母の空
第六十五話 母の空
それは、ミッドウェーの空が燃える少し前のことだった。
朝の光が、障子の隙間から細く差し込んでいた。
三上雪乃は、いつものように静かに目を覚ました。
部屋の中は、まだ少し冷えている。
布団をたたみ、畳の上を歩く。
台所へ向かう途中、雪乃はふと足を止めた。
隣の部屋。
そこには、今も慎一の茶碗が置かれていた。
毎朝使っていた茶碗。
少し欠けた縁。
何度も買い替えようかと思ったが、慎一が笑って言った。
「まだ使えるよ」
その声が、今も耳に残っている。
雪乃は、その茶碗をそっと手に取った。
今日は使わない。
けれど、しまうこともできない。
いつ帰ってきてもいいように。
そう思って、ずっとそこに置いている。
「……慎一」
小さく名前を呼んだ。
返事はない。
分かっている。
けれど、呼ばずにはいられなかった。
◇
朝餉の支度をする。
米を研ぎ、味噌汁を作り、漬物を皿へ出す。
雪乃は一人分の膳を整えた。
だが、少しだけ手が止まる。
いつもの癖で、もう一つ茶碗を出しかけたのだ。
雪乃は苦笑した。
「いけないわね」
そう言って、茶碗を戻す。
何度もそうしてきた。
慎一が海軍へ行ってから、ずっと。
夫を戦争で失い、今度は息子を戦地へ送り出した。
国のため。
お国のため。
みんな、そう言う。
雪乃も、口ではそう言った。
けれど母の胸の中では、いつも同じ願いだけがある。
無事に帰ってきてほしい。
ただ、それだけだった。
◇
午前のうちに、雪乃は洗濯物を干した。
空はよく晴れていた。
雲は高く、風は柔らかい。
白い布が風に揺れる。
その向こうに、青い空が広がっていた。
慎一も、どこかでこの空を見ているのだろうか。
そう思うことがある。
海の上。
基地の近く。
あるいは、もっと遠い南の空。
母には、戦場の場所など分からない。
地図を見ても、海の広さばかりが目に入る。
そこに息子がいる。
それだけで、胸が締めつけられる。
雪乃は洗濯物を挟む手を止め、空を見上げた。
「今日も、飛んでいるのかしら」
その声は、風に溶けた。
◇
昼前、雪乃は配給所へ向かった。
手ぬぐいを頭に被り、小さな袋を抱えて歩く。
道端では、近所の女たちが何人か立ち話をしていた。
戦争の話。
物資の話。
誰かの息子が出征した話。
誰かの家に手紙が届いた話。
そんな話ばかりだった。
「雪乃さん」
ひとりの年配の女が声をかけてきた。
「今日は早いね」
「ええ。少しだけ」
雪乃は軽く頭を下げた。
女は声を少し落とした。
「聞いたかい?」
「何をですか」
「海軍の噂だよ」
雪乃の胸が、わずかに動いた。
海軍。
その言葉を聞くだけで、慎一を思い出す。
「噂、ですか」
「そうそう。なんでもね、南の方の戦場で、不思議な零戦が出るんだって」
雪乃は瞬きをした。
「不思議な零戦……」
「どこからともなく現れて、日本の船や兵隊さんを助けるらしいよ」
別の女が話に加わった。
「あたしも聞いたよ。輸送船を守ったとか、敵の飛行機を一機で何十機も落としたとか」
「まあ、話半分だろうけどね」
年配の女は笑った。
「でも、兵隊さんたちは、その零戦をこう呼んでるんだってさ」
雪乃は、なぜか息を止めた。
「守護神」
その言葉が、朝の空気の中に落ちた。
雪乃の手が止まった。
袋を持つ指に、わずかに力が入る。
守護神。
神様のように、空から現れる零戦。
日本の船を守る零戦。
帰れないかもしれない兵を、帰らせる零戦。
なぜか、その言葉が胸の奥に触れた。
「雪乃さん?」
声をかけられて、雪乃は我に返った。
「あ……ごめんなさい」
「どうかしたのかい?」
「いえ。ただ……不思議な話だと思って」
雪乃はそう答えた。
女たちはまた別の話へ移っていく。
米の量。
近所の子ども。
遠くの戦況。
けれど雪乃の耳には、もうあまり入ってこなかった。
守護神。
その言葉だけが、胸の中で静かに残っていた。
◇
配給を受け取り、雪乃は家へ戻った。
道はいつもと同じだった。
軒先の鉢植え。
砂利道。
遠くから聞こえる子どもの声。
けれど、雪乃の心は少しだけ違っていた。
守護神。
不思議な零戦。
南の空。
慎一。
