じじいの休息
第六十八話 じじいの休息
未来基地の食堂には、コーヒーの香りが漂っていた。
戦いが終わった次の朝。
時間は、少し曖昧だった。
慎一はいつもの席に座り、マグカップを両手で包んでいた。
戦場では、赤城が沈んだ。
蒼龍は損傷した。
ヨークタウンにも傷を負わせた。
だが、そのすべてが遠い出来事のように感じるほど、食堂は静かだった。
京子は向かいに座り、端末を見ている。
はるみは戦闘記録を整理していた。
美希は大きな画面に、ミッドウェー上空の航跡を表示している。
幸雄だけは、工具箱を足元に置いたまま、黙ってコーヒーを飲んでいた。
慎一は一口飲んで、深く息を吐いた。
「……若い体は便利だな」
京子が顔を上げる。
「何が?」
「あれだけ飛んでも、腰に来ん」
美希の手が止まった。
はるみも、少しだけ瞬きをした。
京子は数秒黙ってから、呆れたように言った。
「慎一さん」
「何だ」
「言うことが、本当におじいちゃん」
慎一は平然とマグカップを持ち上げた。
「中身はそうだからな」
京子は小さく笑った。
美希も、つられて笑う。
その笑いで、食堂の空気が少しだけ緩んだ。
慎一は肩を回した。
「昔はな、朝起きるだけで腰が文句を言ったもんだ」
「文句?」
「起きるな、動くな、今日は休め、とな」
幸雄が鼻で笑った。
「腰の言うことを聞け」
「聞いてたら何もできん」
「だから年寄りは厄介なんだ」
「今は二十歳だ」
「中身は六十六だろ」
「そこを言うな」
京子は笑いながら、端末を置いた。
だが、その表情はすぐに少しだけ真面目に戻った。
「慎一さん」
「ああ」
「冗談を言えるくらいには、戻った?」
慎一はカップの中を見た。
黒いコーヒーの表面が、わずかに揺れている。
「分からん」
短い答えだった。
「体は戻っとる。頭も動く。手も震えん」
慎一は自分の右手を見た。
操縦桿を握り続けた手。
引き金を引いた手。
守れたものもある。
守れなかったものもある。
「だが、赤城は沈んだ」
食堂が静かになった。
誰も、すぐには言葉を出さなかった。
慎一は続けた。
「蒼龍も傷だらけだ。零戦も艦爆も、かなり落ちた」
マグカップを置く音が、やけにはっきり響いた。
「守れた、とは言えん」
京子は慎一を見つめていた。
「でも、壊滅は防いだ」
「ああ」
「それも事実よ」
「分かっとる」
慎一は小さく頷いた。
「六十年以上生きてるとな、そういう言い訳は上手くなる」
「言い訳?」
「全部は救えん。だから救えた方を見る。そう考えれば、少しは楽になる」
慎一は苦く笑った。
「だがな、それで沈んだ艦が浮くわけじゃない」
京子は何も言わなかった。
その沈黙が、慎一にはありがたかった。
慰めはいらない。
ただ、そこにいてくれるだけでよかった。
◇
はるみが端末を操作した。
大型画面に、ミッドウェー海域の戦闘記録が再生される。
赤い点。
青い点。
線が絡み、散り、途切れていく。
美希が小さな声で言った。
「戦闘ログ、解析終わりました」
「見せてくれ」
慎一が言うと、美希は頷いた。
「米軍機の動きですが、途中から明らかに変わっています」
画面の一部が拡大される。
そこには、ハーパーとリチャードの機影が記録されていた。
「この二機、慎一さんを撃墜するというより、観測していました」
「ハーパーか」
「はい。もう一機はリチャードと思われます」
京子が画面を見る。
「距離を保っているわね」
「近づけば落とされると分かっていたんでしょう」
はるみが淡々と言った。
「ただし、こちらの動きはかなり見られています」
慎一は腕を組んだ。
「見られたか」
「はい。出現位置。射線。攻撃優先順位。ブースター使用のタイミング。レールガンの有効範囲」
美希は言葉を切った。
「それから、守る対象」
その言葉に、京子の表情が硬くなった。
慎一は目を細める。
「守る対象、か」
「はい」
はるみが別の映像を表示する。
味方機を救うために、慎一が赤城へ向かう編隊から一瞬だけ離れた場面。
飛龍攻撃隊を援護した場面。
敵をすべて追わず、艦隊防空に戻った場面。
その一つ一つが、線として画面に浮かぶ。
「米軍がこれを解析すれば、次は慎一さんの行動を誘導しようとする可能性があります」
京子が低く言った。
「つまり、守るものを餌にする」
美希が小さく頷く。
「はい」
食堂の空気が、再び重くなった。
慎一は黙って画面を見ていた。
赤い線。
青い線。
そこに、失われた命の数までは表示されない。
だが、慎一には見えているような気がした。
「まあ」
慎一はゆっくり口を開いた。
「狙われるのは、今さらだな」
京子が見る。
「慎一さん」
「問題は、どう狙ってくるかだ」
慎一はマグカップを手に取る。
「米軍も馬鹿じゃない。次は、俺を落とすための戦い方をしてくる」
幸雄が腕を組んだ。
「ファントム狩りか」
「向こうはそう呼ぶかもしれんな」
「笑い事じゃない」
「笑ってない」
慎一はコーヒーを飲んだ。
「ただな、狩られる側にも年季ってものがある」
京子が眉を寄せた。
「年季?」
