対面
第六十九話 対面
ミッドウェー島の空は、まだ落ち着いていなかった。
戦闘は終わった。
だが、戦場の匂いは消えていない。
滑走路の端には、帰ってきた機体が並んでいた。
穴だらけの翼。
焦げた胴体。
片脚を失い、腹を擦って止まった機体。
整備兵たちは黙々と動いている。
誰も勝利を叫ばない。
誰も敗北を口にしない。
ただ、戻らなかった機体の数だけ、空に穴が空いていた。
ハーパーは滑走路の脇に立っていた。
手には飛行帽を握っている。
見上げた空には、もう Phantom はいない。
だが、あの零戦がいた空だけが、まだ違って見えた。
白い光のように現れ、攻撃線を切り、追えば死ぬ位置へこちらを誘う。
あれは零戦だった。
だが、零戦ではなかった。
「ハーパー中尉」
背後から声がした。
振り返ると、通信兵が立っていた。
「司令部より命令です」
「何だ」
「リチャード中尉と共に、至急本土へ帰還せよ、とのことです」
ハーパーは眉を寄せた。
「本土?」
「はい」
「理由は」
通信兵は少しだけ言い淀んだ。
「特別任務、とだけ」
その言葉に、ハーパーの表情が変わった。
特別任務。
それは、詳しく説明されない命令に付けられる言葉だった。
そして、大抵の場合、ろくなものではない。
◇
リチャードは格納庫の横で、壊れかけた椅子に腰掛けていた。
ハーパーが近づくと、彼は顔を上げた。
「聞いたか」
「ああ」
「本土へ帰れ、だとさ」
リチャードは肩をすくめた。
「俺たちは戦場から外されるのか?」
「さあな」
「特別任務なんて言い方をする時は、たいてい面倒な仕事だ」
「同感だ」
二人はしばらく黙っていた。
遠くで、エンジン音が聞こえる。
戦闘機ではない。
輸送機の鈍い音だった。
滑走路の向こうに、銀色の機体が降りてくる。
大きな輸送機。
その胴体が砂埃の中で揺れた。
リチャードはそれを見ながら言った。
「まさか、あれか」
「らしいな」
「待遇がいいとは言えないな」
「生きて帰れただけ、ましだろう」
ハーパーはそう言った。
だが、その言葉は自分に向けたものでもあった。
生きて帰った。
それだけは確かだった。
しかし、あの空で何かを成し遂げたわけではない。
ただ、見た。
Phantom を。
そして死なずに戻った。
◇
輸送機の貨物室は、快適とはほど遠かった。
金属の壁。
むき出しの床。
折り畳み式の座席。
荷物の固定具が揺れるたびに、乾いた音を立てる。
窓は小さく、外の景色はほとんど見えない。
エンジンの振動だけが、足元から身体へ伝わってくる。
ハーパーとリチャードは向かい合って座っていた。
互いにしばらく何も言わなかった。
やがて、リチャードが口を開く。
「何だと思う」
「何が」
「特別任務だ」
「分からん」
「お前、本当に分からない顔をしているな」
「分かっていたら気分が悪い」
リチャードは短く笑った。
だが、その笑いはすぐに消えた。
「Phantom絡みだと思うか」
ハーパーは答えなかった。
代わりに、貨物室の床を見つめた。
Phantom。
その名を聞くだけで、ミッドウェーの空が戻ってくる。
急降下爆撃機の隊列。
崩れる攻撃線。
届かないはずの距離から、機体が砕ける光景。
普通の戦闘機なら追える。
速い機体なら追いつける。
だが、あれは違う。
追うという行為そのものが、すでに間違いだった。
「もしそうなら」
ハーパーは低く言った。
「今度は見るだけでは済まない」
リチャードは黙った。
輸送機は雲の中へ入った。
金属の胴体が、鈍く震える。
◇
本土に着いたのは、夜だった。
だが、二人が降ろされた場所に灯りは少なかった。
大きな空港ではない。
軍港でもない。
ただ、暗い滑走路と、低く建てられた格納庫がいくつか並んでいるだけだった。
基地名を示す標識はない。
管制塔にも、正式な表示は見えない。
ハーパーは周囲を見回した。
「ここはどこだ」
案内役の士官は答えなかった。
「こちらへ」
短く、それだけを言う。
リチャードが小声で言った。
「歓迎されてる感じはしないな」
「される理由もない」
二人は軍用トラックの荷台へ乗せられた。
トラックは基地の奥へ進む。
見張りが多い。
柵も二重になっている。
夜だというのに、いくつかの建物からは白い光が漏れていた。
研究所。
ハーパーは直感した。
ここは普通の飛行場ではない。
何かを隠すための場所だ。
◇
トラックは、一番奥の格納庫の前で止まった。
