静かな帰還
第六十四話 静かな帰還
終わったのか?
慎一は、ミッドウェーの空でそう呟いた。
米軍機は、もうこちらへ向かってこなかった。
ミッドウェー島へ戻る機体。
母艦へ帰ろうとする機体。
傷つき、煙を引きながら、それぞれが戦場を離れていく。
日本機動部隊も針路を変えようとしていた。
赤城は沈んだ。
だが、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴は、まだ海の上にあった。
歴史は変わった。
確かに変わった。
だが、その代償は海に沈み、空にも散っていた。
◇
残った五隻の空母では、帰投機の収容が始まっていた。
加賀。
蒼龍。
飛龍。
翔鶴。
瑞鶴。
その飛行甲板へ、傷ついた零戦が次々と降りてくる。
主翼に穴を開けた機。
尾翼を削られた機。
風防を煤で汚した機。
エンジンから白煙を引く機。
脚を出したまま、ふらつくように降りてくる機。
着艦フックがワイヤーを掴む。
甲板の上で機体が跳ねる。
整備員たちが駆け寄る。
風防が開き、搭乗員が引きずり出される。
肩を貸される者。
自力で降りようとして膝をつく者。
機体を降りた途端、甲板に座り込む者。
それでも、彼らは帰ってきた。
だが、帰ってきた機体は少なかった。
飛び立った零戦の、半分にも満たない。
飛行甲板には、戻った機体よりも、戻らなかった機体の分だけ空白があった。
整備員たちは、その空白を見ていた。
誰も名前を呼ばなかった。
呼べば、その者が帰ってこないことを認めなければならなかった。
慎一は、その光景を上空から見ていた。
守れた命がある。
守れなかった命がある。
その両方が、ミッドウェーの空に残っていた。
◇
何機かの零戦が、着艦前に慎一の機体を見つけた。
上空に残る一機の零戦。
遠目には、ただの零戦に見える。
だが、彼らには分かっていた。
あれが守護神だ。
あの機体がいなければ、自分たちは戻ってこられなかったかもしれない。
ひとりの搭乗員が、着艦の直前に機体をわずかに傾けた。
敬礼の代わりだった。
別の零戦からも、無線が入る。
『守護神……助かった』
声は掠れていた。
息も荒い。
それでも、はっきり聞こえた。
『ありがとう』
慎一は、すぐには答えられなかった。
礼を言われる資格が、自分にあるのか分からなかった。
助けられた者もいる。
だが、帰れなかった者もいる。
その数の方が、ずっと重かった。
慎一は、ただ機体を小さく傾けた。
それが、彼にできる返礼だった。
◇
慎一はしばらく、赤城の消えた海を見ていた。
黒煙は薄れていく。
油膜が海面に広がっている。
そこにはもう、巨大な艦影はなかった。
そして空母の甲板には、帰ってこなかった零戦の空白が残っている。
どれだけ敵機を落としても。
どれだけ未来の技術を使っても。
なかったことにはできないものがある。
慎一は操縦桿を握ったまま、奥歯を噛んだ。
「……帰るか」
静かに機首を変えた。
追う敵はもういない。
守るべき艦隊も、戦場を離れていく。
ならば、自分も帰るべきだった。
未来基地へ。
京子たちのいる、あの無人島へ。
◇
慎一の零戦は、ミッドウェーの空を離れた。
ブースターは使わない。
栄改の音だけで、海の上を飛ぶ。
いつもなら、その音は頼もしく聞こえた。
だが今は、どこか疲れているように思えた。
機体も、自分も、同じだけ戦ったのだ。
風防の向こうに、青い海が広がっている。
どこまでも続く海。
その下に、赤城が沈んでいる。
その空に、帰らなかった搭乗員たちがいる。
勝ったのか。
負けたのか。
慎一には、まだ分からなかった。
ただ一つだけ分かることがある。
史実なら、この海で日本機動部隊は壊滅していた。
だが、この世界では五隻が残った。
赤城は沈んだ。
しかし、日本機動部隊は沈まなかった。
それが、自分の変えた歴史だった。
◇
無人島が見えてきた。
白い砂浜。
濃い緑。
そして、あの草地。
慎一が初めてこの時代で死に、そして戻ってきた場所。
未来基地の離着陸点だった。
慎一は高度を落とした。
低空で島へ近づく。
草地の上へ滑るように入る。
空間磁気コイルを起動。
機体がふわりと軽くなる。
零戦は、ブッシュの上を滑った。
滑走ではない。
空を掴んだまま、静かに減速していく。
いつもの帰還。
いつもの手順。
だが、今日は音が少なかった。
慎一は着陸点の上で機体を静止させた。
主脚を展開。
ゆっくりと接地。
栄改の音を絞る。
プロペラが回転を落とし、やがて止まった。
静寂が来た。
戦場の爆音の後では、その静けさが痛いほど大きかった。
◇
京子たちは、草地の端で待っていた。
京子。
はるみ。
美希。
幸雄。
誰も大きな声を出さなかった。
いつもなら、美希が最初に何か言う。
はるみが端末を抱えて走ってくる。
幸雄が機体の状態を見たがる。
京子が、少し怒ったような顔で近づいてくる。
だが今日は、誰も動かなかった。
慎一は風防を開けた。
海の匂いが、まだ体に残っている気がした。
いや、違う。
それはミッドウェーの空の記憶だった。
慎一はゆっくりと機体から降りた。
足が地面につく。
その瞬間、自分が戻ってきたのだと分かった。
戦場ではない。
未来基地だ。
だが、胸の中だけは、まだミッドウェーに残っていた。
京子が一歩近づいた。
言葉を探しているようだった。
それから、静かに言った。
「お帰りなさい」
慎一は、京子を見た。
何かを言おうとした。
赤城のこと。
沈んだ艦のこと。
