幽霊刈り
第七十話 幽霊刈り
格納庫の朝は、静かだった。
だが、その静けさの奥で、何かが息を潜めていた。
ハーパーは、六枚プロペラの前に立っていた。
黒い羽根。
鋭い機首。
徹底的に無駄を削ぎ落とされた胴体。
昨日、布の下から現れた時には、ただ異様な機体に見えた。
だが今は違う。
これから自分が乗る機体だった。
「準備はいいか」
サッチ少佐が言った。
ハーパーは飛行帽を被り直した。
「はい」
隣ではリチャードも機体を見上げている。
「しかし……何度見ても変なムスタングだな」
ハーパーは小さく笑った。
「変でなければ困る」
技術主任が近づいてきた。
「通常のP-51とは考えないでください」
「見れば分かる」
「外見は似ていますが、中身は別物です」
主任は機体の側面を軽く叩いた。
「徹底的に軽量化しています。防弾板も必要最小限。余計な装備も可能な限り外しました」
リチャードが眉を上げる。
「つまり、当たれば危ない」
「当たらないための機体です」
主任は静かに言った。
「Phantomがしていることを、こちらもやるための機体です」
ハーパーは黙っていた。
Phantom。
その名を聞くだけで、あの零戦が脳裏に浮かぶ。
二度、風防越しに見たあの男。
捉えたと思った瞬間があった。
だが、そこにはもういなかった。
今度は違う。
ハーパーは操縦席へ足をかけた。
狭い。
だが、無駄がない。
計器は必要なものだけに絞られ、視界は悪くない。
操縦桿を握る。
その瞬間、ハーパーの中で何かが静かに沈んだ。
恐怖ではない。
緊張でもない。
もっと鋭いものだった。
「エンジン始動」
整備員が声を上げる。
ハーパーはスイッチを入れた。
強化型マーリンが低く唸った。
六枚プロペラが一枚ずつ動き出す。
黒い羽根が光を切り、やがて輪になる。
振動が機体を伝って背中へ来た。
普通のムスタングより軽い。
それは、エンジンが回った瞬間から分かった。
機体が前へ行きたがっている。
押さえていなければ、勝手に飛び出しそうだった。
「こちらハーパー。発進する」
無線に声を入れる。
『リチャードも続く』
管制から短い許可が出る。
ハーパーは滑走路へ機体を進めた。
ペダルを踏む。
機首が滑走路の先を向く。
息を吸った。
スロットルを押し込む。
次の瞬間。
機体が前へ跳んだ。
「……!」
背中が座席へ押しつけられる。
加速が違う。
普通のムスタングなら、まだ滑走路を噛んでいる距離。
だが、この機体は違った。
六枚プロペラが空気を掴み、機体を無理やり前へ引きずる。
車輪が軽くなる。
ハーパーは操縦桿を引いた。
機体が浮いた。
あまりにも軽く。
あまりにも自然に。
滑走路が下へ落ちていく。
「これが……」
ハーパーは思わず呟いた。
「本当に同じムスタングなのか?」
無線からリチャードの声が飛び込んできた。
『ハーパー! こいつは何だ!』
「落ち着け」
『落ち着けるか! この加速、普通じゃないぞ!』
リチャードの機体もすぐに上がってきた。
二機のPhantom Hunterが、朝の空へ入る。
ハーパーは高度を取った。
上昇が速い。
機体が重さを感じさせない。
今までのP-51なら、ここで少し息が詰まる。
だが、この機体はまだ伸びる。
まだ上へ行ける。
まだ速度を失わない。
ハーパーの口元が、わずかに動いた。
「……面白い」
◇
試験空域に入ると、主任の声が無線に入った。
『まず水平加速。次に上昇。急旋回は指示が出てから行ってください』
「了解」
ハーパーは機体を水平に戻した。
スロットルをさらに開く。
針が上がる。
機体が震えない。
軽量化した機体なら、もっと神経質に暴れると思っていた。
だが違う。
鋭い。
軽い。
それなのに、芯がある。
空気を裂きながら進んでいるのに、機首がぶれない。
『速度、上がってるぞ』
リチャードの声には笑いが混じっていた。
『まだ上がる。まだ行くぞ、ハーパー!』
「ああ」
ハーパーも笑っていた。
自分でも気付かないうちに。
これは戦闘機だ。
いや、ただの戦闘機ではない。
あの零戦へ届くためだけに削られ、磨かれ、研がれた機体だった。
『急旋回、許可します』
主任の声。
ハーパーは操縦桿を倒した。
機体がすぐに応えた。
鋭く傾く。
翼が空を噛む。
普通のムスタングなら、重さが遅れてくる。
機体が一瞬ためらう。
だが、これは違った。
操縦桿を倒した瞬間、もう機体は向きを変えていた。
「軽い……!」
ハーパーは歯を食いしばった。
旋回の圧が身体を押しつぶす。
だが、機体は暴れない。
思った線へ入る。
狙った角度へ吸い付く。
リチャードが後ろから追ってくる。
『見たか、ハーパー!』
『この旋回!』
『こいつ、普通のムスタングじゃない!』
「分かっている!」
ハーパーはさらに機体を倒した。
空と地面が入れ替わる。
海が横に流れる。
雲が視界を斜めに切る。
その中で、ハーパーの胸に熱いものが広がっていった。
これなら。
これなら、あの零戦の後ろへ入れるかもしれない。
いや。
後ろではない。
あの男の射線の外へ。
そして、自分の射線を置ける場所へ。
◇
『次、急降下試験』
主任の声が入る。
『高度を取ってください』
