プリンストンへの手紙
第七十五話 プリンストンへの手紙
アメリカ本土。
東海岸から遠く離れた航空技術試験施設の一室に、朝の光は入らなかった。
窓は厚いカーテンで閉ざされ、壁には新型戦闘機の三面図が何枚も貼られている。
机の上には、計算尺、分度器、万年筆。
そして、幾つもの報告書が重ねられていた。
コーヒーカップの中身は、とうに冷めている。
だが、その男は気にしなかった。
濃い灰色のスーツに、少し緩めたネクタイ。
白髪の混じり始めた短い髪は整えられていたが、額にかかった前髪だけがわずかに乱れている。
年齢は五十歳前後。
細身で背は高い。
軍人ではない。
だが、その場にいる誰よりも、この部屋の空気を支配していた。
眼鏡の奥の目は穏やかだった。
けれど、設計図の上では、どんな小さな矛盾も逃さない。
アラン・ホイットマン博士。
Phantom Hunter計画、技術主任。
彼は敵を憎むために、この部屋にいるのではなかった。
理解できないものを、理解するためにいた。
その時、扉が叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのは、ハーパー中尉だった。
ホイットマンは顔を上げない。
「入りたまえ」
ハーパーは机の前まで進み、敬礼した。
ホイットマンはようやく眼鏡を外し、ハンカチでゆっくりとレンズを拭いた。
そして掛け直す。
その仕草が終わった時、彼の視線はハーパーに向いていた。
「ハーパー中尉」
「はい」
「君は二度、あの零戦を見ているそうだね」
「はい」
ホイットマンは机の上の報告書を軽く指で押さえた。
表紙には黒い文字で一語だけ記されている。
PHANTOM。
「率直に聞こう」
ホイットマンは椅子に深く腰掛けた。
「君は、何を見た」
ハーパーはすぐには答えなかった。
軍人としての報告なら、すでに書いた。
速度。
高度。
交戦距離。
撃墜された機体。
だが、ホイットマンが聞いているのは、それではなかった。
ハーパーは、あの日の空を思い出していた。
「博士」
彼は静かに口を開いた。
「私は、最初は自分の目を疑いました」
ホイットマンは黙っている。
「ですが、見間違いではありませんでした」
ハーパーの声がわずかに低くなった。
「奴は……止まっていました」
ホイットマンの表情は変わらなかった。
だが、右手に持っていた万年筆だけが止まった。
「止まっていた」
「はい」
「固定翼機が、かね」
「そう見えました」
「見えた、ではなく」
ホイットマンの声は静かだった。
「君はどう判断した」
ハーパーは背筋を伸ばした。
「あれは通常の飛行ではありません」
「理由は」
「爆撃機は降下していました。かなりの速度で高度を失いながら、目標へ向かっていた」
「それは記録にもある」
「その正面に、Phantomがいました」
「迎撃機なら、不自然ではない」
「はい。最初は私もそう思いました」
ハーパーは小さく息を吐いた。
「ですが、三秒後も同じ位置にいました」
ホイットマンの目がわずかに細くなる。
「同じ位置」
「爆撃機の正面です。旋回して回り込んだのではありません。追尾していたわけでもない。前方へ加速したわけでもない」
ハーパーは記憶を辿るように続けた。
「爆撃機の降下に合わせて、高度だけを下げていたんです」
部屋が静まり返った。
「まるで、空に固定されているようでした」
ホイットマンは、机の上のメモに一行を書いた。
空中静止。
「君は、その時、どう思った」
「恐ろしいと思いました」
「撃墜されたからか」
「違います」
ハーパーは首を振った。
「あれは、速いから恐ろしいのではありません」
ホイットマンは黙って聞いていた。
「あれは、強いから恐ろしいのでもありません」
ハーパーは、あの日見た零戦の姿を思い出した。
「我々の知っている空の理屈から、外れていました」
ホイットマンは、初めてわずかに頷いた。
「分かった」
それだけだった。
ハーパーは一瞬、戸惑う。
「博士、これでよろしいのですか」
「ああ」
「私は、何か役に立つ証言をできたのでしょうか」
ホイットマンは眼鏡の奥からハーパーを見た。
「十分だ」
そして、静かに言った。
「君の勇気ではなく、君の目を借りたかった」
ハーパーはその言葉に、少しだけ表情を変えた。
軍人としてではない。
生き残った目撃者として、必要とされた。
それが分かった。
「中尉」
「はい」
「Phantom Hunterの調整は続ける」
「はい」
「だが、私はあれを単なる敵機とは見ない」
ホイットマンは報告書に目を落とした。
「あれは、航空機の姿をした問題だ」
ハーパーは何も言わなかった。
敬礼し、部屋を出る。
扉が閉まった。
ホイットマンは、しばらく動かなかった。
机の上には、報告書が広げられている。
複数の搭乗員の証言。
爆撃機の降下角。
推定速度。
高度。
撃墜順。
それらは、それぞれ別々の紙に書かれていた。
だが、全部が同じ一点を指している。
