戦いの代償
第六十七話 戦いの代償
連合艦隊司令部に、ミッドウェー海戦の報告が届いたのは、戦闘の熱がまだ海の上に残っている頃だった。
報告書は、何枚にも分かれていた。
艦艇被害。
航空隊損耗。
敵艦隊への攻撃結果。
そして、守護神に関する報告。
参謀たちは、机の上に広げられた海図を囲んでいた。
赤い線。
黒い印。
沈没を示す記号。
損傷を示す記号。
その中心に、ミッドウェーの小さな島がある。
誰も、軽々しく口を開かなかった。
やがて、参謀の一人が報告書を読み上げた。
「赤城、沈没」
室内の空気が重く沈んだ。
連合艦隊の中核。
日本機動部隊の象徴とも言える空母。
その名が、沈没という言葉と共に読み上げられた。
誰も声を上げない。
ただ、紙をめくる音だけがした。
「蒼龍、損傷。飛行甲板に被害。現時点で沈没には至らず」
続いて、別の参謀が報告する。
「加賀、飛龍、翔鶴、瑞鶴は健在。戦闘行動継続可能との報告です」
その言葉に、わずかな息が漏れた。
安堵だった。
赤城を失った。
だが、機動部隊は壊滅していない。
五隻が残った。
それは、本来なら信じがたい結果だった。
だが、その安堵は長く続かなかった。
山本五十六は、海図を見つめたまま静かに言った。
「航空隊の損耗は」
室内が、再び静まり返った。
参謀が別の報告書を手に取る。
「零戦隊、損耗多数」
紙を持つ指が、わずかに止まる。
「艦上爆撃機隊も、損耗大。特に赤城、蒼龍所属機の被害が甚大です」
別の参謀が続けた。
「搭乗員の損失も、軽視できません」
山本は、すぐには答えなかった。
海図の上には、まだ五隻の空母が残っている。
だが、報告書の数字は別の現実を示していた。
艦は残った。
しかし、その甲板から飛び立つ翼は、大きく削られていた。
「艦は残った、か」
山本は低く呟いた。
誰も返事をしない。
山本はゆっくりと顔を上げた。
「だが、翼を失えば艦隊は飛べん」
その一言が、司令部に落ちた。
誰も反論しなかった。
空母は、海に浮かぶだけでは空母ではない。
飛行機を飛ばし、搭乗員が帰ってきて、また次の攻撃へ向かう。
それができて初めて、機動部隊は力を持つ。
赤城一隻の喪失だけではない。
零戦が減った。
艦爆が減った。
熟練の搭乗員も失われた。
それは、次の戦いにそのまま影を落とす。
「補充は」
山本が問う。
「機体の補充は可能です。しかし、搭乗員の補充には時間を要します」
「艦爆隊は」
「再編が必要です」
「零戦隊は」
「こちらも、各空母からの再配置を検討する必要があります」
山本は小さく頷いた。
「艦は造れる」
ゆっくりとした声だった。
「だが、熟練の搭乗員は一朝一夕には育たん」
参謀たちは黙っていた。
勝利を告げるはずの報告書が、いつの間にか次の不安を並べる紙になっていた。
ミッドウェーで日本は敗れなかった。
だが、無傷ではなかった。
◇
やがて、一枚の報告書が机の中央へ置かれた。
そこには、こう記されていた。
守護神。
所属不明の零戦。
複数海域で確認。
米軍攻撃隊を撃破。
赤城、蒼龍への追加攻撃を阻止。
飛龍攻撃隊の進路を支援した可能性あり。
山本は、その報告書を静かに読んだ。
何度も同じ名が出てくる。
守護神。
兵たちがそう呼ぶ零戦。
現れた場所は、一つではない。
赤城上空。
蒼龍方面。
敵攻撃隊の進路。
そして、味方航空隊が危機に陥った空。
それは、偶然ではなかった。
戦場の要所に現れ、危機の線を切っている。
山本は顔を上げた。
「一つ聞こう」
参謀たちが姿勢を正した。
「守護神が現れなかった場合、この海戦はどうなっていた」
その問いに、誰もすぐには答えられなかった。
室内が静まる。
紙の擦れる音すら止まった。
やがて、一人の参謀が低く答えた。
「赤城だけでは済まなかったかと」
別の参謀も続ける。
