ハーパーの帰還
第四十九話 ハーパーの帰還
ハーパーのコルセアは、滑走路へ叩きつけられるように降りた。接地した主脚が一度大きく跳ね、機体は右へ振られたが、ハーパーは操縦桿を押さえ込み、震える足でラダーペダルを踏みつけながら、どうにか滑走路の中央へ引き戻した。続いて降りてきたリチャードの機体も着陸こそ無事だったものの、停止するまで速度を落とし切れず、誘導路へ半ば飛び出すようにしてようやく止まった。
二機のプロペラが回転を落としても、操縦席から降りる者はいなかった。
整備兵たちが駆け寄り、風防を叩いて声をかける。ハーパーはそれに気づいていたが、指が操縦桿から離れなかった。力を抜こうとしても手が開かず、耳の奥には今も、空気そのものを殴りつけたような衝撃が残っている。
見えない何かが空を走り、その後方にいた機体が次々と形を失った。
戦闘機も爆撃機も、命中した場所から一気に構造を崩され、巨大な力で引き裂かれたように空中へ散った。十数機が、ほんの数秒で鉄屑へ変わった。
「ハーパー中尉!」
整備兵が翼によじ登り、風防を外から開いた。流れ込んできた外気に触れ、ハーパーはようやく自分が基地へ戻ってきたことを実感した。
「怪我はありませんか」
「……ない」
「機体も目立った損傷はありません。いったい何があったんです」
ハーパーは答えず、離れた場所で操縦席から降ろされているリチャードを見た。彼も怪我はしていないようだったが、地面へ足をつけた途端に膝が揺れ、整備兵の肩を借りて機体から離れていく。
自分たちは帰ってきたが、後ろにいた十数機は帰ってこない。
その事実を考えた瞬間、胸の奥から何かが込み上げてきたが、ハーパーは奥歯を噛み締めて押し戻した。
「サッチ少佐に報告する。リチャードも連れてきてくれ」
「先に医務室へ行くべきです」
「報告が先だ」
声が思った以上に荒くなった。整備兵はそれ以上止めず、近くの兵士へ走って指示を伝えた。
報告室へ向かう途中、ハーパーは何度も自分の両手を見た。震えはまだ完全には収まっていない。それでも、見たものを言葉にしなければならなかった。十数機を失った理由を、少なくとも自分が見た範囲だけでも伝えなければ、あの空で砕かれた者たちは何も残せない。
報告室には、すでにサッチ少佐と数名の参謀、技術士官が集まっていた。机いっぱいにミッドウェー周辺の海図が広げられ、外周哨戒線と日本機動部隊の推定進路が書き込まれている。
ハーパーとリチャードが入ると、サッチは二人の顔を一度見ただけで、椅子を勧めなかった。
「報告を聞く前に確認しておく。怪我は」
「ありません」
ハーパーが答えると、リチャードも黙って頷いた。
「機体の損傷は」
「二機とも、戦闘による損傷は確認されていません」
同行してきた整備兵の報告を聞き、サッチの目がわずかに細くなった。
「無傷で帰ってきたわけか」
その言葉には安堵も皮肉もなかった。ただ、最初から何かを確かめていたような響きがあった。
サッチは海図の前へ立ち、ハーパーへ顎を向けた。
「見た順に話せ。推測はいらん」
「ミッドウェー北西外周空域で零戦一機を確認しました。高度は我々とほぼ同じ。こちらへ接近する様子も、離脱する様子もなく、一定の空域に留まっていました」
「君たちが見つけたのか」
「違います。あちらが先に待っていたように見えました」
サッチはそれ以上挟まず、続きを促した。
「先頭にいた私とリチャードが左右へ展開し、後続の戦闘機と爆撃機がそのまま進みました。Phantomは、こちらが射程へ入る前から機首を動かしていましたが、発射炎も曳光弾も確認できませんでした」
「射撃を見ていない?」
「はい。最初に気づいたのは、空気が弾けるような衝撃でした。私とリチャードは反射的に左右へ機体を振りましたが、後続は間に合いませんでした」
そこでハーパーの声がわずかに詰まった。
目を閉じなくても、あの光景が蘇る。
密集していた戦闘機と爆撃機の間を、見えない線が横切った。直後に機体の一部が大きく抉られ、翼を失ったものは回転しながら落ち、胴体を撃ち抜かれたものはその場で形を失った。さらに次の射撃が重なり、後方の編隊は逃げる暇もないまま、次々と空中へ撒き散らされていった。
「何機だ」
サッチが静かに尋ねた。
「はい、護衛機、爆撃機.哨戒機含め13機です」
リチャードが低い声で付け加えた。
「最初の一撃で四、五機。続く射撃で、その後ろにいた機体もまとめて砕かれました。狙いを修正していたようには見えません。編隊の進路を、そのまま切り払ったようでした」
技術士官が顔を上げた。
「砲弾は見えなかったのか」
「何も見えませんでした」
「音は」
「後から来ました。機銃の発射音とは違います。空気が一度に押し潰されたような衝撃で、機体そのものが横へ持っていかれました」
