歴史の奔流
第五十四話 歴史の奔流
赤城が燃えている。
蒼龍も、黒煙を上げている。
慎一は操縦桿を握りしめたまま、眼下の海を見ていた。
早く出た。
間に合うはずだった。
だが、ミッドウェーはもう、慎一の知るミッドウェーではなかった。
赤城の甲板には、黒い焦げ跡が走っていた。
かなりの機体が燃えている。
蒼龍の周囲にも、爆弾が落ちた後の白い水柱がまだ崩れきらずに残っている。もう、飛行機を飛び立たせる事は出来ないだろう。
しかしまだ空母は沈んではいない。
間に合うはずだったのに、もう攻撃は始まっていた。
「……考えるのは後だ」
慎一は低く呟いた。
歴史がなぜ狂ったのか。
敵がなぜ早く動いたのか。
それを考える時間はない。
今、目の前で艦が燃えている。
今、目の前で人が死ぬ。
『慎一さん! 赤城上空に急降下爆撃機! まだ残っています!』
京子の声が飛んだ。
「数は」
『赤城方面に六。蒼龍方面にも四。どちらも攻撃態勢に入っています!』
慎一は歯を食いしばった。
二つの空母。
二つの火点。
二つの危機。
普通なら、どちらかを選ぶしかない。
だが、慎一は選ばなかった。
「赤城から潰す」
『了解。敵機位置、送ります!』
照準装置に敵機の位置が浮かぶ。
赤城へ向かう急降下爆撃機。
すでに角度を作っている。
後ろから追えば、間に合わない。
横から撃てば、何機かは抜ける。
正面。
それしかない。
慎一は機体を倒した。
栄改が唸る。
零戦は黒煙の隙間を縫うように走り、敵急降下爆撃機の進行方向正面へ回り込む。
敵はすでに降下姿勢に入っている。
進路は決まっている。
速度も角度も、自ら縛っている。
ならば、その進路の先に出ればいい。
慎一は反転し敵編隊の正面へと機首を向けた。
『慎一さん、速度が落ちています!』
美希の声が跳ねた。
慎一は答えない。
栄改のスロットルを絞る。
エンジン音が細くなった。
零戦の速度が落ちる。
翼が空気を失い始める。
機体が震えた。
普通なら失速だった。
普通なら墜落だった。
未来基地の作戦室で、幸雄がモニターを見上げる。
「何してやがる……」
京子も立ち上がった。
『慎一さん! 失速します!』
「分かってる」
慎一は短く答えた。
そして、スイッチを押し込む。
空間磁気コイルが起動した。
機体の周囲で、見えない力が広がった。
落下が鈍る。
完全には止まらない。
零戦は空中に静止したわけではない。
ただ、落ち方が変わった。
速度を失った機体は、敵急降下爆撃機の正面で、ゆっくりと沈み始めた。
慎一はその落下を利用した。
敵も落ちてくる。
自分も落ちる。
その降下線を重ねる。
飛ぶためではない。
撃つために、落ちる。
幸雄が目を見開いた。
「まさか……」
慎一は照準を合わせた。
急降下爆撃機の先頭が、正面へ入る。
敵から見れば、理解不能だった。
零戦が正面に出た。
失速した。
落ちた。
そう見えたはずだった。
だがその零戦は、落ちながら機首だけをこちらへ向けている。
慎一は引き金を絞った。
ガガガ...
軽い連射!
先頭の急降下爆撃機が、空中で砕けた。
もう一度!
その後ろの機体が胴体から折れる。
ガガガ...
翼が吹き飛び、爆弾を抱えたまま海へ落ちた。
鋼鉄の弾丸が電磁力によって射出されていく。
レールガンの弾は、見えない線となって敵編隊を真正面から貫いた。
翼の奥で、小さなオイルタンクが脈動する。
幸雄が調合した専用オイルが、細い供給ラインを通り、発射のたびにわずかずつレールへ送られていく。
レールは薄いオイルの皮膜に守られ鋼鉄の塊を弾き出す。
一発ごとに薄い皮膜が走り、次の一発のためにレールを生かす。
赤城へ向かっていた六機は、ほとんど同じ降下線上にいた。
だから、逃げられなかった。
慎一は追っていない。
待ち受けている。
敵が自分から、その射線へ落ちてきていた。
ガガガ....