助けられなかった人たちのこと。
帰ってこなかった零戦のこと。
だが、言葉にならなかった。
だから、短く答えた。
「ただいま」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
◇
零戦は、いつものように物質転送で格納庫へ送られた。
だが、慎一はしばらくその場に立っていた。
機体が消えた後の草地を見つめている。
そこに、さっきまで零戦があった。
その零戦は、ミッドウェーの空を飛び、敵を落とし、味方を守り、赤城を見送り、傷ついた零戦たちの帰還を見届けた。
そして今、何事もなかったかのように格納庫へ収まった。
その落差が、慎一には妙に苦しかった。
幸雄が近づいてきた。
いつものように機体のことを真っ先に聞くのかと思った。
だが、幸雄は何も言わなかった。
ただ、慎一の肩を軽く叩いた。
「戻っただけでいい」
慎一は少しだけ目を伏せた。
「ああ」
はるみは端末を抱えたまま、目を赤くしていた。
美希も黙っている。
いつもの明るい声はなかった。
京子は慎一の前に立ったまま、静かに言った。
「赤城は……」
慎一は頷いた。
「沈んだ」
誰も声を出さなかった。
風だけが草を揺らした。
「でも」
慎一は続けた。
「加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴は残った」
京子の表情がわずかに変わった。
はるみが息を呑む。
幸雄が低く呟いた。
「五隻が残ったのか」
「ああ」
慎一は空を見上げた。
「史実とは、もう違う」
◇
未来基地の作戦室には、すぐに戦果確認の表示が並べられた。
ミッドウェー海域。
日本機動部隊。
米軍艦隊。
損傷艦。
撃墜数。
撤退方向。
表示される数字は、冷たかった。
だが、その一つ一つの向こうに、人がいた。
慎一には、それが分かっていた。
赤城沈没。
ヨークタウン損傷。
日本空母五隻残存。
米軍攻撃隊大損害。
双方撤退。
そして。
零戦隊、大損耗。
その表示が出た瞬間、作戦室の空気がさらに重くなった。
はるみが、端末を見つめたまま小さく言った。
「帰投した零戦は……半数以下です」
慎一は画面を見た。
数字だった。
だが、その数字の一つ一つに、人の顔がある。
甲板に戻った機体。
戻らなかった機体。
無線で礼を言った声。
もう二度と届かない声。
「……そうか」
慎一は、それだけしか言えなかった。
結果だけを見れば、日本は史実の壊滅を免れた。
だが、勝利という言葉を口にする者はいなかった。
京子は画面を見つめていた。
「歴史は変わったわ」
慎一は黙っていた。
「でも……」
京子はそこで言葉を止めた。
その先は、言わなくても分かる。
歴史は変わった。
しかし、赤城は沈んだ。
そして、多くの零戦も帰らなかった。
慎一は椅子に腰を下ろした。
体が重い。
撃たれたわけではない。
傷もない。
だが、疲れが骨の奥に沈んでいた。
「俺は」
慎一は小さく言った。
「全部を変えられると思ってたのかもしれない」
京子は何も言わなかった。
「未来を知ってる。機体もある。武器もある。だから、間に合うと思ってた」
慎一は拳を握った。
「でも、間に合わないものもあるんだな」
沈黙。
その沈黙の中で、京子がゆっくりと口を開いた。
「それでも、あなたがいなかったら、五隻は残っていない」
慎一は顔を上げた。
「赤城は沈んだ。零戦隊も大きく傷ついた。でも、機動部隊は壊滅しなかった」
京子の声は静かだった。
「それは、あなたが変えた歴史よ」
慎一は答えなかった。
ただ、深く息を吐いた。
◇
その日の夕食は、いつもより静かだった。
京子は温かい味噌汁を出した。
焼いた魚。
白い飯。
漬物。
未来基地の食卓としては、いつもと変わらない。
だが、誰もすぐには箸を取らなかった。
戦場から帰ってきた直後の食事。
慎一は、湯気の立つ味噌汁を見つめた。
ミッドウェーの海では、今も救助が続いているかもしれない。
海に浮かぶ兵がいるかもしれない。
燃える艦を見上げている者がいるかもしれない。
飛行甲板には、帰ってこない仲間の場所が空いたままかもしれない。
そのことを考えると、食べ物の匂いすら重く感じた。
京子が静かに言った。
「食べて」
慎一は京子を見た。
「生きて帰ってきた人は、食べなきゃ駄目」
その言葉に、慎一は少しだけ目を閉じた。
そして、箸を取った。
味噌汁を一口飲む。
温かかった。
その温かさが、胸に染みた。
「うまい」
慎一は小さく言った。
京子は、ほんの少しだけ微笑んだ。
◇
夜。
慎一は一人で草地へ出た。
星が出ている。
ミッドウェーの空と同じ星なのかもしれない。
だが、ここは静かだった。
爆音もない。
機銃音もない。
落ちていく機体もない。
慎一は空を見上げた。
赤城は沈んだ。
五隻は残った。
ヨークタウンは燃えた。
ハーパーは生きている。
零戦隊は、大きな犠牲を払った。
戦争はまだ終わらない。
そして、自分はまだ飛ばなければならない。
慎一は拳を握った。
「次は……」
そこまで言って、言葉を止めた。
次は何を守れるのか。
何を失うのか。
それはまだ分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
もう歴史は、元には戻らない。
慎一はしばらく星を見上げていた。
未来基地の灯りが、背後で静かに揺れている。
帰る場所は、ここにあった。
だが、帰ってきた慎一の心は、まだあの海の上に残っていた。