「蒼龍は沈没。加賀、飛龍にも被害が及んだ可能性があります」
「翔鶴、瑞鶴は」
「敵の攻撃が六隻同時に向けられていたとの報告があります。守護神が先に攻撃線を崩していなければ、無傷では済まなかったと思われます」
沈黙。
その沈黙が、答えだった。
山本は海図へ視線を落とした。
もし、あの零戦がいなかったら。
赤城だけではない。
蒼龍だけでもない。
機動部隊そのものが、ミッドウェーの海で崩れていたかもしれない。
それを止めたのは、一機の零戦だった。
山本は静かに息を吐いた。
「我々は勝利したのではない」
参謀たちの顔が上がる。
山本は続けた。
「救われたのだ」
その言葉に、誰も反論しなかった。
戦果はある。
敵にも損害を与えた。
機動部隊は残った。
だが、それは日本海軍の力だけで掴んだものではない。
戦場に現れた一機の零戦。
守護神と呼ばれる存在が、壊滅するはずだった流れを変えた。
その事実を、山本は見落とさなかった。
◇
「守護神の所属は」
山本が問う。
「不明です」
「機体番号は」
「確認できません。ただ、複数の報告に共通点があります」
「言え」
「通常の零戦とは思えぬ速度、上昇力、射程。さらに、敵機が通常火器では考えられない距離で撃墜されています」
参謀は一度言葉を切った。
「兵たちは、守護神と呼んでおります」
「米軍は」
「Phantom と呼んでいるとの情報もあります」
山本は目を細めた。
守護神。
Phantom。
同じ一機を、味方は神と呼び、敵は幽霊と呼ぶ。
それだけで、その存在がいかに異常か分かる。
「その零戦は、味方なのだな」
「少なくとも、今回の戦闘では我が方を救っています」
「では、味方として扱え」
山本の声は静かだった。
「だが、頼り切るな」
参謀たちが顔を上げる。
「守護神は一機だ」
山本は海図を見つめる。
「一機の零戦が、すべての空を守ることはできん」
その言葉は、報告書よりも重かった。
守護神がいた。
だから救われた。
だが、次も同じように救われるとは限らない。
戦争は奇跡だけでは続かない。
艦隊を動かすのは、人であり、機体であり、燃料であり、補給であり、訓練だった。
「航空隊の再編を急げ」
山本は命じた。
「各空母の残存機を確認。零戦隊、艦爆隊、艦攻隊の再配置案を出せ」
「はっ」
「搭乗員の損耗も正確にまとめろ。機体だけ数えても意味はない」
「了解しました」
「飛龍、加賀、翔鶴、瑞鶴を中心に、防空体制を組み直す」
参謀たちが一斉に動き出す。
報告書が分けられ、海図に新しい線が引かれる。
司令部の空気が変わった。
勝利の余韻ではない。
次の戦いに向かう空気だった。
◇
山本は一人、海図の前に残った。
赤城の位置には、沈没を示す印がある。
蒼龍には損傷の印。
その周囲に、五隻の空母がまだ残っている。
だが、山本には見えていた。
そこに描かれていないものが。
失われた零戦。
戻らなかった艦爆。
海へ消えた搭乗員たち。
そして、そのすべての上を飛んだ一機の零戦。
「守護神、か」
山本は小さく呟いた。
神など、戦場にはいない。
いるのは、人だ。
飛行機を飛ばし、弾を撃ち、命を賭ける人間だ。
それでも、兵たちがその名で呼んだ意味は分かる。
絶望の空に現れ、沈むはずだった艦を救った。
その姿を見た者が、守護神と呼びたくなるのも無理はない。
だが、山本は知っている。
守護神がいる戦場ほど、敵は必ずその守護神を狙う。
次からは違う。
米軍は、あの零戦を恐れるだけでは終わらない。
倒す方法を探してくる。
山本は海図から目を離さなかった。
「戦いは、まだ終わっておらん」
低い声だった。
誰に聞かせるでもない。
だが、その言葉は司令部の奥まで静かに響いた。
赤城を失った海。
守護神に救われた海。
そして、次の戦いが始まる海。
山本五十六は、その海をじっと見つめていた。




