静かな撤退
第六十三話 静かな撤退
ミッドウェーの空は、なおも血を求めるように、青く広がっていた。
赤城の煙は、まだ海の上に残っている。
ヨークタウンの方角にも、黒い煙が立ち上っていた。
どちらの艦も、傷を負った。
どちらの空にも、帰らない機体があった。
それでも戦いは、まだ完全には終わっていなかった。
◇
慎一は、高度を保ったまま戦場を見下ろしていた。
レールガンの砲身は熱を持っている。
栄改の音も、いつもより少し荒く聞こえた。
空中砲台として敵攻撃隊を削り続けた。
一機。
また一機。
日本機動部隊へ向かう牙を、遠くから折り続けた。
だが、敵はまだ完全には消えていない。
散った攻撃機が、低空に逃げている。
雲の影へ潜る機体もある。
海面近くを這うようにして、なお艦隊方向へ向かおうとする機体もあった。
「まだ来るか」
慎一は短く呟いた。
照準を動かす。
遠く、低く飛ぶ一機。
味方の零戦隊からは届きにくい位置だった。
慎一は機体を少しだけ傾ける。
照準が重なる。
ガガッ。
レールガンが短く鳴った。
敵攻撃機の右主翼が砕ける。
機体は海面近くで傾き、そのまま白い水柱を上げた。
慎一は次を探した。
感情は切っている。
赤城を失った痛みは、胸の奥に沈めた。
今は泣く時間ではない。
怒る時間でもない。
ただ、撃つ。
守るために。
◇
ミッドウェー島から飛び立った攻撃隊は、混乱の中にあった。
彼らは日本機動部隊を叩くために飛んできた。
爆弾を抱え、魚雷を抱え、命令を受けて空へ上がった。
しかし、今その隊形はもう崩れていた。
前にいたはずの機体がいない。
横にいたはずの機体が火を噴いて落ちた。
後ろから来るはずの仲間も、無線に応答しない。
そして何より恐ろしいのは、敵が見えないことだった。
「また落ちた!」
「どこから撃っている!」
「上だ! いや、違う!」
「見えない!」
叫びが無線に重なる。
誰かが空を見上げる。
零戦は見えない。
追われてもいない。
だが、味方機が落ちる。
遠くから。
あり得ない距離から。
まるで空のどこかに、大砲が据えられているようだった。
「これは戦闘機じゃない……」
一人の搭乗員が、震える声で呟いた。
「あれは、空の砲台だ」
返事はなかった。
その沈黙が、恐怖をさらに濃くした。
彼らは、日本機動部隊へ近づくほど仲間が減っていくことに気づいていた。
進めば落ちる。
逃げても落ちるかもしれない。
だが進めば、確実にあの見えない砲台の射程へ入る。
別の声が無線に入った。
「引き返す」
「何だと」
「このままでは全滅する!」
「命令は攻撃だ!」
「攻撃する前に全滅する!」
その叫びは、悲鳴に近かった。
誰もすぐには否定できなかった。
彼らも分かっていた。
もう攻撃隊としての形は残っていない。
目標へ突入できるだけの数もない。
護衛も崩れた。
爆撃高度も乱れた。
雷撃の進入路も失われた。
残っているのは、恐怖と、燃料と、帰るべき島だけだった。
「撤退する!」
その言葉が、ついに無線に乗った。
それは命令というより、生存のための叫びだった。
一機が機首を返す。
続いて、別の一機も反転する。
それを見て、さらに数機が方向を変えた。
ミッドウェー島発進の攻撃隊は、ついに日本機動部隊への突入を諦めた。
◇
慎一は、その動きを見ていた。
敵機が、こちらへ向かわなくなった。
艦隊方向から外れていく。
散り散りになりながら、ミッドウェー島の方角へ戻っていく。
追えば落とせる。
あと数機は確実に撃てる。
だが、慎一は引き金を引かなかった。
彼らはもう日本機動部隊へ向かっていない。
攻撃の意思を失っている。
ならば、今撃つ意味はない。
慎一は照準を外した。
「帰れ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
敵である。
さっきまで日本の空母を沈めに来ていた相手である。
それでも、背を向けて逃げる機体を撃つ気にはならなかった。
戦争は終わっていない。
甘さが命取りになることも分かっている。
だが、今はもう、これ以上落とす必要はなかった。
◇
日本機動部隊でも、判断が下されようとしていた。
赤城は沈んだ。
蒼龍は損傷しながらも浮いている。
加賀、飛龍、翔鶴、瑞鶴は戦闘能力を残している。
だが、航空隊は消耗していた。
艦隊の陣形も乱れている。
救助活動も続いている。
そして何より、敵空母の全貌はまだ完全には分かっていない。
