狂った時計
第五十三話 狂った時計
未来基地を飛び立った慎一は赤城、蒼龍、加賀、飛龍の進行海域へと向かっていた。
海は、青かった。
どこまでも広がる太平洋の上を、慎一の零戦は低く飛んで行く。
栄改の音は安定している。
機体の振動も少ない。
幸雄が整えたレールガンは、翼の奥で静かに眠っている。
慎一は操縦席の中で、前方を見据えていた。
ミッドウェー。
その名は、未来を知る一登にとって、ただの戦場ではなかった。
日本機動部隊が崩れた場所。
戦争の流れが大きく変わった場所。
そして今、自分が変えようとしている場所だった。
「早く出たんだ」
慎一は小さく呟いた。
「間に合うはずだ」
史実よりも早く出た。
未来基地での準備も済ませた。
赤城が危機を迎える前に上空へ入る。
そのための発進だった。
無線が入る。
『慎一さん、こちら未来基地。通信状態良好』
京子の声だった。
「ああ、聞こえている」
『現在位置、ミッドウェー北西海域へ接近中。日本機動部隊まで、あと少しよ』
「米軍機は」
『周辺に反応あり。ただ、動きがかなり散ってる』
慎一は眉を寄せた。
「散っている?」
『ええ。史実の攻撃隊の動きと違う。少なくとも、こちらの資料と完全には合わない』
慎一は黙った。
すでに歴史は変わっている。
翔鶴と瑞鶴がいる。
アメリカもPhantomの存在を知っている。
ならば、同じ戦場になるはずがない。
頭では分かっていた。
だが、それでも慎一は思っていた。
崩壊点は残る。
赤城を守るべき瞬間は来る。
そこに間に合えば、流れは変えられる。
『慎一さん』
京子の声が少し硬くなった。
『注意して。向こうはもう、あなたを幽霊扱いしていない』
「ああ」
『出現位置を読まれる可能性がある』
「分かってる」
慎一は短く答えた。
分かっている。
日本だけが変わるわけではない。
自分が飛ぶたびに、アメリカも変わる。
それを知ったからこそ、慎一は早く出た。
待つのではなく、先に戦場へ入る。
赤城の上空を、守る。
それだけだった。
その時だった。
美希の声が割り込んだ。
『慎一さん、前方に熱源反応! 大きいです!』
慎一の目が細くなる。
「位置は」
『日本機動部隊の方向です。複数。煙か、火災かもしれません』
京子の声がすぐに続く。
『慎一さん、高度を上げて確認して』
「了解」
慎一は操縦桿を引いた。
零戦がゆっくりと高度を上げる。
雲の切れ間へ向かう。
海面が遠ざかる。
水平線が広がる。
そして。
慎一は見た。
「……なんだ」
遠くの海に、黒い柱が立っていた。
一本ではない。
複数の黒煙。
海面からではない。
艦隊の上から上がっている。
慎一の手に力が入る。
『慎一さん?』
京子の声がする。
だが慎一はすぐに答えられなかった。
見えてきた。
日本機動部隊。
輪形陣。
空母。
対空砲火。
そして、その上空を飛ぶ米軍機。
戦闘は、すでに始まっていた。
「嘘だろ……」
慎一の声は、操縦席の中で低く消えた。
早く出た。
間に合うはずだった。
だが、海の向こうではすでに火が上がっている。
慎一はさらに高度を上げた。
機体を傾け、艦隊を確認する。
赤城。
その甲板付近から煙が上がっている。
完全に炎上しているわけではない。
だが、無傷ではない。
すでに攻撃を受けていた。
甲板上を人が走っている。
対空砲が空へ火を噴く。
周囲の海面には、爆弾による水柱の跡が残っている。
慎一は歯を食いしばった。
「赤城が……」
『赤城?』
京子の声が震えた。
『赤城が攻撃を受けているの?』
「ああ」
慎一は短く答えた。
「もう受けてる」
未来基地の無線が、一瞬だけ静まり返った。
その沈黙の中で、慎一は別の黒煙を見た。
赤城の隣ではない。
少し離れた位置。
もう一隻の空母。
蒼龍。
その上空にも敵機がいた。
急降下から離脱する機体。
煙を引く味方機。
そして、蒼龍の甲板近くで小さな爆発が走った。
慎一の体が固まった。
「蒼龍まで……」
京子が息を呑む音が無線に入る。
『そんな……早すぎる』
美希の声も震えていた。
『記録と合いません。攻撃開始時刻も、方角も、編隊の動きも違います』
「分かってる」
慎一は低く言った。
「もう、俺の知っているミッドウェーじゃない」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが沈んだ。
未来を知っている。
そう思っていた。
赤城が燃える時間を知っている。
日本機動部隊が崩れる瞬間を知っている。
だから、その前に行けば変えられる。
そう考えていた。
だが、目の前の海は違った。
時間も違う。
攻撃の形も違う。
煙の上がる場所も違う。
慎一が知っていた歴史は、ここにはもうなかった。
あるのは、慎一自身が変えてしまった戦場だった。
『慎一さん、敵機がまだいます! 赤城上空、蒼龍上空、両方です!』
京子の声が戻ってくる。
その声に、慎一の意識が引き戻された。
そうだ。
考えるのは後だ。
今、目の前で艦が燃えている。
人が死ぬ。
慎一は操縦桿を握り直した。
「敵の位置を送れ」
『すぐに送る!』
「優先順位は俺が決める」
『分かった』
零戦の照準装置に、敵機の推定位置が表示される。
赤城へ向かう機影。
蒼龍から離脱する機影。
上空で次の攻撃姿勢に入ろうとしている機影。
多すぎる。
広すぎる。
それでも、やるしかない。
慎一はスロットルを押し込んだ。
栄改が唸る。
零戦が加速する。
その時、赤城の上空でまた一つ爆発が起きた。
黒煙が濃くなる。
蒼龍の方でも、甲板を横切るように炎が走った。
慎一は目を見開いた。
間に合わなかった。
早く出たのに。
それでも。
間に合わなかった。
「くそっ……!」
慎一の零戦が、海面すれすれから一気に上昇する。
赤城と蒼龍。
二隻の空母から立ち上る黒煙。
それは、慎一が知っている史実とは違う形で、空へ伸びていた。
ミッドウェーは、すでに変わっていた。
そして慎一は、その変わった戦場に遅れて到着したのだった。




