蒼龍修復ドック
第七十三話 蒼龍修復ドック
六月下旬。
呉海軍工廠の乾ドックに、航空母艦蒼龍の姿があった。
海水を抜かれた巨大な船体は、まるで傷ついた獣のように静かに横たわっていた。
飛行甲板には焼け焦げた跡。
右舷には爆風で歪んだ鋼板。
艦橋周辺には、まだ煤の色が残っている。
だが、沈まなかった。
蒼龍は、ここへ帰ってきた。
山本五十六は、参謀たちを従えて、その艦を見上げていた。
「……よく戻った」
低い声だった。
誰に向けた言葉でもない。
だが、蒼龍の船体はその声を聞いているように見えた。
◇
ドックでは、工員たちが黙々と作業を続けていた。
鋼板を切る音。
リベットを打つ音。
溶接の火花。
巨大なクレーンが、新しい甲板材を吊り上げている。
山本は歩きながら、被害箇所を一つずつ見ていった。
「飛行甲板の復旧には」
「相応の日数を要します」
工廠の技術士官が答える。
「蒼龍は、いつ飛べる」
「応急修理だけなら可能です。ですが、空母として戦列に戻すには、航空隊の再編も必要です」
山本は頷いた。
「艦だけ直っても、翼がなければ空母ではない」
「はい」
その時だった。
少し離れた場所から、若い整備兵の声が聞こえた。
「本当に見たんですか」
山本は足を止めた。
声の先には、左腕に包帯を巻いた青年がいた。
蒼龍所属の艦上爆撃機隊搭乗員だった。
若い整備兵が、興奮を抑えきれない様子で尋ねている。
「守護神を」
青年は、すぐには答えなかった。
焼けた甲板を見上げる。
その目には、まだミッドウェーの空が残っているようだった。
「ああ」
短い答えだった。
「見た」
◇
山本は何も言わず、その場に立った。
参謀が声をかけようとしたが、山本は手で制した。
青年の声が続く。
「敵の急降下爆撃機が、蒼龍へ向かって降りてきた」
「こちらの迎撃は間に合わない」
「もう、やられると思った」
整備兵たちは黙って聞いていた。
「その時、一機の零戦が前へ出た」
「敵の正面へ回り込んだんだ」
「普通なら、そのまま抜ける。あるいは旋回して、後ろを取る」
青年は首を横に振った。
「だが、あの零戦は違った」
彼は、ゆっくりと言った。
「空で止まった」
整備兵の一人が、思わず聞き返す。
「止まった……?」
「ああ」
「止まった」
青年の声は、震えていなかった。
だからこそ、異様な重みがあった。
「それから、敵の爆撃機の降下に合わせて、高度だけを下げていった」
「落ちたんじゃない」
「墜ちたようにも見えなかった」
「空に止まったまま、静かに下がっていったんだ」
山本の目が、わずかに細くなる。
青年は続けた。
「姿勢は崩れない」
「機首もぶれない」
「ただ、敵の降下角に合わせて、同じように高度を下げていく」
「まるで空そのものに足場があるようだった」
誰も口を挟まなかった。
「そして、撃った」
青年は拳を握る。
「見たこともない兵器だった」
「二十ミリではない」
「機銃でもない」
「一瞬で、敵機の胴体が裂けた」
「一機」
「二機」
「三機」
「四機」
「爆撃機が、次々と空中で砕けていった」
ドックの音が、遠くに聞こえた。
溶接の火花。
リベットの音。
それらの中で、青年の声だけが妙にはっきり響いた。
「私は飛行機乗りです」
彼は静かに言った。
「だから分かります」
「飛行機が空中で止まるなんて有り得ない」
◇
整備兵の誰かが、小さく呟いた。
「やっぱり……神様だったんですかね」
青年は首を振った。
「違う」
「操縦席には、人がいた」
その言葉に、山本の表情がほんの少し動いた。
「人が乗っていた」
青年は蒼龍を見上げた。
「だが、人にできる飛び方ではなかった」
沈黙が落ちた。
やがて青年は、焼けた甲板へ視線を戻した。
「守護神がいなければ、蒼龍はここへ戻れなかった」
「赤城だけでは済まなかった」
整備兵たちは、言葉を失っていた。
青年は続ける。
「だが、俺は思う」
「あれに救われただけで終わってはいけない」
「次も守護神が来てくれるとは限らない」
彼の声に、少しだけ熱が宿った。
「蒼龍は沈まなかった」
「なら、また飛べる」
「もう一度、戦える」
「そして次は」
青年は、歪んだ飛行甲板を見上げた。
「あの零戦の後ろに隠れるためじゃない」
「同じ空で戦うために飛ぶ」
◇
山本はしばらく黙っていた。
参謀たちも、誰も声を出さない。
やがて山本は、ゆっくりと蒼龍を見上げた。
守護神。
兵たちはそう呼ぶ。
米軍はPhantomと呼ぶという。
味方には神。
敵には幽霊。
だが、今聞いた証言は、そのどちらでもなかった。
そこにいたのは、人だった。
零戦に乗った、人間だった。
ただし、その力は人の戦場の常識を超えている。
「神ではない、か」
山本は小さく呟いた。
誰にも聞かせるつもりのない声だった。
「ならば、なおさら頼り切ってはならんな」
参謀が見る。
「長官」
山本は答えず、歩き出した。
蒼龍の下では、工員たちが新しい鋼板を運んでいる。
焦げた甲板を剥がし、歪んだ部材を外し、もう一度空母へ戻そうとしている。
戦争は、壊す。
だが、人は直す。
山本はその光景を見つめていた。
◇
視察を終える頃、クレーンが新しい甲板材を高く吊り上げていた。
工員の声が響く。
「よし、ゆっくり下ろせ!」
「右、少し右!」
「止めろ!」
巨大な鋼板が、蒼龍の傷口へ運ばれていく。
山本は足を止めた。
そして、蒼龍へ向かって静かに言った。
「守護神に救われた艦か」
参謀たちが黙っている。
山本の声は低かった。
「ならば、次は救われるだけではならん」
彼は、焼けた甲板を見上げた。
「再び飛べ」
「蒼龍」
鋼板が下ろされる。
金属が触れ合う重い音が、乾ドックに響いた。
それは、修復の音だった。
同時に、再起の音でもあった。
ミッドウェーで傷ついた空母は、もう一度空へ翼を広げるために、静かに生まれ変わろうとしていた。
そして、その場所で語られた守護神の証言は、山本五十六の胸に深く残った。
救われた。
だが、救われるだけではいられない。
日本海軍は、次の戦いへ向けて、傷ついた翼を直し始めていた。