二機は上昇した。
高く。
さらに高く。
ハーパーは計器を確認しながら、機体を一度水平に戻す。
遠くに海が広がっていた。
青い。
静かだ。
だが、ハーパーの目には別の空が見えていた。
Phantomがいた空。
日本機を守るために現れ、米軍機の攻撃線を切ったあの空。
あそこへ行く。
この機体で。
『降下開始』
ハーパーは機首を下げた。
海が迫る。
速度が一気に乗る。
普通なら、ここで機体が重くなる。
操縦桿の反応が鈍くなる。
だが、Phantom Hunterは違った。
速度が増しても、機体が逃げない。
機首が狙った線を外さない。
海面へ一直線に落ちていく。
リチャードが叫ぶ。
『信じられん! 急降下でも機首がぶれない!』
「そのままついてこい!」
『言われなくても!』
ハーパーは引き起こした。
機体が悲鳴を上げるかと思った。
だが、上がったのはエンジンの唸りだけだった。
機体は鋭く海面から離れ、再び空へ駆け上がる。
胸が熱くなる。
身体が操縦席に押しつけられる。
その重圧さえ、今のハーパーには心地よかった。
彼は笑っていた。
はっきりと。
「これなら……」
無線に入らないほど小さな声だった。
「これなら届く」
◇
射撃試験用の標的が空中に放たれた。
曳航標的。
ゆっくりと動く布の的。
もちろんPhantomとは比べものにならない。
だが、射撃姿勢を試すには十分だった。
『射撃姿勢へ』
主任の声。
ハーパーは機体を旋回させ、標的へ向けた。
照準器の中に標的が入る。
機首が安定している。
速度を落としすぎていないのに、狙える。
今までのムスタングなら、こうはいかない。
速い機体は狙いが粗くなる。
軽い機体は機首が逃げる。
だが、この機体は違った。
短い時間だけ、射線が置ける。
Phantomがいつもやっていたこと。
その片鱗を、ハーパーは初めて自分の側で感じていた。
「撃つ」
機銃が火を吹いた。
最適化され、連射速度.命中精度の上げられた12.7ミリ!
短い連射。
標的が裂けた。
リチャードが笑った。
『当たった!』
『ハーパー、こいつは当たるぞ!』
「見えている」
『これならやれる!』
ハーパーは標的を抜け、機体を上げた。
その瞬間、風防越しに空が広がる。
青い空。
雲の切れ間。
そこに、白い光の幻影が見えた気がした。
あの男がいる。
二度、風防越しに見た男。
捉えたと思った瞬間、消えた男。
だが、今度は違う。
この機体なら、その消える先へ入れる。
あの白い影の進路へ、こちらの射線を置ける。
ハーパーの口元が上がった。
ゆっくりと。
ニヤリと。
「リチャード」
『何だ』
「これは、ただのムスタングじゃない」
『そんなこと、とっくに分かってる』
「いや」
ハーパーは空を見た。
「これは、Phantomに届く機体だ」
リチャードが少し黙った。
そして、笑った。
『ああ』
『今度は、俺たちが奴を追う番だ』
◇
試験飛行を終え、二機は滑走路へ戻った。
着陸も軽い。
速度を殺しても、機体が沈みすぎない。
主脚が滑走路を噛む。
タイヤが白い煙を上げる。
六枚プロペラがゆっくり回転を落としていく。
ハーパーはキャノピーを開けた。
熱い空気が入ってくる。
だが、彼の中の熱の方が強かった。
リチャードが隣の機体から飛び降りる。
顔が笑っていた。
「ハーパー!」
「ああ」
「凄いぞ、これは!」
ハーパーは機体から降りた。
足元がまだ空を覚えている。
身体が高揚していた。
サッチが近づく。
介入者も、その後ろにいた。
技術主任はハーパーの顔を見て、静かに尋ねた。
「どうでしたか」
ハーパーはすぐには答えなかった。
Phantom Hunterを振り返る。
六枚の黒いプロペラ。
軽く、鋭く、速い機体。
普通のムスタングとは違う。
同じ形をしているだけだ。
中身は別物。
空で感じたあの軽さ。
あの加速。
あの旋回。
あの射撃性能。
ハーパーは、ゆっくりと口を開いた。
「これが本当に同じムスタングなのか?」
主任は小さく頷いた。
「形は同じです」
「中身は」
「別物です」
ハーパーは笑った。
今度は隠さなかった。
ニヤリと。
確信を持って。
「これなら……」
サッチが見た。
リチャードも黙った。
ハーパーは空を見上げた。
そこにはまだ、Phantomはいない。
だが、彼には見えていた。
あの空を切り裂いて現れる零戦。
届かない距離から撃ち落としてくる幽霊。
風防越しに見た、あの男。
ハーパーは低く言った。
「これなら絶対に、Phantomに届く」
さらに一拍置いて。
「堕とせる」
格納庫の前に、沈黙が落ちた。
誰も歓声を上げない。
だが、その沈黙は昨日とは違っていた。
そこには、わずかな熱があった。
必要に迫られて作られた翼。
幽霊を狩るための牙。
その力を、ハーパーは空で知った。
リチャードが隣で笑う。
「幽霊刈りの始まりだな」
ハーパーは、もう一度Phantom Hunterを見た。
黒い六枚プロペラは、まだ微かに回っている。
その向こうに、白く光る幻影が重なった。
「ああ」
ハーパーは言った。
「幽霊を、空から引きずり下ろす」
朝の光の中で、Phantom Hunterの機首が静かに輝いていた。