「六十六年も生きとると、追いかけられるより、追いかける相手の癖を見るようになる」
「またおじいちゃん発言」
「大事なことだ」
慎一は真顔だった。
「若い奴は、獲物を見る。年寄りは、罠を見る」
その言葉に、食堂が少し静まった。
はるみがゆっくりと頷く。
「つまり、敵機ではなく、敵の意図を見るということですね」
「そうだ」
慎一は画面を指差した。
「今回もそうだった。敵機を全部落とす必要はなかった。攻撃線を切ればよかった」
「次も?」
「次は、向こうがこっちの攻撃線を読んでくる」
慎一の目が、わずかに鋭くなる。
「だから、その読みの外を飛ぶ」
◇
幸雄が工具箱を開いた。
「機体の方だが」
「どうだ」
「無茶な使い方をしたわりには、持った」
「褒めてるのか」
「半分な」
「残り半分は」
「説教だ」
慎一は苦笑した。
「やっぱりか」
幸雄は小さな部品をテーブルに置いた。
「空間磁気コイルを落下制御に使うなとは言わん」
「言わんのか」
「もう使っただろ」
「まあな」
「なら、使う前提で調整する」
慎一は幸雄を見た。
「できるのか」
「やる」
短い答えだった。
幸雄は続ける。
「ただし、長時間は無理だ。数秒。せいぜい姿勢を作るための補助だ」
「十分だ」
「十分じゃない。お前は十分と言う時ほど、ろくな使い方をしない」
京子が頷いた。
「それは分かる」
美希も頷いた。
「分かります」
はるみまで静かに頷いた。
「同意します」
慎一は三人を見た。
「味方がいないな」
幸雄が言った。
「日頃の行いだ」
「年寄りには優しくしろ」
「機体に優しくしろ」
その返しに、美希が吹き出した。
京子も笑った。
慎一も、少しだけ笑った。
戦場の後に、こういう時間がある。
それが、慎一には不思議だった。
昭和十七年の空で戦い、未来基地でコーヒーを飲む。
若い体に、六十六年分の記憶を入れて。
死んだはずの零戦に乗り、生き残った者たちのために飛ぶ。
考えれば考えるほど、妙な人生だった。
「まったく」
慎一は呟いた。
「年寄りを酷使する職場だ」
京子が笑う。
「給料は出ません」
「ブラックだな」
「ご飯とコーヒーは出るわ」
「なら、まあいいか」
そのやり取りで、食堂の空気がまた少し柔らかくなった。
◇
だが、画面の中の戦闘ログは消えていなかった。
美希が再び表示を切り替える。
「米軍側の次の動きですが」
「予測は」
「二つあります」
はるみが説明を引き継ぐ。
「一つは、守護神の射程外からの攻撃」
「難しいな」
「はい。ですが、敵は試すはずです」
「もう一つは」
「囮です」
京子の表情が硬くなる。
「慎一さんが守る対象を作り、そこへ誘導する」
慎一は黙って聞いていた。
「味方機。輸送船。空母。場合によっては、救助中の兵員」
美希の声が少し震えた。
「慎一さんが見捨てられないものを、敵が使ってくる可能性があります」
慎一はしばらく何も言わなかった。
やがて、静かにカップを置いた。
「嫌な戦いになるな」
京子が小さく頷く。
「ええ」
「だが、戦争なんてそんなもんだ」
慎一の声は、低かった。
「綺麗な勝ち方ばかり選べるなら、誰も苦労せん」
彼は画面の敵航跡を見た。
「だがな」
慎一の口元が、わずかに動いた。
「相手が罠を張るなら、こっちは罠ごと踏み抜く方法を考えればいい」
幸雄が眉を上げる。
「また無茶を考えてる顔だな」
「年寄りの知恵だ」
「悪知恵だろ」
「似たようなもんだ」
京子はため息をつきながらも、どこか安心したように笑った。
「慎一さん」
「ああ」
「次は、本当にあなたを狙ってくるわ」
「分かってる」
「怖くないの?」
慎一は少し考えた。
そして、ゆっくり答えた。
「怖いさ」
京子の目がわずかに揺れた。
「怖くないわけがない」
慎一は静かに続ける。
「六十六まで生きるとな、死ぬのは一回で十分だと思うようになる」
美希が息を呑む。
はるみも目を伏せた。
慎一は笑った。
「だから、二回目はできるだけ先延ばしにする」
京子は黙って慎一を見ていた。
慎一はマグカップを持ち上げる。
「そのためにも、まずは飯だな」
「また飯?」
「腹が減ると判断が鈍る」
「本当におじいちゃん」
「だから、そうだと言っとる」
慎一は平然とコーヒーを飲み干した。
そして、空になったカップを京子へ差し出す。
「もう一杯」
京子は少し笑った。
「濃いめ?」
「ああ」
慎一は画面の中の空を見た。
そこには、まだ次の敵はいない。
だが、もう戦いは始まっている。
米軍は、Phantomを狩る方法を探している。
日本軍は、守護神に救われた意味を知り始めている。
そして未来基地では、六十六歳の男が、二十歳の体でコーヒーのおかわりを待っていた。
京子が立ち上がり、コーヒーを淹れ始める。
苦い香りが、食堂に広がった。
慎一はその香りを吸い込み、少しだけ目を細めた。
「さて」
彼は小さく呟いた。
「年寄りの悪知恵を、少しは見せてやるか」
未来基地のモニターには、ミッドウェーの空がまだ映っていた。
戦いは終わっていない。
だが、慎一はもう次の空を見ていた。