扉は閉じられている。
その前に、武装した兵が二人立っていた。
案内役が書類を見せる。
兵が確認し、重い扉がゆっくりと開いた。
中から、冷たい光が漏れる。
ハーパーは足を止めた。
格納庫の中には、すでに人がいた。
サッチ少佐。
そして、あの男。
介入者。
ミッドウェーの空で、無線越しに何度も声を聞いた男。
ハーパーは奥歯を噛んだ。
リチャードも、その姿を見て表情を硬くする。
サッチが二人へ視線を向けた。
「来たか」
「命令ですので」
ハーパーが答える。
サッチは小さく頷いた。
「長旅だったな」
「ここはどこですか」
「今は知らなくていい」
リチャードが眉を寄せる。
「では、なぜ我々が呼ばれたのです」
答えたのは、介入者だった。
「君たちが、Phantomを見たからです」
その声は、ミッドウェーで聞いた時と同じだった。
静かで、冷たい。
ハーパーは介入者を見た。
「見ただけです」
「それで十分です」
「十分?」
「Phantomを見て、生きて帰った」
介入者は言った。
「それだけで、君たちは候補になった」
候補。
その言葉に、ハーパーの胸がわずかに沈む。
「何の候補ですか」
介入者はすぐには答えなかった。
かわりに、格納庫の中央へ視線を向けた。
そこには、一機の機体が置かれていた。
白い布で覆われている。
機体の輪郭だけが、布の下に浮かんでいた。
長い機首。
低い胴体。
翼の形。
ハーパーは、そのシルエットに見覚えがあった。
「ムスタング……?」
リチャードが呟いた。
だが、何かが違う。
布越しでも分かる。
普通のP-51ではない。
格納庫の奥から、技術主任らしき男が歩み出た。
「カバーを外します」
サッチが頷く。
整備員が二人、布の端を掴んだ。
白い布が、ゆっくりと引かれていく。
最初に現れたのは、機首だった。
長く、鋭い。
次に、プロペラ。
ハーパーの目が止まった。
四枚ではない。
六枚。
黒く塗られた六枚のプロペラが、格納庫の光を受けて鈍く光っていた。
布が床へ落ちる。
一機のムスタングが、その姿を現した。
いや。
それは、ムスタングの形をした別の何かだった。
翼は引き締まり、余分なものを削ぎ落とされている。
機首の印象は鋭く、どこか獣じみていた。
胴体の横には、小さな文字が記されている。
XP-51 改。
その下に、さらに小さく。
Phantom Hunter。
リチャードが息を呑んだ。
「ファントム……ハンター」
ハーパーは言葉を失っていた。
その名前は、冗談のようだった。
だが、格納庫にいる誰も笑っていない。
この機体は、冗談で作られたものではない。
恐怖から作られたものだ。
必要に迫られて生まれた牙だ。
サッチが静かに言った。
「これが、お前たちの新しい機体だ」
ハーパーはサッチを見た。
「我々の?」
「ああ」
介入者が続ける。
「Phantomを追うためではありません」
ハーパーの目が細くなる。
「では、何のために」
介入者は機体を見上げた。
「Phantomと同じ空へ入るためです」
格納庫に沈黙が落ちた。
その言葉の意味を、ハーパーはすぐに理解した。
今までの機体では、近づくことすらできなかった。
追えば死ぬ。
後ろを取ろうとすれば、逆に射線へ入る。
速度が足りない。
高度が足りない。
そして何より、あの零戦が作る空に入れない。
この機体は、そのために作られた。
Phantomと同じ空へ、無理やり踏み込むために。
◇
技術主任が一歩前に出た。
「XP-51改。試作機です」
ハーパーは機体から目を離せなかった。
「六枚プロペラ……」
「強化型マーリンの出力を受けるためです」
主任が言う。
「通常の四枚では、効率を保てません」
「速度は」
リチャードが訊いた。
主任は短く答えた。
「時速八百キロを想定しています」
リチャードが目を見開く。
ハーパーも、わずかに息を止めた。
八百キロ。
空戦の常識を超える速度だった。
だが、ハーパーはすぐに首を横へ振った。
「速度だけでは足りない」
主任がハーパーを見た。
「その通りです」
ハーパーは機体を見上げる。
「Phantomは、ただ速いわけじゃない」
「分かっています」
「分かっている?」
「この機体は、速く逃げるための機体でも、速く追うためだけの機体でもありません」
主任は、六枚プロペラの根元へ手を置いた。
「短い時間だけ、Phantomの射線に入らず、こちらの射線を置くための機体です」