その言葉たちが、理由もなく結びつく。
雪乃は首を振った。
「そんなはず、ないわ」
慎一は普通の若い搭乗員だ。
どこからともなく現れる零戦など、物語の中の話に決まっている。
それに、もし慎一がそんな場所にいるなら、きっと手紙が来る。
無事だと知らせてくれる。
そう思いたかった。
けれど、母には不思議と分かることがある。
理屈ではない。
証拠もない。
ただ、胸がざわつく。
あの子の名を呼ぶ時と同じ場所が、静かに痛む。
雪乃は足を止めた。
空を見上げる。
雲が流れていた。
零戦の姿など、どこにもない。
それでも、雪乃はしばらく空を見ていた。
◇
家へ戻ると、雪乃は仏壇の前に座った。
夫、雄一の写真がある。
若いころのままの顔で、こちらを見ている。
雪乃は手を合わせた。
「あなた」
声は静かだった。
「慎一は、ちゃんとやっているでしょうか」
返事はない。
線香の煙が、細く上がっている。
「あなたに似て、我慢強い子です。でも、無理をするところも似ています」
雪乃は少しだけ笑った。
その笑みは、すぐに消えた。
「守護神という零戦があるそうです」
言ってから、自分でもおかしいと思った。
なぜ夫にそんな話をしているのか。
ただの噂だ。
近所の立ち話だ。
慎一とは何の関係もないはずだ。
それでも、言葉は続いた。
「もし本当に、そんな零戦があるのなら……」
雪乃は目を伏せた。
「慎一のことも、守ってください」
母は祈った。
戦争に勝ってほしいのではない。
敵を倒してほしいのでもない。
ただ、息子が生きて帰ること。
それだけを願った。
◇
午後、雪乃は慎一の部屋を少し掃除した。
畳を拭き、机の上の埃を払う。
筆箱。
古い教本。
飛行機の絵を描いた紙。
慎一は幼い頃から、よく空を見ていた。
鳥を見て。
雲を見て。
そして、飛行機に憧れた。
「いつか、空を飛ぶ」
そう言った時の顔を、雪乃はよく覚えている。
嬉しそうだった。
まぶしいくらいに。
だから、海軍へ行きたいと言った時も、雪乃は強く止められなかった。
本当は止めたかった。
行かないでと言いたかった。
でも、慎一の目は空を見ていた。
その目を、母の手で閉じさせることはできなかった。
雪乃は机の上に手を置いた。
「あなたは、空が好きだったものね」
部屋は静かだった。
窓の外で、風が鳴った。
◇
夕方。
雪乃は縁側に座っていた。
日が傾き、空が淡く染まり始めている。
洗濯物は取り込んだ。
夕餉の支度も済んでいる。
家の中は静かだった。
静かすぎるほどだった。
遠くで、誰かがラジオをつけている音が聞こえた。
戦況を伝える声。
勇ましい言葉。
勝利を告げるような言葉。
けれど、雪乃にはそれが遠く聞こえた。
母にとって大事なのは、戦果ではない。
作戦名でもない。
ただ、慎一が生きているかどうか。
それだけだった。
雪乃は空を見た。
朝とは違う色の空。
赤く、静かで、少し寂しい空。
「慎一」
名前を呼ぶ。
今度は、朝よりも少しはっきりと。
「あなたも、この空を見ていますか」
答えはない。
けれど、雪乃はしばらく空を見上げていた。
守護神。
その言葉が、また胸の奥に浮かぶ。
なぜその噂が気になるのか、雪乃にも分からない。
ただ、零戦という言葉を聞くたび、慎一の顔が浮かぶ。
空という言葉を聞くたび、慎一の声がする。
母とは、そういうものなのかもしれない。
◇
夜。
雪乃は慎一の茶碗をもう一度手に取った。
小さな欠けのある茶碗。
慎一が何度も使った茶碗。
それを布でそっと拭く。
しまわない。
明日もまた、同じ場所に置いておく。
いつ帰ってきてもいいように。
いつものように座って、いつものように飯を食べられるように。
雪乃は茶碗を置いた。
そして、静かに呟いた。
「帰ってきなさい、慎一」
誰もいない部屋に、その声だけが落ちた。
遠い南の空で、何が起きようとしているのか、雪乃はまだ知らない。
ミッドウェーという名も。
赤城が沈むことも。
慎一ではない慎一が、守護神と呼ばれる零戦でその空へ向かうことも。
何も知らない。
ただ、母は空を見上げる。
息子の無事を願って。
その空は、戦場へと続いていた。