このまま追撃に移れば、残った五隻をさらに危険へ晒す。
艦橋では、沈痛な空気の中で命令がまとめられていた。
「赤城は失われた」
誰かが言った。
その言葉だけで、艦橋の空気が重く沈む。
だが、別の声が続いた。
「しかし、機動部隊は壊滅していない」
加賀。
蒼龍。
飛龍。
翔鶴。
瑞鶴。
五隻が残っている。
これは史実にはなかった未来だった。
だが、その未来を守るためには、今、退く必要があった。
「これ以上の追撃は危険である」
短い沈黙。
やがて、命令が下された。
「機動部隊、針路を変更。一時反転する」
それは敗走ではなかった。
勝利の凱旋でもなかった。
傷ついた機動部隊を、生かして持ち帰るための判断だった。
◇
加賀の艦橋から、赤城の沈んだ方角を見ていた士官がいた。
もう艦影はない。
煙だけが残っている。
彼はしばらく黙っていた。
やがて、帽子のつばに手を添える。
敬礼。
その横で、別の士官が命令を復唱した。
「針路変更、了解」
機関の音が変わる。
艦が、ゆっくりと向きを変える。
飛龍も。
蒼龍も。
翔鶴も。
瑞鶴も。
それぞれが、傷ついた空と海を背にして、針路を変えていく。
赤城のいない機動部隊が、初めて動き始めた。
◇
ヨークタウンでも、混乱は続いていた。
飛龍艦爆隊の一撃は、深く刺さっていた。
飛行甲板には損傷。
火災。
負傷者。
対空砲座の一部は沈黙している。
消火班が走り、整備員が叫び、艦橋では次々と報告が入る。
「火災、拡大中!」
「飛行甲板、使用制限あり!」
「負傷者多数!」
だが、ヨークタウンはまだ沈んでいない。
艦は生きている。
だからこそ、守らなければならない。
ハーパーはその上空を旋回していた。
リチャードも近くにいる。
彼らの機体にも弾痕があった。
燃料も少なくなっている。
それでも、ハーパーはヨークタウンから目を離せなかった。
「まだ浮いている」
リチャードが言った。
「ああ」
ハーパーは短く答えた。
「だが、次を受ければ分からない」
ヨークタウンは傷ついた。
攻撃隊も大きな損害を受けた。
日本機動部隊には、まだ複数の空母が残っている。
そして、ファントムがいる。
このまま戦い続ければ、ヨークタウンを失う。
それは、ハーパーにも分かった。
やがて、米軍側の無線に撤退の命令が流れた。
『各機、ヨークタウン防衛を継続しつつ、艦隊は一時後退する』
リチャードが息を吐いた。
「撤退か」
ハーパーは答えなかった。
撤退。
その言葉は苦かった。
赤城は沈めた。
ヨークタウンも損傷した。
日本の空母は、まだ残っている。
ファントムも落とせていない。
勝ったとは言えない。
だが、これ以上続ければ、失うものが大きすぎる。
ハーパーは、遠くの空を見た。
そこにファントムの姿は見えない。
だが、あの零戦はどこかにいる。
この戦場を変えた一機。
味方の攻撃隊を削り、ヨークタウンへの反撃を許した存在。
ハーパーは操縦桿を握りしめた。
「終わりじゃない」
リチャードが彼を見る。
ハーパーは低く続けた。
「今日は、ここまでだ」
◇
アメリカ艦隊もまた、距離を取り始めた。
ヨークタウンを守るため。
残った艦を失わないため。
攻撃隊を回収するため。
そして、ファントムという異常な敵を前に、態勢を立て直すため。
米軍機が一機、また一機と高度を落とし、母艦の方角へ戻っていく。
ミッドウェー島から来た機体も、傷つきながら帰路につく。
その中には、爆弾を抱えたまま戻る機体もあった。
投下する機会を失ったのだ。
彼らは何度も後ろを振り返った。
追ってくる零戦はいない。
だが、見えない砲台の恐怖だけは、まだ背中に張りついていた。
◇
慎一は、米軍機が遠ざかっていくのを見届けていた。
もうこちらへ向かってくる機体はない。
海面近くを逃げる機体も、雲へ入っていく機体も、全て艦隊から離れていく。
日本機動部隊も、針路を変えている。
赤城の煙。
ヨークタウンの煙。
二つの黒煙が、遠い海の上で薄れていく。
慎一は、しばらくその空に留まった。
誰かを追うためではない。
誰かを撃つためでもない。
ただ、この戦いが終わっていくのを見届けるために。
空には、まだ焼けた油の匂いがあるような気がした。
海には、沈んだ艦の影が残っているように見えた。
無線は少しずつ静かになっていく。
叫び声も。
機銃音も。
爆発音も。
一つずつ消えていく。
ミッドウェーの空から、銃声が消えた。
慎一は、操縦桿を握ったまま、小さく呟いた。
「終わったのか?」




