エミリーへの手紙
第七十二話 エミリーへの手紙
宿舎の机に、一枚の便箋が置かれていた。
ハーパーはペンを持ったまま、しばらく動かなかった。
窓の外では、整備兵たちが新型機を点検している。
黒い六枚プロペラ。
鋭い機首。
幽霊を狩るために作られた機体。
Phantom Hunter。
昨日、その機体は確かに空を駆けた。
普通のムスタングではなかった。
加速も、旋回も、降下も、射撃姿勢も、すべてが違った。
これなら届く。
そう思った。
だが、机の上の便箋を前にすると、その言葉は簡単には書けなかった。
軍の検閲がある。
書けないことが多すぎる。
戦場のことも。
Phantom のことも。
風防越しに見た、あの零戦の操縦士のことも。
ハーパーは小さく息を吐き、ようやくペンを走らせた。
『親愛なるエミリーへ』
そこで、また手が止まる。
机の隅には、一枚の写真が立てかけてあった。
白い服を着た若い女性が、少し照れたように笑っている。
エミリー。
故郷にいる恋人。
ハーパーは、その写真をしばらく見つめた。
「君にだけは、全部話せたらいいんだがな」
だが、それはできない。
彼は再び便箋に向かった。
『こちらは相変わらずだ。
暑くて、騒がしくて、空はやけに青い。
昨日、新しい戦闘機に乗った。
詳しいことは書けない。
ただ、今までのどんな機体とも違っていた。
とても速く、とても軽い。
操縦桿を握った瞬間、こいつは空へ行きたがっているのだと分かった』
ハーパーはペンを止めた。
嘘ではない。
だが、本当のことの半分にも満たない。
本当は、こう書きたかった。
幽霊を追うための機体だ。
俺たちは今、空に現れる一機の零戦を倒すために訓練している。
その零戦は、普通ではない。
遠すぎる距離から撃ち落とす。
こちらの射線に入らない。
守るべきものを選び、戦場そのものを切り裂いてくる。
そして俺は、そいつに二度、届かなかった。
ハーパーは苦く笑った。
そんなことを書けば、検閲官の眉が机から跳ね上がる。
彼は便箋に戻った。
『だが、心配しないでくれ。
俺はまだ帰るつもりでいる。
君に約束した通り、戦争が終わったら、きちんと君の前に立つ。
その時は、もう少しましな服を着ているはずだ。
たぶん』
そこで、ハーパーは少しだけ笑った。
エミリーなら、ここで笑うだろう。
そして言う。
あなたは軍服でも十分ひどいわ。
その声が、耳の奥に残っている気がした。
◇
扉が叩かれた。
「入れ」
リチャードが顔を出した。
「手紙か」
「ああ」
「エミリーへ?」
ハーパーは返事をしなかった。
リチャードはそれだけで分かったように笑い、部屋へ入ってきた。
「いいな。帰る場所がある男は」
「お前にはないのか」
「あるさ」
リチャードは肩をすくめた。
「酒場と、借金取りと、怒った姉が二人」
「十分だな」
「ああ。絶対に帰りたくなる」
二人は少しだけ笑った。
その笑いは、戦場の宿舎には妙に小さく響いた。
リチャードは窓の外を見た。
Phantom Hunter が整備されている。
黒いプロペラが、朝の光を鈍く返していた。
「あれ、本当に化け物だな」
「化け物を追うための機体だ」
「追えると思うか」
「届く」
ハーパーは短く答えた。
リチャードは彼を見る。
「落とせるか」
少しの沈黙。
ハーパーは便箋の上に置いた手を見た。
「落とす」
「答えになってないぞ」
「なら、今はそれでいい」
リチャードは鼻で笑った。
「お前らしい」
その時、廊下から別の足音が近づいてきた。
サッチ少佐だった。
その後ろには、介入者もいる。
ハーパーとリチャードはすぐに姿勢を正した。
「休め」
サッチは短く言った。
彼の目は、窓の外の新型機に向いていた。
「昨日の試験飛行の報告を読んだ」
「はい」
「機体は使えるか」
ハーパーは迷わなかった。
「使えます」
「Phantom に対してもか」
「届きます」
サッチはハーパーを見た。
「届く、か」
「はい」
「倒せるとは言わんのだな」
ハーパーは少しだけ口元を動かした。
「昨日は、そう思いました」
「今日は違うのか」
「今日になって、少し冷えました」
リチャードが横で小さく笑う。
サッチは黙って続きを待った。
ハーパーは言った。
「機体は素晴らしい。普通のムスタングとは別物です。加速、上昇、旋回、降下時の安定性、射撃姿勢。どれも想定以上でした」
「なら」
「ですが、Phantom もただの機体ではありません」
ハーパーは窓の外を見た。
「あれは、機体だけではない」
サッチの目が細くなる。
「操縦士か」
「はい」
ハーパーの脳裏に、風防越しの一瞬が蘇る。
あの零戦。
あの白い光。
そして、そこにいた男。
「奴は速いだけではありません。強いだけでもない。戦場を見ています。味方を守るために、こちらの攻撃線を切る。追える敵を追わず、必要な場所へ戻る」