「爆発は?」
「命中した機体の燃料が燃えたものはありました。ただ、最初に砲弾が爆発したようには見えません。命中した場所が大きく失われ、そこから機体全体が耐えられなくなって砕けたように見えました」
技術士官は手元の記録用紙に何かを書き込みながら、眉を寄せた。
「通常の二十ミリ機銃では説明できません。射程も威力も違いすぎる」
「説明できないなら、見た事実だけ残せ」
サッチが遮った。
「兵器の名前をつけるのは、それを知っている者が現れてからでいい」
技術士官が口を閉じると、サッチは再びハーパーへ向き直った。
「その後は」
「私とリチャードは高度を下げ、左右から離脱しました。編隊はすでに崩壊しており、交戦の継続は不可能と判断しました」
「Phantomは追ってきたか」
「いいえ」
「攻撃を続ける様子は」
「ありませんでした」
「見失ったのか」
ハーパーは一瞬だけ言葉に詰まり、それから首を振った。
「見えていました。私たちが離脱した後も、Phantomはその場に留まっていました」
「どのくらいだ」
「正確には分かりません。ただ、相対速度から考えると、奴は極低速で飛んでいたはずです。振り返った時には、まだ同じ位置にいました」
サッチは海図から目を離さず、赤鉛筆で遭遇地点に小さな印をつけた。
「つまり、奴は後続の十数機を撃ち落とした後、無傷の君たち二機を追わなかった」
「はい」
「弾切れの可能性は」
「低いと思います。最後まで機体の動きに乱れはありませんでした」
「故障は」
「それも考えにくいです。その後、Phantomは速度を上げ、別方向へ離脱しました。追うこともできない速さでした」
サッチは鉛筆を置いた。
「では、報告を訂正しろ」
ハーパーは意味が分からず、少佐を見た。
「どの部分でしょう」
「君は先ほど、戦闘継続が不可能と判断して離脱したと言った」
「事実です」
「君たちの判断としてはな」
サッチはハーパーとリチャードを交互に見た。
「だが、相手は十数機を数秒で砕く武装を持ち、君たちを追い落とせる速度もあった。それでも攻撃しなかった。君たちが逃げ切ったという報告では、肝心な部分が抜けている」
ハーパーの胸が固くなった。
何を言われようとしているのか、すぐに分かった。それは帰還の間、何度も頭に浮かび、そのたびに否定してきた考えだった。
「偶然かもしれません」
「何がだ」
「私たちが最初の射線から外れたことも、Phantomが追撃しなかったこともです。奴の目的は後続の爆撃機だったのかもしれない」
「なら、なおさら君たちを先に落とすだろう。護衛戦闘機を残す理由がない」
「何か別の目標があった可能性もあります」
「随分と幸運を働かせるな」
サッチの声は穏やかだったが、その言葉はハーパーの逃げ道を一つずつ塞いでいった。
「最初の射線を外れたのは君たちの腕だ。そこは否定しない。だが、その後も無傷の二機が残り、奴は追わずに見送った。そこまで偶然に任せるなら、我々は戦術ではなく祈祷を学ぶべきだ」
リチャードが俯いた。
ハーパーは拳を握り、どうにか声を絞り出した。
「少佐は、私たちが見逃されたと言いたいのですか」
「見逃された、では少し軽い」
サッチは海図上の印を指先で押さえた。
「君たちは帰された」
その一言で、報告室の空気が変わった。
ハーパーは反論しようとしたが、言葉が続かなかった。
Phantomは追えなかったのではない。追わなかった。
武装を見せ、十数機を砕き、それを目撃した二人だけを基地へ帰した。
自分たちが生き残った理由を幸運だと思えば、死んだ者たちとの違いを考えずに済む。しかし、Phantomが意図的に帰したのだとすれば、自分たちは敵の意思を運ぶために利用されたことになる。
「なぜです」
リチャードが初めて口を開いた。
「なぜ私たちを帰す必要があるんです」
「それを考えさせるためだろう」
サッチは即答した。
「奴は姿を見せ、武装を見せ、生き証人まで送り返した。隠れるつもりがないどころか、こちらに存在を理解させようとしている」
「威嚇でしょうか」
参謀の一人が尋ねると、サッチは首を振った。
「威嚇なら、基地へ直接来ればいい。十数機を落とせる兵器なら、その方が早い」
「では警告だと?」
「警告か、誘導か、挑発か。そこまではまだ読めん」
サッチは遭遇地点から日本機動部隊の推定進路へ赤い線を引いた。
「ただし、奴がこの場所を選んだのは偶然ではない。日本機動部隊が進むと予想される海域と、我々の哨戒線が交わる場所だ。そこで力を見せ、二人を帰した」
ハーパーは海図を見つめながら、Phantomが雲間に留まっていた姿を思い返していた。敵を探していた機体ではない。こちらが来ることを知り、あの場所で待っていた。
