赤城沈没
第六十一話 赤城沈没
ミッドウェーの空で、二つの翼は初めて互いの隙を見た。
慎一は、ハーパーが危険な男だと知った。
ハーパーは、ファントムにも守るものがあると知った。
だが、その二人の戦いとは別の場所で、すでに一つの命が尽きようとしていた。
日本機動部隊旗艦。
赤城。
その艦は、まだ浮いていた。
だが、もう戦ってはいなかった。
◇
赤城の飛行甲板からは、黒い煙が絶え間なく上がっていた。
甲板は歪み、焦げ、ところどころが裂けている。
爆風で吹き飛ばされた機材が、傾いたまま転がっていた。
かつて整然と並んでいた艦上機は、もうそこにはない。
燃えた残骸。
曲がった主翼。
弾け飛んだ車輪。
それらが、赤城の上で静かに燻っていた。
艦内では、まだ人が走っていた。
「消火班、前部へ回れ!」
「弾薬庫の温度は!」
「まだ上がっています!」
「注水を急げ!」
叫び声が、煙の中で交差する。
誰も諦めていなかった。
赤城はまだ浮いている。
ならば救える。
誰もがそう信じようとしていた。
消火ホースが引かれる。
水が噴き出す。
だが、炎は消えたと思えば、別の場所からまた顔を出した。
艦の奥で燃えている。
見える火ではない。
見えない場所で、赤城の内側を食っている火だった。
◇
機関室にも、熱は迫っていた。
鋼鉄の壁が熱を持ち、空気が重くなる。
照明は暗く、ところどころで火花が散っている。
兵たちは汗と煤にまみれながら、まだ機械にしがみついていた。
「蒸気圧、落ちます!」
「持たせろ!」
「無理です、配管が……!」
大きな音がした。
どこかで金属が裂けた音だった。
床が揺れる。
誰かが転び、すぐに別の兵が腕を掴んで引き起こした。
「立て!」
「まだ終わってないぞ!」
その言葉に、誰も反論しなかった。
終わっていない。
そう思いたかった。
赤城は日本機動部隊の旗艦だった。
その名を背負って、ここまで来た艦だった。
沈むなど、誰も口にできなかった。
◇
艦橋では、報告が途切れず入っていた。
「前部火災、延焼中!」
「格納庫内、消火困難!」
「注水による傾斜、増大!」
「機関部、出力低下!」
艦橋の空気は、煙と熱で濁っている。
それでも指揮は続いていた。
誰も取り乱してはいない。
ただ、全員が分かり始めていた。
赤城はもう、戻れない場所へ入りつつある。
「傾斜は」
「右へ八度。なお増大中」
「復旧班は」
「作業中です。しかし……」
報告は、そこで途切れた。
その先を言う必要はなかった。
沈黙が艦橋を満たす。
遠くで爆発音がした。
艦内のどこかで、また何かが誘爆したのだ。
赤城が小さく震えた。
まるで、苦しみに耐えるように。
◇
その頃、慎一は赤城の上空へ戻りつつあった。
ミッドウェーの空は、まだ終わっていない。
敵機は散り、味方機も散っている。
黒煙はあちこちに上がっていた。
だが、その中でひときわ太い煙があった。
赤城だった。
慎一は、一瞬言葉を失った。
分かっていた。
分かっていたはずだった。
赤城は最初の攻撃で大きくやられていた。
その後の攻撃は止めた。
さらに来るはずだった牙も、何本も折った。
だが、最初の傷は消えない。
燃えたものは、燃えたままだ。
壊れたものは、壊れたままだ。
どれだけ空で敵を落としても、艦の中で続いている戦いには手が届かない。
慎一は操縦桿を握ったまま、赤城を見下ろした。
「……駄目なのか」
答える者はいない。
栄改の音だけが、低く耳に残っていた。
◇
赤城の甲板では、負傷者の搬出が始まっていた。
肩を貸される者。
担架に乗せられる者。
自力で歩こうとして、膝をつく者。
それでも、彼らの多くは後ろを振り返った。
赤城を見た。
自分たちが乗っていた艦を。
自分たちが守ろうとした艦を。
