反撃の翼
第六十二話 反撃の翼
赤城を失っても。
歴史は、まだ沈んではいなかった。
◇
赤城が沈んだ海には、まだ黒い煙が残っていた。
油膜が広がり、破片が浮き、救助艇がその間を走っている。
周囲の艦は、沈黙していなかった。
泣いている暇はない。
海はまだ戦場だった。
空もまた、戦場だった。
日本機動部隊は旗艦を失った。
だが、まだ五隻の空母が残っている。
加賀。
蒼龍。
飛龍。
翔鶴。
瑞鶴。
そして、その中で最初に牙を剥いたのは、飛龍だった。
◇
飛龍の飛行甲板では、艦爆隊の発艦準備が進んでいた。
整備員たちは煤に汚れた顔で走っている。
赤城沈没の報は、すでに艦内へ伝わっていた。
誰も声高に泣かない。
誰も膝をつかない。
ただ、動きだけが速くなっていた。
「固定索、外せ!」
「爆装確認!」
「発艦準備よし!」
艦爆のエンジンが唸る。
甲板が震える。
搭乗員たちは、黙って前を見ていた。
その視線の先にあるのは、米空母。
ヨークタウン。
赤城を失った。
だが、ただ失っただけで終わらせるわけにはいかない。
飛龍の艦爆隊が、海風の中で翼を震わせた。
「発艦始め!」
一機目が走り出す。
甲板を蹴り、艦首を越え、空へ放り出される。
一瞬沈む。
だが、すぐに翼が空気を掴んだ。
飛龍の艦爆が、上がった。
二機目。
三機目。
次々と続く。
その周囲には、零戦隊がついた。
護衛の零戦。
彼らは知っていた。
この先には米軍戦闘機がいる。
そして、その中にはムスタングがいる。
先ほど味方を次々と落とした、あの男がいる。
それでも行く。
艦爆を守るために。
ヨークタウンへ届かせるために。
◇
その頃、慎一は赤城の沈んだ海を背に、再び高度を取っていた。
赤城を見送った痛みは、胸の奥に残っている。
だが、今はその痛みに浸っている時間はなかった。
敵はまだいる。
日本機動部隊へ向かう攻撃隊は、まだ完全には潰えていない。
赤城は失った。
ならば、もう一隻も沈めさせない。
慎一は、機首を上げた。
栄改の音が低く伸びる。
機体は雲の下を抜け、さらに高度を取る。
ブースターは使わない。
必要なのは速度ではない。
視界だった。
戦場全体を見るための高さ。
敵の進路を読むための距離。
そして、レールガンを最大限に活かすための位置。
慎一は呼吸を整えた。
「……砲台になる」
零戦が、空中で安定した。
旋回ではない。
追撃でもない。
慎一は空の一点に機体を置いた。
そこから、敵攻撃隊の進路を見下ろす。
艦隊へ向かう線。
雲に隠れようとする線。
零戦隊を避け、低く抜けようとする線。
それらが、慎一の頭の中で一本ずつ見えていく。
レールガンの照準が、遠くの一点へ吸い寄せられた。
ガガッ。
短い発射音。
遥か先の敵攻撃機が、黒煙を噴いた。
続けてもう一発。
別の機体の翼が折れる。
米軍機は、何が起きたのか分からなかった。
追われていない。
後ろを取られてもいない。
だが、落ちる。
遠くから撃たれている。
「上だ!」
「いや、どこだ!」
「見えない!」
無線の叫びは、恐怖だけを増やしていく。
慎一は表情を変えない。
敵を追わない。
敵が来る場所を撃つ。
零戦は、空中の砲台になっていた。
◇
飛龍艦爆隊は、ヨークタウンへ向かっていた。
高度を取りすぎれば見つかる。
低すぎれば燃料を食い、突入の角度が悪くなる。
艦爆隊長は、慎重に高度を選んだ。
その周囲を、零戦隊が守っている。
だが、護衛の零戦たちには緊張があった。
彼らは先ほど見た。
ムスタングが、零戦の旋回に付き合わず、上から速度で切り込んでくるのを。
今度は自分たちが、その相手をしなければならない。
「艦爆に近づけるな」
誰かが言った。
「分かっている」
「守護神はいないぞ」
「だから俺たちが守るんだ」
その言葉で、無線が静かになった。
そうだ。
守護神はいない。
慎一は別の空で、機動部隊へ向かう敵を止めている。
ここは、自分たちの空だった。
護衛零戦隊は、艦爆隊の周囲に散った。
ただ敵を落とすのではない。
艦爆を守る。