最後の機体が爆散した。
爆弾が海面へ落ち、水柱を上げる。
赤城には届かなかった。
◇
赤城の甲板で、一人の整備兵が空を見上げていた。
最初、彼はその零戦が落ちたと思った。
エンジン音が細くなり、機体が沈んだ。
急降下爆撃機の正面で、零戦が止まったように見えた。
「……落ちる」
誰かがそう呟いた。
だが、違った。
零戦は落ちながら撃っていた。
敵機が一機、砕ける。
二機目が折れる。
三機目が炎を引いて海へ消える。
その光景を、甲板の誰もが声もなく見上げていた。
撃ち終えた零戦は、まだゆっくりと高度を落としている。
だが墜ちてはいない。
赤城の上をかすめるように沈み、次の瞬間、機首がわずかに左へ向いた。
栄エンジンが、吼えた。
空気が震える。
絞られていた出力が一気に開かれ、零戦は左へ鋭く反転した。
翼が黒煙を切り裂く。
高度は低い。
二十メートルほどしかなかった。
だが零戦は、その低さを恐れなかった。
左へ反転しながら速度を取り戻し、そのまま黒煙の上へ急上昇していく。
整備兵は、口を開けたまま動けなかった。
しばらくして、誰かが小さく呟いた。
「……守護神だ」
その声は、甲板の騒音にすぐ消えた。
だが、その言葉だけは、そこにいた者たちの胸に残った。
◇
慎一は、すでに蒼龍へ向かっていた。
空間磁気コイルを切る。
栄改の推力に戻す。
機体が再び飛行機へ戻った。
だが、余裕はない。
『慎一さん、蒼龍方面、残り四機! うち二機は爆撃姿勢!』
「見えてる」
慎一は黒煙の中を突っ切った。
蒼龍の甲板上でも火災が起きている。
まだ広がってはいない。
だが次を受ければ危ない。
慎一は正面から突っ込まなかった。
赤城上空で使った方法を、そのまま使うには高度も角度も足りない。
今度は、少し上から切り込む。
敵の降下線を読む。
その先へ機体を置く。
栄改を絞る。
速度を殺す。
空間磁気コイルを一瞬だけ入れる。
零戦はまた、空中で落ち方を変えた。
完全停止ではない。
だが、それで十分だった。
敵の急降下に、慎一の落下が重なる。
トリガーに軽く手を添え、トリガーを押した。
ガガガガ....
レールガンの射線に入った爆撃機はひとたまりもなかった。
今度は二機が同時に火を吹いた!
残る二機が慌てて回避に入ろうとした。
しかし急降下中の機体は、自由ではない。
速度がある。
角度がある。
爆弾がある。
慎一は機首をわずかに振った。
レールガンの連射!
蒼龍へ向かっていた爆撃機は、バラバラに砕け散り海へ落ちた。
『蒼龍方面、敵編隊崩壊!』
美希が叫ぶ。
慎一はすぐにスロットルを開いた。
栄改が再び咆哮する。
零戦は左へ反転し、蒼龍の艦橋前を横切るように上昇していった。
黒煙の中から現れ、黒煙の中へ消える。
その姿を、蒼龍の乗組員たちも見ていた。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
◇
未来基地の作戦室では、誰もがモニターを見つめていた。
美希は端末を抱えたまま、口を開けている。
はるみは両手を胸の前で握っていた。
京子は、まだ立ったままだった。
幸雄だけが、腕を組んでモニターを睨んでいる。
やがて、低く笑った。
「……そういう使い方か」
京子が振り返る。
「幸雄さん?」
「あいつ、空間磁気コイルを落下速度の制御に使いやがった」
「落下速度……」
「あれは離着陸補助用だ。空中に浮かせ続けるもんじゃない」
幸雄は画面の中の零戦を見つめた。
「だが、数秒だけ落ち方を変えることはできる」
美希が呆然と呟く。
「そんな使い方、想定していたんですか?」
「してるわけねえだろ」
幸雄は即答した。
だが、その口元にはわずかに笑みがあった。
「普通は思わねえ」
京子はもう一度モニターを見た。
慎一の零戦は、赤城と蒼龍の黒煙の間を上昇している。
戦場の流れは、まだ止まっていない。
だが、確かに一度だけ押し返された。
「慎一さん……」
京子は小さく呟いた。
◇
ハーパーは遠くから、その光景を見ていた。
理解が追いつかなかった。
零戦が失速した。
落ちた。
そう見えた。
だが、違った。
その零戦は落ちながら撃っていた。
急降下爆撃機の降下線に、自分の落下を重ねている。
飛んでいるのではない。
落ちている。
だが、狙っている。
「……なんだ、あれは」
ハーパーの声は掠れていた。
無線の向こうで、リチャードも沈黙している。
やがて、震える声が返った。
『あれは……飛行機なのか』
ハーパーは答えられなかった。
分からない。
あれは零戦だ。
だが、零戦ではない。
空戦の常識の中にいない。
追うべきではない。
近づくべきではない。
その瞬間、ハーパーの背中に冷たい汗が流れた。
Phantom。
幽霊。
その名は、間違っていなかった。
あの機体は、こちらの理解の外側で戦っている。
◇
慎一は上昇しながら、赤城と蒼龍を確認した。
火は残っている。
煙も上がっている。
だが、致命傷ではない。
まだ沈まない。
まだ戦える。
「京子、被害状況」
『赤城、甲板に損傷。戦闘機はかなりやられてます。ただし致命的反応はない。蒼龍も火災発生。でも今なら抑え込める可能性がある』
「よし」
慎一は短く息を吐いた。
間に合わなかった。
だが、終わってはいない。
歴史は狂った。
なら、その狂った流れの中で、止められるものを止めるだけだ。
『慎一さん、敵の第二波らしき反応があります』
美希の声が入る。
『北東方向。高高度。数はまだ不明です』
慎一は空を見上げた。
雲の向こうに、まだ敵がいる。
赤城も蒼龍も、救ったとは言えない。
ただ、沈む未来を一度だけ押し返した。
それだけだ。
奔流は止まらない。
歴史は、慎一の知る形を失いながら、それでも流れ続けている。
慎一は操縦桿を握り直した。
「もう。どうなるかはわからんな、ま、なるようになるだろ!」
栄改が低く唸る。
レールガンは沈黙している。
だが、翼の奥では、幸雄のオイルがまだ熱を抱えながら、次の一撃を待っている。
「ここからは」
慎一は黒煙の空を睨んだ。
「俺が流れを切る」
守護神は再び機首を上げた。
赤城と蒼龍の黒煙を背に、零戦は次の敵へ向かっていった。