零戦が止まった。
そして、落ちなかった。
「写真はないのか」
控えていた部下が答えた。
「ありません」
「そうか」
ホイットマンは短く言った。
「ならば、むしろ都合がいい」
部下は意味が分からず、顔を上げた。
ホイットマンは報告書を閉じなかった。
「写真は一瞬を切り取る。一瞬は嘘をつく。飛んでいる機体でも、写真の中では止まって見える」
彼は、別の紙を取り上げた。
「だが、時間と高度と証言は違う」
紙の上には、数字が並んでいた。
「この爆撃機は降下していた。時速はおよそ三百マイル。高度を失いながら目標へ向かっていた」
ホイットマンは鉛筆で線を引いた。
「その正面に、零戦がいた」
部下が小さく頷く。
「それだけなら、迎撃機として不自然ではありません」
「そうだ」
ホイットマンは静かに言った。
「問題は、三秒後も同じ正面にいたことだ」
部下は黙った。
「旋回ではない。追尾でもない。加速して前に出たのでもない」
ホイットマンは、報告書の一文を指で叩いた。
「高度だけを、爆撃機の降下に合わせて下げている」
彼は椅子の背にもたれた。
「固定翼機は、空中で止まれない」
その声は怒りでも驚きでもなかった。
ただ、事実を確認する声だった。
「止まれば失速する。揚力を失い、落ちる。これは戦術の問題ではない。操縦技量の問題でもない」
ホイットマンは顔を上げた。
「何かが、あの機体を支えていた」
部下は喉を鳴らした。
「推力、でしょうか」
「零戦に垂直推力はない」
「では、新型の翼面制御」
「翼面で説明できるなら、私はこの報告書をここまで読んでいない」
ホイットマンは立ち上がり、壁に貼られた太平洋の地図を見た。
戦場は遠い。
だが、その遠い海で起きた数秒が、今この部屋の空気を変えていた。
「我々は撃墜数を見ているのではない」
彼は低く言った。
「止まった瞬間を見ている」
部下は何も言えなかった。
ホイットマンは机へ戻り、ハーパーの証言書をもう一度手に取った。
その中の一文が、何度も目に入る。
奴は、空を飛んでいたのではありません。空に固定されていたように見えました。
ホイットマンはゆっくりと眼鏡を外した。
レンズを拭く。
掛け直す。
その仕草が終わった時、彼の中で結論は出ていた。
「これは航空工学ではない」
部下が顔を上げる。
「では、何なのですか」
ホイットマンは答えた。
「物理学だ」
その言葉は、部屋の空気をさらに重くした。
彼は机の引き出しを開け、便箋を取り出した。
軍の書式ではない。
個人としての手紙だった。
万年筆を手に取り、しばらく考える。
そして、最初の一行を書いた。
先生、お変わりなくお過ごしですか。
彼はそこで一度、手を止めた。
この相手に手紙を書くのは久しぶりだった。
かつて講演で聞いた声を、今でも覚えている。
穏やかで、少し皮肉を含み、それでいて世界の見方そのものを変えてしまう声だった。
ホイットマンは再びペンを動かした。
私は航空機の技術者です。
しかし今回、航空工学の範囲では説明できない報告に接しました。
ある日本軍機が、速度を失ったまま空中に留まり、その後、爆撃機の降下に合わせて高度のみを下げたという複数の証言があります。
固定翼機である以上、それは失速を意味します。
しかし、その機体は落下しませんでした。
私はこの現象を、新型エンジン、操縦技術、あるいは通常の航空力学では説明できません。
もし先生の理論の中に、この現象へ近づくための問いがあるなら、ご教示願いたい。
ホイットマンはそこで一度、目を閉じた。
外では、遠くから試験機のエンジン音が聞こえていた。
Phantom Hunter。
人間が作った、Phantomを追うための機体。
だが、彼には分かり始めていた。
彼らが追っているのは、ただの敵機ではない。
まだ名前のない技術だった。
あるいは、技術と呼ぶことさえ早すぎる何かだった。
ホイットマンは最後に、ゆっくりと書き添えた。
私は敵を倒す方法を知りたいのではありません。
私は、何を見たのかを知りたいのです。
ペン先が止まった。
しばらくして、彼は便箋を折り、封筒に入れた。
宛名を書く。
そして封をした。
部下が静かに入ってくる。
「博士」
ホイットマンは封筒を差し出した。
「これをプリンストンへ」
部下は封筒を受け取り、宛名を見た。
一瞬だけ、表情が変わった。
「アインシュタイン博士に、ですか」
「ああ」
ホイットマンは窓の方を見た。
厚いカーテンの隙間から、細い光が床に落ちていた。
「答えがあるとは思っていない」
そして、少しだけ声を落とした。
「だが、問いを理解できるのは、あの人しかいない」
部下は封筒を胸に抱え、部屋を出て行った。
扉が閉まる。
机の上には、まだPhantomの報告書が残っていた。
ホイットマンはもう一度、その表紙を見た。
PHANTOM。
一機の零戦が、戦場から物理学の扉を叩いた。
その最初の音は、まだ誰にも聞こえていなかった。




