失われた優位
第58話 失われた優位
赤城と蒼龍へ向かっていた爆撃機隊は、空中で砕けた。
ハーパーは、その光景を見ていた。
一機。
また一機。
いや、一機ずつなどというものではない。
まるで見えない巨大な刃が、編隊そのものを横から削り取っていくようだった。
爆撃機が火を噴く。
翼が折れる。
胴体がねじれ、黒煙を引きながら海へ落ちていく。
その上を、一機の零戦が抜けていった。
零戦。
そう見える。
だが、ハーパーの目にはもう、ただの零戦には見えなかった。
「……ファントム」
無線越しに、リチャードの息を呑む音が聞こえた。
「あいつが、爆撃隊を……」
「ああ」
ハーパーは短く答えた。
もう援護は間に合わない。
あの爆撃隊は終わった。
そう認めるしかなかった。
リチャードが焦った声を出す。
「追うか?」
「二機でか」
ハーパーは視線をファントムから外さないまま言った。
「死ぬだけだ」
リチャードは黙った。
ハーパーは旋回しながら、周囲の空を確認した。
高度。
距離。
燃料。
味方機の位置。
ファントムの進路。
すべてが頭の中で冷たく並んでいく。
その時、無線に別の声が入った。
『こちらヨークタウン戦闘機隊。付近の味方機、応答せよ。敵機を確認した者はいるか』
ハーパーは一瞬だけ目を細めた。
ヨークタウンから上がった戦闘機隊。
来た。
こちらにまだ牙は残っている。
「こちらハーパー。リチャードと二機で飛行中。敵機を確認している」
『数は』
ハーパーは少し間を置いた。
言えば、信じられないだろう。
だが、言うしかない。
「零戦、一機」
無線の向こうが沈黙した。
次に返ってきた声には、明らかな苛立ちが混じっていた。
『一機だと? 爆撃隊がやられたという報告が入っている。敵は編隊ではないのか』
「違う」
ハーパーは低く言った。
「一機だ。だが、普通の零戦ではない」
リチャードが割り込んだ。
「俺も見た。一機で爆撃隊を消した。冗談じゃない」
再び沈黙。
その沈黙の中に、ファントムのレールガンの響きが遠く混じった。
乾いた音。
空そのものを叩くような音。
さらに一機、米軍機が落ちていく。
『合流する。方位を知らせろ』
ハーパーは方位を告げた。
しばらくして、遠くの空に複数の機影が現れた。
ヨークタウンから飛び立った戦闘機隊だった。
ワイルドキャットの群れが、海上を滑るように高度を上げてくる。
ハーパーとリチャードはその編隊に合流した。
隊長機が近づく。
無線が入った。
『ハーパー、あれが噂のファントムか』
「そうだ」
『零戦なら、こちらの数で押せる』
ハーパーは返事をしなかった。
その言葉が、あまりにも空しく聞こえたからだ。
数で押せる相手なら、爆撃隊はああはならなかった。
だが、その考えを言葉にする前に、別の報告が飛び込んできた。
『日本機動部隊より敵戦闘機、上昇中。零戦多数』
ハーパーはそちらを見た。
遠く、日本空母の甲板から、零戦が次々と飛び上がっていた。
朝の光を受けて、翼がきらめく。
一機。
また一機。
日本の零戦隊が空へ上がってくる。
その姿を見た瞬間、周囲の米軍機に緊張が走った。
零戦。
これまで何度も米軍機を苦しめてきた相手だった。
軽く、鋭く、よく曲がる。
格闘戦に入れば危険。
それは米軍パイロットなら誰もが知っている。
だが、ハーパーは違うものを見ていた。
あの零戦隊は、ファントムではない。
普通の零戦だ。
ならば、戦える。
いや、倒せる。
ハーパーはスロットルを押し込んだ。
『ファントムはどうする』
隊長機が尋ねた。
ハーパーは、遠くでまだ米軍機を削っている一機の零戦を見た。
ファントム。
あれを追いたい。
あれを見たい。
あれを落としたい。
だが、今ではない。
今、あれだけを追えば、日本の零戦隊がこちらの背後を食い破る。
そして何より、こちらが数を失えば、ファントムに挑むことすらできなくなる。
ハーパーは短く答えた。
「まずは零戦隊を片付ける」
リチャードが息を呑む。
ハーパーは続けた。
「ファントムはその後だ」
その声は静かだった。
だが、そこには迷いがなかった。
ハーパーは編隊に指示を飛ばした。
「旋回戦には付き合うな。速度を殺すな。上を取れ。撃ったら離れろ」
『零戦相手に逃げ腰か』
「違う」
ハーパーは機首を日本の零戦隊へ向けた。
「勝ち方を変えるだけだ」
距離が詰まる。
日本の零戦隊も、こちらに気づいた。
零戦たちは散開し、迎撃態勢に入る。
その動きは見事だった。
無駄がない。
互いの位置を見ながら、自然に空を分けていく。
日本の搭乗員たちは、弱くなかった。
むしろ、強かった。