それが任務だった。
◇
ヨークタウン側でも、飛龍艦爆隊の接近は察知されていた。
見張員が叫ぶ。
「敵編隊、接近!」
「方位!」
「日本機です!」
ヨークタウンの甲板に緊張が走った。
対空砲が旋回する。
弾薬が運ばれる。
艦橋では命令が飛ぶ。
「戦闘機隊を向かわせろ!」
その報告を、ハーパーは空で受け取った。
『敵艦爆隊、ヨークタウンへ接近中』
ハーパーは一瞬、ファントムのいる方角を見た。
遠い空で、また米軍攻撃機が落ちている。
あれはファントムだ。
あの零戦が、残った攻撃隊を削っている。
追いたい。
あの飛び方を、もっと見たい。
もっと近づきたい。
だが、今ではない。
ヨークタウンが狙われている。
自分たちの帰る場所が。
仲間たちの母艦が。
ハーパーは操縦桿を握り直した。
「リチャード」
「分かってる」
「ファントムは後だ」
ハーパーは機首をヨークタウンの方角へ向けた。
「ヨークタウンを守る」
リチャードの声が低くなる。
「了解」
ムスタング二機が、反転した。
ファントムへ向かうのではない。
母艦を守るために。
◇
慎一は、遠くでムスタング二機が進路を変えるのを見た。
ハーパーだ。
ファントムを追ってこない。
ヨークタウンへ向かっている。
「そうするよな」
慎一は小さく呟いた。
敵ながら、判断は正しい。
今ハーパーが自分を追えば、ヨークタウンは危うくなる。
だから、あの男は母艦を守りに行った。
慎一も同じだった。
ヨークタウン攻撃隊に付きたい気持ちはある。
だが、行けない。
こちらには、まだ守るべき艦がある。
加賀。
蒼龍。
飛龍。
翔鶴。
瑞鶴。
五隻を残して、ヨークタウンへ向かうわけにはいかない。
「そっちは任せるぞ」
それは飛龍艦爆隊へ向けた言葉だった。
届くはずのない声だった。
慎一は再び照準を動かした。
艦隊へ向かう敵攻撃機を捉える。
ガガッ。
また一機、落ちた。
◇
飛龍艦爆隊の前方に、米軍戦闘機が現れた。
ワイルドキャット。
そして、その上方に二機のムスタング。
護衛零戦隊が即座に散る。
「来たぞ!」
「艦爆を守れ!」
米軍機が突っ込んでくる。
零戦隊は迎え撃った。
先ほどのように、無闇に追わない。
高度を奪われないように、互いの位置を保つ。
慎一の言葉が、まだ彼らの中に残っていた。
追わせろ。
追うな。
相手を曲げさせろ。
護衛零戦は、艦爆の前に壁を作った。
その壁へ、ハーパーが降ってくる。
速い。
だが、零戦隊は逃げなかった。
一機が正面を受ける。
別の一機が横へ回る。
三機目が艦爆の進路を守る。
ハーパーは一瞬、眉を寄せた。
「動きが変わっている」
リチャードが叫ぶ。
「守護神の指示か?」
「たぶんな」
ハーパーは冷静に答えた。
零戦隊は、さっきより厄介になっている。
だが、それでも突破しなければならない。
ヨークタウンを守るために。
ハーパーは一機の零戦へ狙いを定めた。
真正面からではない。
その零戦が艦爆を守るために、必ず入る場所。
そこへ弾を置く。
機銃が火を吹いた。
零戦が機体をひねる。
弾は外れる。
だが、零戦は進路を変えざるを得なかった。
その隙間を、ワイルドキャットが抜ける。
「一機通した!」
「止めろ!」
零戦が追う。
艦爆隊が進路を崩さないように、必死に飛ぶ。
ヨークタウンまでの空が、火花を散らし始めた。
◇
慎一の空でも、戦いは続いていた。
レールガンが吠える。
敵攻撃機が落ちる。
だが、敵は一方向からだけ来るわけではない。
別の編隊が低空へ逃げた。
雲の下を這うように、艦隊へ近づこうとしている。
慎一は高度を捨てた。
空中砲台の位置を変える。
零戦が滑るように下へ降りる。
高度を下げながら、次の射線を作る。
ガガッ。
低空の敵機が火を噴く。
さらに一機。
さらに一機。
だが、完全には止めきれない。
敵も必死だった。
死ぬためではない。
任務を果たすために。
赤城を沈めた戦場で、米軍もまた、まだ折れていなかった。
「しぶといな」
慎一は呟いた。
それは怒りではなかった。