その説明に、ハーパーは沈黙した。
当たらない位置へ入る。
Phantomがいつもやっていること。
その真似をするための機体。
ハーパーはゆっくりと近づいた。
機体の表面に手を触れる。
冷たい金属の感触。
ムスタングだ。
だが、違う。
この機体は、名前の通りだった。
幽霊を狩るために、作られている。
「なぜ我々なんです」
ハーパーが訊いた。
答えたのは介入者だった。
「恐怖を知っているからです」
リチャードが眉を寄せる。
「恐怖?」
「Phantomを知らない者は、この機体に乗れば勝てると思うでしょう」
介入者は淡々と言った。
「そして近づきすぎて死ぬ」
誰も言い返さなかった。
「君たちは見た。追えば死ぬことを知っている。だから、死なない距離を探せる」
ハーパーは苦く笑った。
「臆病者に向いている機体ですか」
「いいえ」
介入者は即座に否定した。
「生きて帰る者に向いている機体です」
その言葉に、ハーパーは黙った。
リチャードも、何も言わなかった。
格納庫の灯りが、六枚のプロペラに反射している。
黒い羽根は、まだ動いていない。
だが、その奥には押し殺した力があるように見えた。
◇
サッチが二人に歩み寄った。
「訓練は明朝から始める」
「明朝?」
リチャードが聞き返す。
「休む時間は」
「輸送機で座っていただろう」
「それを休息と言うなら、少佐は悪魔です」
「そうかもしれんな」
サッチは表情を変えずに言った。
ハーパーは機体を見つめたまま言った。
「少佐」
「何だ」
「これで、本当にPhantomを落とせると思いますか」
サッチはすぐには答えなかった。
格納庫の空気が、少し重くなる。
やがて、サッチは言った。
「分からん」
ハーパーは少しだけ口元を動かした。
「正直ですね」
「嘘を言っても、空では役に立たん」
サッチは続けた。
「だが、これまでとは違う空に入れる可能性はある」
「それだけですか」
「それだけだ」
サッチの声は低かった。
「戦場では、その“それだけ”で生き残ることがある」
ハーパーは頷かなかった。
ただ、もう一度機体を見た。
Phantom Hunter。
その文字が、格納庫の光の中で静かに浮かんでいる。
ミッドウェーの空で見た零戦。
あれに近づくための翼。
あれを追うためではなく、あれと同じ空へ入るための翼。
「ハーパー」
リチャードが言った。
「やるのか」
ハーパーはしばらく黙っていた。
そして、低く答えた。
「やるしかない」
「そう言うと思った」
「お前は」
「俺も乗る」
リチャードは機体を見上げた。
「だが、名前は気に入らない」
「なぜだ」
「幽霊を狩るなんて、縁起が悪い」
ハーパーは少しだけ笑った。
「確かにな」
それでも二人は、その機体から目を離せなかった。
◇
整備員が主任へ合図を送った。
「プロペラ、回します」
主任が頷く。
低い作動音が、格納庫に響いた。
六枚のプロペラが、ゆっくりと動き始める。
一枚。
また一枚。
黒い羽根が光を切り、やがて輪になる。
まだ本気の回転ではない。
だが、その音だけで、ハーパーの背筋が静かに緊張した。
この機体は速い。
危険なほど速い。
そして、自分たちはこれに乗る。
Phantomがいる空へ。
ハーパーは、回転する六枚プロペラを見つめた。
その向こうに、あの零戦の影が重なる。
白い光のような機体。
届かない距離から撃ち落としてくる幽霊。
だが、ハーパーはもう一つ知っている。
幽霊の中には、操縦者がいる。
あれは機械ではない。
二度風防越しに見たあの男、捉えたと思った瞬間があった。だが、そこにいなかった。
しかし、確かに、必ず隙はある。
それを見つけるために、自分はここへ呼ばれた。
「Phantom Hunter……」
ハーパーは小さく呟いた。
その名は、まだ自分のものではない。
だが、いずれこの機体と共に空へ上がる。
その時、自分はまたPhantomと出会う。
今度は、見るだけでは済まない。
格納庫の中で、六枚プロペラの音が少しずつ大きくなっていく。
サッチも、介入者も、技術主任も、黙ってその音を聞いていた。
そこに希望はなかった。
歓声もなかった。
あるのは、必要に迫られて作られた新しい牙。
幽霊を狩るための翼。
ハーパーは、その翼を見上げた。
「次は」
彼は低く呟いた。
「撃ち落とす!」
黒いプロペラが、格納庫の光を切り裂いていた。




