ファントムハンター
第五十六話 ファントムハンター
ミッドウェー海戦の二日前。
アメリカ軍の司令部に、一通の報告が入った。
それは、新しい戦闘機の開発に成功したという知らせだった。
ただの新型機ではない。
P-51ムスタングを基礎にしながら、徹底的にPhantom対策を施した試作機。
報告書の表紙には、短くこう記されていた。
XP-51改。
その下に、小さく。
Phantom Hunter。
その名を見た将校たちは、しばらく黙っていた。
Phantom。
たった一機の零戦。
輸送船団を救い、攻撃隊を壊滅させ、米軍の作戦を何度も狂わせた存在。
幽霊ではない。
迷信でもない。
実在する敵。
その怪物を撃ち落とすために、海の向こうで一機の戦闘機が完成しようとしていた。
◇
アメリカ本土の片隅。
地図に名前のない飛行場があった。
滑走路はある。
管制塔もある。
整備棟もある。
だが、正式な基地名はどこにも記されていない。
乾いた大地の中に建てられた格納庫。
その奥で、一機の戦闘機が静かに組み上げられていた。
工具の音だけが響いている。
カン。
カン。
短く、乾いた音。
誰も大声を出さない。
誰も笑わない。
ここで作られているものが、ただの戦闘機ではないことを、全員が知っていた。
白い布が、ゆっくりと外された。
現れたのは、一見すればムスタングだった。
長く細い機首。
流れるような胴体。
無駄を削ぎ落とした翼。
空気を切り裂くために生まれた形。
だが、普通のムスタングではない。
機首の先にあるプロペラが、四枚ではなかった。
六枚。
黒く塗られた六枚のプロペラが、異様な存在感を放っていた。
「これは……ムスタングなのか」
将校の一人が呟いた。
技術主任は、しばらく機体を見上げていた。
「形は、そうです」
「形は?」
「中身は別物です」
主任は機首へ歩いた。
六枚プロペラの根元を軽く叩く。
「四枚では、強化したマーリンエンジンの出力を受け止めきれません」
「回転数を上げればいいのではないか」
別の将校が言った。
主任は首を横に振った。
「それをやれば、プロペラの先端速度が音速に近づきます。そうなれば空気を掴むどころか、効率が落ちます」
主任は六枚の黒い羽根を見上げた。
「だから枚数を増やしました。回転数を抑えたまま、より多くの空気を掴むためです」
誰も口を挟まなかった。
「エンジンは」
「改良型マーリンです」
主任の声に、わずかな緊張が混じった。
「出力、耐久性、高高度性能。すべて従来機とは比較になりません」
「最高速度は」
格納庫の空気が止まった。
主任は答えた。
「時速八百キロ」
沈黙。
八百キロ。
それは、これまでの空戦の常識を置き去りにする数字だった。
だが、主任は誇らしげではなかった。
むしろ、表情は硬い。
「ただし、速度だけではPhantomには勝てません」
将校たちの視線が主任に集まる。
「Phantomの恐ろしさは、速度ではありません」
主任は作業台の上に置かれた報告書へ目を向けた。
そこには、これまでの交戦記録が並んでいた。
輸送船団上空。
ソロモン。
各地で報告された異常な零戦の動き。
速度も早い。だが速度だけでは説明できない軌道性。
いつのまにか後ろを取られている。
常識外れの位置取り。
機体の向きと力を、空中で組み替えるような飛行。
「彼は、飛行機を普通に飛ばしていない」
主任は低く言った。
「速度、旋回半径、上昇力。そういう数字だけで戦っているなら、対抗できます。ですがPhantomは、そうではない」
将校の一人が眉を寄せる。
「では、この機体は何だ」
主任は六枚プロペラの機首を見上げた。
「戦闘機ではありません」
そして、静かに言った。
「Phantomを空から引きずり下ろすための罠です」
◇
別の技術者が、機体側面のパネルを閉じていた。
そこには、強化された給弾機構が収められている。
武装は十二・七ミリ機銃。
口径だけを見れば、従来のムスタングと変わらない。
だが、中身は違う。
給弾は滑らかになり、連射時の詰まりは減らされた。
銃身冷却も見直されている。
短時間に濃密な弾幕を作るためだった。
大口径砲で一撃を狙うのではない。
速い機体で射線へ入り、わずかな時間で弾を叩き込む。
そのための武装だった。
「装甲は最低限です」
主任が言った。
「重くすれば意味がありません。Phantomに追いつくには、速度を殺せない」
「防御を捨てるのか」
「違います」
主任はすぐに否定した。
「当たらない位置へ入るための機体です」
その言葉に、将校たちは黙った。
当たらない位置。
それは、Phantomがいつもやっていることだった。
敵の射線に入らず、自分の射線だけを置く。
アメリカ軍は、すでにその恐ろしさを知っていた。
だから、この機体は作られた。
Phantomと同じ空に上がるために。
Phantomの速度域へ踏み込むために。
そして、Phantomの飛び方を理解できる者に渡すために。
◇
格納庫の奥に、一人の男が立っていた。
介入者だった。
彼は最初から最後まで、ほとんど口を開かなかった。
ただ、完成に近づくムスタングを見ている。
主任が歩み寄った。
「計画機、最終調整に入れます」
介入者は頷いた。
「パイロットは」
主任が訊いた。
「まだ知らせていません」
「候補は」
介入者は一枚の書類を差し出した。
そこには二つの名前が記されている。
Harper.
Richard.
主任はその名を見た。
「彼らはPhantomを見ています」
介入者が静かに言った。
「恐怖を知っている者でなければ、この機体は扱えません」
「恐怖を知る者が、近づけるのですか」
「恐怖を知らない者は、近づきすぎて死にます」
介入者の声は冷たかった。
「この機体は速い。だが速いだけでは、Phantomには届かない。彼の飛び方を理解しようとする者が必要です」
主任はもう一度、書類の名前を見た。
Harper.
Richard.
二人はまだ、この機体の存在を知らない。
自分たちの名前が、まだ見ぬ翼の搭乗候補として記されていることも知らない。
だが、機体はすでに彼らを待っていた。
◇
整備員が手を上げた。
「プロペラ、回します」
主任が頷く。
低い作動音が、格納庫に響いた。
六枚のプロペラが、ゆっくりと動き始める。
一枚。
また一枚。
黒い羽根が光を受け、やがて輪になる。
音はまだ小さい。
だが、その奥には押し殺した力があった。
将校たちは黙って見ていた。
誰も拍手しない。
歓声もない。
ここにあるのは希望ではない。
必要に迫られて作られた牙だった。
主任は、回転する六枚プロペラを見つめた。
「これが、Phantomを墜とすための翼です」
介入者は何も言わなかった。
ただ、その機体の機首を見上げていた。
格納庫の灯りが一つ落ちる。
影の中で、機体側面に記された小さな文字だけが残った。
XP-51改。
その下に、まだ正式名ではない仮のコード。
Phantom Hunter.
ミッドウェーの海は、まだ静かだった。
だが海の向こうではすでに、守護神を狩るための翼が目を覚まそうとしていた。




