呼んだ。


「ホイットマン博士に返事を」


「はい、先生」


「まず、すべての証言を送ってもらいなさい」


 秘書が頷く。


「爆撃機の降下記録。目撃者の証言。時刻。高度。可能なら気象条件も」


 アインシュタインは少しだけ考えた。


「そして、その零戦について分かっていることも」


「零戦、ですか」


「ああ」


 彼は机の上の手紙を見た。


「もし固定翼機が固定翼機として振る舞わなかったのなら、我々はまず、何を観測したのかを知らねばならない」


 秘書は静かにメモを取った。


 アインシュタインは、再び便箋に向かった。


 ホイットマンへの返事は、まだ短いものだった。


 答えではない。


 問いを返すための返事だった。


 彼は書いた。


 君の手紙を読みました。


 結論を急いではいけません。


 しかし、君が感じた違和感は正しい。


 これは、航空機の性能に関する問題ではなく、観測された現象そのものに関する問題です。


 まず、すべての記録を送って下さい。


 我々は、何を見たのかを知らなければなりません。


 アインシュタインはそこでペンを止めた。


 最後に一文を書き添える。


 人間はしばしば、理解したと思った瞬間に、最も危うくなります。


 彼はしばらくその一文を見ていた。


 やがて便箋を折り、封筒に入れる。


 机の上には、ホイットマンの手紙が残っていた。


 一機の零戦。


 太平洋の空で、数秒だけ止まった機体。


 その数秒は、誰かを撃墜した時間でもあった。


 そして誰かを救った時間でもあった。


 だが、それ以上に。


 その数秒は、海を越え、アメリカ本土へ届き、ひとりの物理学者の心に小さな波紋を作った。


 アインシュタインは窓の外を見た。


 風はまだ、静かに木々を揺らしている。


 波紋は小さい。


 だが、一度広がり始めた波紋は、消えるまでに時間がかかる。


 彼は、もう一度だけ呟いた。


「正しい問いは、時に答えよりも重い」


 プリンストンの朝は、変わらず静かだった。


 だが、その静けさの中で、歴史はほんのわずかに揺れ始めていた。

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