「奴は、私たちが来るのを知っていたのでしょうか」
「少なくとも、来る可能性は読んでいた」
「それなら、Phantomは日本機動部隊の動きだけでなく、こちらの哨戒範囲まで知っていることになります」
「そう考える方が自然だ」
サッチは淡々と答えたが、参謀たちの顔には明らかな緊張が浮かんでいた。敵がこちらの動きを知っている可能性だけでも厄介なのに、その敵は通常の戦闘機では対抗できない速度と武装まで持っている。
技術士官が机上の記録を見ながら口を開いた。
「この兵器の正体が分からない以上、対策も立てようがありません」
「正体が分からなくても、使い方は見える」
サッチが言った。
「直線上の複数機を一度に破壊できるなら、密集隊形は自殺行為だ。次からは間隔を広げ、同じ高度へ重ねるな。射撃の前に機首の動きがあったというなら、それも記録しろ。兵器が見えなくても、撃つ機体は見える」
参謀の一人が頷きながら、すぐに命令を書き留める。
ハーパーはその様子を見て、わずかに呼吸が楽になるのを感じた。
サッチはPhantomを恐れていないわけではない。しかし、分からないという理由で思考を止めず、今ある情報から次に生き残る方法を探している。その姿を見ていると、自分もいつまでも空で見た光景に縛られてはいられないと思えた。
「ハーパー、リチャード」
二人が姿勢を正すと、サッチは海図から顔を上げた。
「正式な報告には、見たことだけを書け。未来の兵器だの幽霊だのと名前をつける必要はない。射撃の位置、機首の動き、攻撃間隔、破壊された機体の並び、そして追撃されなかった事実を残せ」
「私たちが帰されたという推測は?」
「それは報告書には要らん」
ハーパーは意外に思い、サッチを見た。
「先ほどは、そう断言されました」
「君が幸運という言葉の陰へ逃げようとしたからだ。部下の目を覚ますための言葉と、軍へ提出する事実は分ける」
「随分と嫌なやり方ですね」
思わず口から出た言葉に、リチャードが驚いてハーパーを見た。
しかしサッチは怒るどころか、口元をわずかに緩めた。
「部下に好かれる作戦なら、敵にも読まれやすい」
参謀の一人が小さく咳払いし、笑いを押し殺した。
ハーパーは初めて、サッチという男が単に報告を聞く上官ではないことに気づいた。彼は答えを与えない。相手が目を背けている事実を突きつけ、自分の頭で考えさせる。そのやり方は不愉快だったが、確かに恐怖の中からハーパーを引き戻していた。
「もう一つ、質問があります」
「何だ」
「Phantomは、私たちに何を考えさせたいのでしょう」
サッチは海図へ視線を戻し、赤鉛筆の先で遭遇地点を軽く叩いた。
「それを今ここで言い当てられるなら、奴は君たちを帰した意味がない」
ハーパーは答えられなかった。
「相手は、こちらに考えさせるところまで含めて動いている。ならば急いで結論を出すな。奴が何を守り、何を変えようとしているのか、次の行動まで見てから判断する」
その時、報告室の扉が叩かれた。
「入れ」
扉を開けた兵士は、室内の顔ぶれを見て一瞬緊張したものの、すぐに敬礼した。
「少佐、基地外周で不審な男を拘束しました」
「憲兵へ任せろ」
「それが、少佐に会わせろと要求しています」
「誰だ」
「名乗りません。所属も不明です」
「なら、なおさら憲兵の仕事だ」
兵士は退室せず、言いにくそうに口を開いた。
「その男は、Phantomについて知っていると言っています」
室内の空気が変わった。
ハーパーとリチャードが同時に顔を上げ、参謀たちも扉へ視線を向ける。
サッチだけは表情を変えなかった。
「それだけで、ここへ連れてきたのか」
「日本機動部隊の空母は四隻ではなく六隻だと。赤城、加賀、蒼龍、飛龍に加えて、翔鶴と瑞鶴もミッドウェーへ向かっていると言っています」
参謀の一人が椅子から立ち上がった。
翔鶴と瑞鶴の動向は、まだ確定した情報として扱われていない。まして基地の外にいる身元不明の男が知っているはずはなかった。
サッチはしばらく扉の向こうを見つめた後、赤鉛筆を机へ置いた。
「面白い。空の幽霊に続いて、今度は地上の物知りか」
「会われますか」
「連れてこい。ただし、身体検査は念入りにしろ」
「了解しました」
兵士が退室すると、サッチは海図を畳まず、そのまま男を迎える準備を始めた。
ハーパーは扉を見つめながら、胸の奥に別の緊張が生まれるのを感じていた。
Phantomは自分たちを帰した。
そして、まるでその報告が届く時を知っていたかのように、正体不明の男が基地へ現れた。
ミッドウェーまで、あと四日。
空では一機の零戦が十数機を砕き、地上では、その零戦を知る男が米軍基地の門を叩いていた。




