守護神の隙
第六十話 守護神の隙
二人の戦いは、静かに始まっていた。
ミッドウェーの空では、まだ無数の機影が入り乱れている。
日本の零戦。
米軍のワイルドキャット。
そして、ハーパーとリチャードのムスタング。
その全てが、互いの命を削るように空を奪い合っていた。
だが、その戦場の中心で、二つの機影だけが別の緊張をまとっていた。
慎一の零戦。
ハーパーのムスタング。
距離は縮まっている。
どちらも相手から目を離していなかった。
◇
慎一は、ハーパーの動きを見ていた。
速い。
だが、それだけなら驚かない。
問題は、その速さの使い方だった。
ハーパーは、速度を無駄にしない。
旋回で勝とうとしない。
上を取り、下へ落ち、撃った瞬間に離れる。
零戦のもっとも得意な空へ、決して入ってこない。
「よく分かってるな」
慎一は小さく呟いた。
今までの米軍機とは違う。
恐怖に押されて逃げるだけではない。
数で押し潰そうとするだけでもない。
零戦という機体を理解し、その強みを消すように飛んでいる。
もし、あの男が何人もいれば。
そう考えた瞬間、慎一の胸に冷たいものが沈んだ。
日本の零戦隊は、もっと落とされる。
ここで止めるしかない。
慎一は機首をわずかに下げた。
レールガンの照準が、ハーパーの進路の先へ移る。
だが、撃てない。
射線の向こうには、味方の零戦がいた。
「邪魔だな……」
慎一は舌打ちした。
レールガンは強い。
強すぎる。
だからこそ、味方が入り乱れる空では簡単に使えなかった。
しかも、この距離では、7.7ミリでも味方まで届いてしまう、射線は選ばなくてはならない。
慎一は機体を横へ滑らせた。
射線を変える。
位置を変える。
味方を巻き込まない角度を探す。
◇
ハーパーもまた、それに気づいていた。
ファントムが撃たない。
撃たないのではない。
撃てないのだ。
理由はすぐに分かった。
日本の零戦が近い。
あの異常な火力を使えば、味方も巻き込む可能性がある。
「そうか」
ハーパーの目が細くなった。
ファントムにも制約がある。
無敵ではない。
何でもできるわけではない。
ならば、そこに入り込める。
「リチャード」
「何だ」
「零戦の近くを使え。ファントムは味方ごと撃てない」
リチャードが一瞬だけ息を呑む。
「盾にするのか」
「違う」
ハーパーは静かに言った。
「戦場を使う」
言葉は冷たかった。
だが、それは卑怯ではない。
空戦とは、そういうものだった。
高度も、太陽も、雲も、味方も、敵も。
使えるものは全て使う。
生き残るために。
勝つために。
ハーパーは機体を右へ傾けた。
その先には、ワイルドキャットを追う一機の零戦がいた。
さらにその向こうに、ファントムがいる。
ハーパーはその間に、自分の機体を滑り込ませた。
◇
慎一は眉を寄せた。
「嫌なところに入る」
ハーパーは、わざと味方と敵の間に入ってきた。
こちらの射線を切るためだ。
ただ逃げているのではない。
慎一の武器を理解し始めている。
慎一は機首を動かした。
撃てない。
なら、近づく。
近づいて、切り取る。
慎一の零戦が速度を上げた。栄エンジンが唸る。
味方の零戦がワイルドキャットを追っている。
その背後へ、ハーパーが迫る。
さらにその外側から、慎一が入る。
三つの機影が、一本の線に近づいていく。
味方の零戦は、まだ気づいていない。
「下へ逃げろ!」
慎一は無線に叫んだ。
だが遅い。
ハーパーの機銃が火を吹いた。
慎一は同時に機首を振った。
トリガーを押す、7.7ミリ機銃だ。
ハーパーの弾は零戦の翼をかすめた。
慎一の弾は、ハーパーのムスタングの前方を走った。
どちらも致命傷にはならない。
だが、両方の機体がわずかに軌道を変えた。
味方の零戦は、その一瞬で逃げた。
ハーパーは上昇する。
慎一はその下を抜ける。
二つの機影が、初めて至近距離で交差した。
◇
一瞬だった。
だが、慎一は見た。
ムスタングの操縦席。
そこにいる男の影。
見覚えのある顔。
こちらを見ていた。
偶然ではない。
確かに見ていた。
ハーパーもまた、見た。
零戦の操縦席。
風防の奥にいる男。
あの目、間違いがなかった。ファントム!