むしろ、認めるような声だった。
戦争とは、こういうものなのだ。
片方だけが強いわけではない。
片方だけが正しいわけでもない。
どちらも、守るもののために命を削っている。
だからこそ、止めなければならない。
慎一は次の敵へ照準を合わせた。
◇
飛龍艦爆隊は、ついにヨークタウンを視認した。
海の上に浮かぶ巨大な影。
その周囲に対空砲火が花のように咲き始める。
黒い煙の弾幕。
白い水柱。
火線。
艦爆隊長が叫んだ。
「目標、ヨークタウン!」
艦爆隊が高度を取る。
突入準備。
その瞬間、上からハーパーが来た。
「落とせ!」
米軍機が艦爆隊へ食らいつく。
零戦隊が割って入る。
一機の零戦が、ハーパーの射線に自ら飛び込んだ。
艦爆を守るためだった。
機銃弾が零戦の胴体を裂く。
火が出る。
だが、その零戦は最後まで機首をずらさなかった。
ハーパーの射線を塞いだまま、海へ落ちていく。
その陰で、一機の艦爆が突入位置へ入った。
ハーパーは歯を食いしばった。
「くそっ!」
ヨークタウンの対空砲が撃ち上げる。
艦爆は揺れる。
それでも進む。
翼を震わせながら、急降下へ入った。
◇
遠く離れた空で、慎一はその黒煙を見た。
ヨークタウンの方角。
対空砲火の煙。
艦爆隊が突入している。
行けない。
分かっている。
それでも、慎一は一瞬だけそちらを見た。
「頼む」
短く言った。
そしてすぐに、別の敵機へ向き直った。
今、自分が守るべき空はここだ。
飛龍艦爆隊には、飛龍艦爆隊の戦いがある。
護衛零戦隊には、護衛零戦隊の戦いがある。
ハーパーには、ハーパーの戦いがある。
そして慎一には、慎一の戦いがあった。
レールガンが再び火を吹く。
日本機動部隊へ向かっていた敵機が、炎を上げて海へ落ちた。
◇
ヨークタウン上空。
飛龍の艦爆が、急降下していた。
対空砲火が機体を揺らす。
破片が翼を叩く。
操縦席の中で、搭乗員は目標だけを見ていた。
ヨークタウンの甲板が大きくなる。
大きくなる。
さらに大きくなる。
「投下!」
爆弾が切り離された。
艦爆は機首を引き起こす。
その下で、爆弾がヨークタウンへ向かって落ちていく。
ハーパーはそれを見た。
リチャードも見た。
ヨークタウンの甲板上で、兵たちが見上げていた。
次の瞬間。
白い閃光。
黒い煙。
ヨークタウンの甲板から、炎が立ち上がった。
◇
ハーパーは、言葉を失った。
守れなかった。
完全には。
ヨークタウンはまだ沈んでいない。
だが、確かに傷を負った。
母艦が燃えている。
帰る場所が、火を噴いている。
無線に叫びが走る。
『ヨークタウン被弾!』
『飛行甲板に損傷!』
『消火班、急げ!』
リチャードが叫ぶ。
「ハーパー!」
ハーパーは答えなかった。
視線は燃えるヨークタウンに釘付けだった。
その向こうの空に、ファントムはいない。
だが、ハーパーには分かっていた。
この戦場のどこかで、あの零戦もまた、何かを守るために戦っている。
赤城は沈んだ。
ヨークタウンは燃えている。
この空では、誰も無傷ではいられない。
ハーパーは操縦桿を握り直した。
「まだだ」
声は低かった。
「まだ沈んでいない」
彼はヨークタウンの上空へ向かった。
母艦を守るために。
そして、いつかファントムを撃つために。
◇
遠くの空で、慎一はヨークタウンの方角に上がる黒煙を見た。
届いた。
飛龍の反撃が、届いた。
だが、慎一は笑わなかった。
赤城の煙。
ヨークタウンの煙。
二つの煙が、ミッドウェーの空に立っている。
それは勝利の煙ではなかった。
戦争の煙だった。
慎一は静かに息を吐いた。
「まだ終わらないな」
栄改が低く唸る。
レールガンの残弾を確認する。
敵はまだいる。
味方もまだ飛んでいる。
飛龍の艦爆隊も帰らなければならない。
ヨークタウンは燃えた。
だが、海戦はまだ終わっていなかった。
赤城を失った日本機動部隊は、反撃の翼を放った。
その翼は、確かにヨークタウンへ届いた。
だがミッドウェーの空は、なおも血を求めるように、青く広がっていた。