介入者が静かに聞いていた。
ハーパーは続ける。
「だから、こちらもただ追うだけではだめです。奴が守るもの。奴が戻る場所。奴が選ぶ線。そのすべてを読まなければ、撃てません」
サッチは小さく頷いた。
「よく見ている」
「見せられました」
ハーパーの声は低かった。
「ミッドウェーで」
部屋に短い沈黙が落ちた。
赤城は沈んだ。
ヨークタウンは生き残った。
だが、勝利ではなかった。
誰もがそれを知っていた。
「訓練は続ける」
サッチが言った。
「Phantom Hunter は二機だけでは足りん。だが、今すぐ使えるのはお前たちだけだ」
「分かっています」
「次に奴が現れた時、お前たちは近づく」
「はい」
「ただし、死ぬな」
ハーパーはサッチを見た。
その命令だけは、少し意外だった。
サッチは静かに言った。
「Phantom を倒すために、お前たちを失うわけにはいかん」
リチャードが軽く敬礼した。
「努力します」
「努力では足りん」
「では、全力で」
「それでも足りん」
サッチは二人を見た。
「生きて戻れ。命令だ」
その言葉に、ハーパーは一拍遅れて敬礼した。
「了解しました」
◇
サッチと介入者が出て行った後、部屋には再び静けさが戻った。
リチャードは扉の前で振り返る。
「ハーパー」
「何だ」
「その手紙、ちゃんと書けよ」
「分かっている」
「帰るつもりならな」
そう言って、リチャードは部屋を出て行った。
扉が閉まる。
ハーパーはしばらくその扉を見ていた。
それから机に戻る。
便箋には、途中までの文章が残っている。
彼はペンを持った。
『エミリー。
君には言えないことが多い。
きっと、この手紙も退屈なものになる。
だが、ひとつだけ本当のことを書く。
俺は怖くないわけじゃない。
空は美しいが、時々とても冷たい。
そして今、俺たちはこれまで見たことのない敵と戦っている。
でも、俺は逃げない。
逃げたくない。
俺の仲間がいる。
守るべき艦がある。
そして、君がいる』
ペン先が止まった。
ハーパーは写真を見た。
エミリーは、変わらずそこにいた。
戦場の匂いも、油の焦げる臭いも、海に沈む機体も知らない顔で笑っている。
それが、彼にはありがたかった。
この写真の中だけは、戦争がない。
だからこそ、帰りたいと思えた。
『必ず帰る。
だから、もう少しだけ待っていてほしい。
今度会えたら、君が好きだと言っていたあの店へ行こう。
俺はまた、注文を間違えるかもしれない。
その時は笑ってくれ。
君に笑われるためなら、俺はこの空を飛び続けられる』
ハーパーは、そこで一度深く息を吐いた。
最後の一文をどうするか迷った。
Phantom を倒す。
幽霊を撃ち落とす。
そう書きたかった。
だが、それは書けない。
代わりに、彼はこう書いた。
『君の待つ場所へ帰るために、俺は今日も飛ぶ。
ハーパー』
ペンを置いた。
便箋を折りたたむ。
封筒に入れる。
宛名を書く。
エミリー・カーター。
その名前を書く時だけ、ハーパーの手は少しだけ丁寧になった。
◇
外に出ると、朝の空気が熱を帯び始めていた。
滑走路の向こうで、Phantom Hunter が待っている。
黒い六枚プロペラ。
鋭い機首。
幽霊を狩るための翼。
ハーパーは封筒を胸ポケットに入れた。
あとで郵送係に渡す。
届くまでには時間がかかるだろう。
もしかすると、次の戦闘の方が先かもしれない。
それでもいい。
手紙を書いたことで、胸の奥に一本の線が引かれた。
帰る場所へ続く線。
その線を切らせるわけにはいかなかった。
リチャードが機体の横で手を振る。
「遅いぞ」
「手紙を書いていた」
「愛の言葉か」
「検閲に引っかからない程度にな」
リチャードは笑った。
「なら大したことは書いてないな」
「そうでもない」
ハーパーは機体を見上げた。
「大事なことは、短くても書ける」
整備兵が脚立を寄せる。
ハーパーは操縦席へ上がった。
狭いコックピット。
昨日と同じ匂い。
油。
金属。
熱。
そして、空へ向かう機体の気配。
彼は操縦桿を握った。
目を閉じる。
一瞬だけ、エミリーの笑顔が浮かんだ。
次に浮かんだのは、白い零戦だった。
Phantom。
守るもののために飛ぶ幽霊。
ならば自分も同じだ。
ハーパーは目を開けた。
「こちらハーパー」
無線に声を入れる。
「訓練飛行を開始する」
六枚プロペラが回り始める。
黒い羽根が光を切り、やがて輪になる。
機体が震えた。
前へ行きたがる。
空へ行きたがる。
ハーパーはスロットルに手をかけた。
「エミリー」
声にならないほど小さく呟く。
「俺は帰る」
次の瞬間。
Phantom Hunter は滑走路を蹴った。
鋭く。
軽く。
朝の空へ。
幽霊を追う男は、帰る場所を胸に抱いたまま、再び空へ上がっていった。