あの機体を飛ばしている者。
爆撃隊を砕き、米軍を恐怖に落とした男。
二人の視線は、ほんの一瞬だけ交わった。
そしてすぐに離れた。
◇
「見えたか」
リチャードの声が無線に入った。
ハーパーは答えなかった。
手のひらに汗がにじんでいる。
今の交差。
あと少し遅ければ、落とされていた。
いや。ファントムは自分を落とすより、味方の零戦を逃がすことを優先した。
だから生き残った。
その事実が、ハーパーの胸に重く刺さる。
「……奴は、見えている」
「何がだ」
「全部だ」
ハーパーは低く言った。
敵。
味方。
射線。
逃げ道。
落とすべき機体。
守るべき機体。
ファントムは、それらを同時に見ている。
そして、その中で最も必要な一手を選ぶ。
ただ強いのではない。
戦場そのものを動かしている。
ハーパーは歯を食いしばった。
「だが、近づけた」
その声には、恐怖ではなく、確かな熱があった。
リチャードは黙った。
ハーパーが何かを掴みかけている。
それだけは分かった。
◇
慎一は機体を立て直しながら、ハーパーのムスタングを追った。
落とせなかった。
いや、落とさなかった。
味方を助けることを優先した。
判断としては間違っていない。
だが、ハーパーは生き残った。
そして、こちらを見た。
「あいつ、学んでるな」
慎一は小さく呟いた。
一度の交差で、相手はこちらの制約を読んだ。
味方が近ければレールガンを使いにくい。
乱戦では、こちらも自由ではない。
それを使ってくる。
やりにくい相手だった。
だが、同時に慎一は理解した。
ハーパーもまた、万能ではない。
速度を保つには、旋回を捨てなければならない。
高度を武器にするには、上を取り続けなければならない。
味方を使うなら、味方の動きに縛られる。
互いに、自由ではない。
だからこそ、戦いになる。
慎一は機首を上げた。
ハーパーは上へ逃げる。
慎一は追わない。
追えば、別の敵機が艦隊へ向かう。
今は一騎討ちではない。
戦場は、まだ広い。
◇
その時、遠くで黒煙が上がった。
日本艦隊へ向かおうとしていた別の攻撃隊が、針路を変えようとしている。
混乱した空の中で、まだ諦めていない米軍機がいた。
慎一はそちらを見た。
ハーパーもまた、別の方向からその動きを見ていた。
二人は同時に判断した。
慎一は艦隊を守るために。
ハーパーは米軍機を通すために。
同じ空の別の意味を見た。
「行かせるか」
慎一が呟く。
「通せ」
ハーパーが言った。
二つの機影が、再び動く。
今度は互いを狙うためではない。
一つの攻撃隊をめぐって、空の道を奪い合うためだった。
◇
米軍攻撃隊の一機が、日本艦隊へ向けて進路を戻そうとしていた。
損傷している。
編隊も崩れている。
だが、まだ爆弾を抱えていた。
それが加賀へ向かっている。
慎一は一瞬で判断した。
落とす。
そのために機首を向けた。
だが、その線を遮るように、ハーパーが上から入ってきた。
撃ってきた。
機銃弾が慎一の進路の先を叩く。
当てにきたのではない。
止めにきた。
「邪魔をするな」
慎一は機体を沈めた。
機銃弾が上を抜ける。
そのまま下から攻撃隊へ向かう。
ハーパーは追う。
しかし、慎一の動きは速かった。
零戦は攻撃隊の横腹に入る。
射線の向こうに味方艦隊がいる。
慎一は7.7ミリ機銃の引き金を絞った。
長めの連射。
敵攻撃機のエンジンが砕けた。
黒煙。
機体が傾く。
爆弾を抱えたまま、海へ落ちていく。
◇
ハーパーは、その光景を見た。
止められなかった。
だが、ただ見ていたわけではない。
今のファントムの動き。
味方を避け、艦隊を避け、武器を選び、最短で敵を落とした。
その判断の速さ。
ハーパーは胸の奥で、何かがさらに硬くなるのを感じた。
「リチャード」
「何だ」
「奴は落とせる」
リチャードは驚いた。
「今のを見て、そう思うのか?」
「ああ」
ハーパーはファントムを見た。
「奴は強い。だが、守るものが多すぎる」
リチャードは黙った。
ハーパーの声は震えていない。
むしろ、奇妙なほど落ち着いていた。
「守るものが多い奴は、必ず選択を迫られる」
ハーパーは操縦桿を握り直した。
「その瞬間を撃つ」
◇
慎一は、ハーパーが離れていくのを見た。
追わなかった。
いや、追えなかった。
敵攻撃隊はまだ残っている。
日本の零戦隊も立て直しきれていない。
ここでハーパーだけを追えば、別の場所に穴が開く。
「面倒なことになったな」
慎一は息を吐いた。
ハーパーは、慎一を落とそうとしている。
それは分かる。
だが、今すぐではない。
あの男は待つ。
見て、覚えて、次の機会を狙う。
そういう敵だった。
慎一は空を見渡した。
ミッドウェーの空は、まだ終わらない。
赤城。
加賀。
蒼龍。
飛龍。
瑞鶴。
翔鶴。
守らなければならない艦は6つある。
敵はまだいる。
そして、その敵の中に、奴がいる。
慎一は操縦桿を握り直した。
「いいだろう」
その声は、誰にも届かなかった。
ただ、栄改の音だけが答えた。
空のどこかで、ハーパーのムスタングが旋回している。
二人はまだ、互いを落としていない。
だが、最初の交差で十分だった。
慎一は知った。
ハーパーは危険だ。
ハーパーも知った。
ファントムは、届かない神ではない。
ミッドウェーの空で、二つの翼は二度目の交差をした。
その一瞬は、これから始まる長い戦いの、序章の一幕だった。