だが、空はすでに変わっていた。
ハーパーは高度を保ったまま、正面からは入らなかった。
零戦の得意な旋回半径に踏み込まない。
敵の誘いに乗らない。
上から速度を乗せ、斜めに切り込む。
最初の零戦が機首を向けた。
ハーパーは撃たせなかった。
射線に入る直前で機体を下へ滑らせる。
零戦の機銃弾が、彼の頭上を抜けた。
次の瞬間、ハーパーは機首を戻していた。
照準が一瞬だけ重なる。
機銃が火を吹いた。
零戦の胴体に弾が吸い込まれる。
白い煙。
黒い煙。
そして炎。
日本の零戦が、くるりと翼を傾けて落ちていった。
「一機」
ハーパーは呟いた。
感情はなかった。
興奮もない。
ただ、次の敵機を見ていた。
別の零戦が背後に回り込もうとする。
だが、ムスタングは速度を失っていなかった。
ハーパーは上昇した。
零戦は追う。
しかし、追いつけない。
角度はいい。
腕も悪くない。
だが、届かない。
ハーパーは上で反転し、落ちてきた。
零戦の操縦席が一瞬だけ見えた。
相手の搭乗員がこちらを見上げていた。
次の瞬間、ハーパーの機銃弾が翼の付け根を撃ち抜いた。
二機目が落ちた。
リチャードの声が無線に入る。
「こっちも一機落とした!」
「深追いするな」
ハーパーはすぐに返した。
「上を保て。低くなるな」
空戦は広がっていく。
日本の零戦隊は決して一方的に逃げていたわけではない。
旋回に引き込もうとする。
左右から挟もうとする。
下へ潜って誘う。
見事な操縦だった。
だが、ハーパーたちはその輪の中へ入らなかった。
曲がる相手に、曲がって勝とうとしない。
速さで入り、速さで出る。
高度を武器にし、射撃の一瞬だけを奪う。
それは零戦にとって、最も嫌な戦い方だった。
一機の零戦が、リチャードの後ろを取った。
「リチャード、下へ逃げるな。右上だ」
「分かってる!」
リチャードの機体が右上へ逃げる。
零戦は追った。
その瞬間、ハーパーは上から入った。
零戦の操縦者が気づいた時には遅かった。
機銃弾が尾翼を裂く。
零戦は機首を振り、ふらついた。
そこへリチャードが反転して撃った。
炎が上がる。
「助かった!」
「礼は後だ」
ハーパーはすでに次を見ていた。
また一機。
そしてまた一機。
日本の零戦が空から剥がされていく。
遠くで、その光景を慎一が見た。
最初、慎一は信じなかった。
日本の零戦隊は、よく戦っていた。
動きは悪くない。
編隊も崩れていない。
少なくとも、米軍機に一方的にやられるような空ではないはずだった。
だが、現実は違った。
零戦が落ちている。
一機。
また一機。
それも、無謀に突っ込んでやられているのではない。
善戦している。
射線に入ろうとしている。
相手を旋回に引き込もうとしている。
それでも、落とされている。
「……何だ」
慎一の声が低くなった。
彼の視線の先で、ハーパーの機体が上昇から反転した。
零戦の背後ではない。
逃げ道の先。
零戦が旋回を終え、ほんの一瞬だけ速度を失う場所。
そこへハーパーは落ちてきた。
機銃が光る。
零戦が火を噴いた。
慎一は操縦桿を握る手に力を込めた。
あの飛び方。
あの判断。
あの冷静さ。
ただの米軍機ではない。
ただ速いだけでもない。
零戦の弱点を知っている。
曲がる相手に、曲がらず勝つ。
速度と高度で戦場を作り変えている。
慎一は初めて、はっきりと理解した。
この空では、もう零戦の優位は絶対ではない。
いや。
相手によっては、すでに失われている。
その事実が、慎一の胸に鈍く沈んだ。
また一機、味方の零戦が落ちた。
無線の向こうで、誰かが叫んでいる。
慎一はその声を聞きながら、機首を変えた。
米軍爆撃機の残りではない。
ハーパーのいる空へ。
「そいつは、放っておけないな」
栄改の音が低く唸った。
ブースターは使わない。
まだ使う場面ではない。
だが、慎一の零戦は明らかに進路を変えた。
ハーパーもまた、それに気づいた。
遠くで、あの零戦がこちらを向いた。
ファントム。
ついに来る。
リチャードが叫んだ。
「ハーパー、奴がこっちを見た!」
「ああ」
ハーパーは静かに答えた。
手のひらに汗がにじんでいる。
だが、不思議と声は震えなかった。
「来させろ」
彼は機首を上げた。
まだ勝てるとは思っていない。
だが、逃げるつもりもなかった。
まず零戦隊を片付ける。
ファントムはその後だ。
そう言った。
その言葉の後半が、今、現実になろうとしていた。
空の中心で、二つの機影が互いを捉えた。
一つは、未来の技術をまとった零戦。
もう一つは、零戦の優位を失わせた男。
ミッドウェーの空は、さらに深く軋み始めていた。