煙の中で、誰かが泣いていた。
誰かが怒鳴っていた。
誰かが、ただ黙って甲板を撫でていた。
「まだ消せる!」
一人の兵が叫んだ。
「まだ、やれます!」
だが、その声を飲み込むように、艦内から鈍い爆発音が響いた。
甲板が大きく揺れる。
煙が一気に吹き上がった。
炎が、再び赤城の腹から噴き出した。
その瞬間、誰もが理解した。
赤城は、もう限界だった。
◇
艦橋に、最後の報告が入った。
「弾薬庫への延焼、阻止困難!」
「傾斜、十二度!」
「機関、停止!」
少しの沈黙。
それは長くはなかった。
けれど、その場にいた者には、一生分にも思えた。
やがて、静かな声が出た。
「総員退艦」
誰も動かなかった。
聞こえなかったのではない。
聞きたくなかったのだ。
もう一度、声が響いた。
「総員退艦。これは命令である」
その瞬間、赤城の中で何かが終わった。
そして、別の何かが始まった。
生きて帰るための戦いだった。
◇
兵たちは海へ移り始めた。
救命具を抱え、縄梯子を降り、ある者はそのまま海へ飛び込んだ。
海面には、すでに多くの人影が浮かんでいる。
油が広がっていた。
破片が浮いていた。
それでも、周囲の艦が救助に向かう。
手が伸びる。
腕が掴まれる。
引き上げられる。
「こっちだ!」
「まだいるぞ!」
「そこに二人!」
海の上でも、戦いは続いていた。
死なせないための戦いだった。
慎一はその光景を見ていた。
敵機を落とすことはできる。
爆撃を止めることもできる。
だが、今この瞬間、海に落ちた一人一人を自分の手で引き上げることはできない。
慎一は歯を食いしばった。
風防の向こうで、赤城が傾いていく。
◇
赤城は、ゆっくりと沈み始めた。
最初は、ただ傾いているように見えた。
だが、違った。
艦尾がわずかに沈む。
甲板の傾きが増す。
煙が風に流され、軍艦旗がかすかに見えた。
それはまだ、そこにあった。
燃える艦の上で、最後まで風を受けていた。
誰かが敬礼した。
それを見た別の者も、震える手を上げた。
海の上で。
救助艇の中で。
周囲の艦の甲板で。
多くの兵が、沈みゆく旗艦へ向けて敬礼した。
慎一もまた、何も言わず、操縦席の中で小さく頭を下げた。
彼は三上慎一ではない。
この時代の海軍兵として生きてきた男ではない。
それでも、その光景を見て、胸が締めつけられた。
「……すまない」
声は小さかった。
誰にも届かなかった。
それでよかった。
赤城は、ゆっくりと海へ沈んでいった。
◇
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
無線にも、沈黙が広がっていた。
赤城がいた場所には、黒い煙と油膜だけが残っている。
日本機動部隊旗艦。
赤城。
その名は、ミッドウェーの海に消えた。
だが、戦いは終わっていなかった。
慎一の無線に、次の報告が入る。
『蒼龍、消火作業継続中。航行は可能』
別の声が続いた。
『加賀、被害軽微。航空作業再開準備中』
『飛龍、戦闘継続可能』
『翔鶴、瑞鶴、ともに健在』
慎一は、ゆっくりと顔を上げた。
赤城は沈んだ。
救えなかった。
だが。
蒼龍はまだ浮いている。
加賀も。
飛龍も。
翔鶴も。
瑞鶴も。
日本機動部隊は、まだ生きていた。
史実なら、この海で失われるはずだった力が、まだ残っている。
慎一は深く息を吸った。
胸の奥に、苦いものが残っている。
勝利の味ではない。
ただの達成感でもない。
それは、赤城を失った痛みと、なお守るべきものが残っている重さだった。
慎一は操縦桿を握り直した。
「終わらせるぞ」
栄改が、低く応えた。
ミッドウェーの空は、まだ続いている。
赤城を失っても。
歴史は、まだ沈んではいなかった。




