ここからは隠さん
第四十七話 ここからは隠さん
ミッドウェー外周空域。
海は、どこまでも青かった。
雲は薄く、視界は悪くない。
だが、ハーパーの背中には、冷たい汗が滲んでいた。
前方に一機。
零戦。
単機。
速度は、およそ五百キロ。
突っ込んでくるわけではない。
逃げているわけでもない。
ただ、そこにいた。
「零戦だ」
僚機が無線で言った。
「単機だ。どうする、ハーパー」
ハーパーは答えなかった。
その零戦は、こちらへ向かっていない。
だが、背を向けてもいない。
まるで、海と空の境目に釘で打ち込まれたように、そこにいた。
その姿を見た瞬間、ハーパーの胸の奥が冷えた。
違う。
こちらが見つけたのではない。
あの零戦は、こちらが来ることを知っていた。
最初から、そこにいた。
待っていた。
「ハーパー?」
僚機の声が入る。
ハーパーは操縦桿を握る手に力を込めた。
ムスタングは速い。
ワイルドキャットより伸びる。
P-40より前へ出る。
少なくとも、今ある機体の中では最適解だった。
だが。
あの零戦を前にすると、その言葉さえ薄く感じた。
「近づくな」
ハーパーは低く言った。
「何?」
「近づくな」
声が強くなる。
「散れ!」
僚機が一瞬遅れた。
「何を言っている?」
「いいから散れ!!」
ハーパーは叫んだ。
理由は説明できない。
高度でもない。
速度でもない。
距離でもない。
だが、分かる。
あそこに入れば死ぬ。
あの零戦の前に、このまま進めば死ぬ。
ハーパーは操縦桿を左へ倒した。
同時に、僚機は右へ逃げた。
二機のムスタングが、左右へ割れる。
その瞬間だった。
◇
慎一は、二機のムスタングを見ていた。
ずっと前から。
米軍の哨戒線は、予想よりも厚かった。
そして、その中に明らかに動きの違う二機がいた。
直線が速い。
高度の取り方も違う。
ワイルドキャットでも、P-40でもない。
「ムスタングか」
慎一は呟いた。
やはり来た。
アメリカ軍も、ただやられているだけではない。
Phantomへの対策を考え、機体を選び、乗せるパイロットを選んでいる。
それは当然だった。
慎一が歴史を変えれば、敵も変わる。
日本だけが変わるわけではない。
アメリカもまた、こちらに反応している。
慎一は操縦桿を大きく動かさなかった。
逃げない。
追わない。
隠れない。
ただ、待つ。
ここから先は、もう見せるしかない。
ミッドウェーまで、あと四日。
隠して戦える段階は終わった。
慎一は、静かにトリガーに指を添えた。
「悪いが」
慎一の声は低かった。
「ここからは隠さん」
次の瞬間。
二機のムスタングが、左右へ割れた。
ハーパーの判断だった。
慎一は、わずかに目を細める。
「勘がいいな」
そして、トリガーを引いた。
◇
空気が裂けた。
音ではない。
衝撃だった。
ハーパーの右後方を、何かが通り抜けた。
一発ではない。
連続していた。
見えない線が、空を削り取るように走った。
レールガン。
慎一の零戦が、初めて隠さず放った連射。
鋼鉄弾が、空を噛み砕いた。
ハーパーは歯を食いしばった。
今、自分がいた場所。
ほんの数秒前まで、まっすぐ飛んでいた場所。
そこを、弾丸の線が貫いていた。
「くそっ!」
無線に僚機の悲鳴が混じる。
ハーパーの目の前で僚機が次々に爆散していく!
それはまるで悪夢の光景だった。
だが、二機はかろうじて生きていた。
左右に割れたことで、射線から外れた。
外れたはずだった。
しかしハーパーには、逃げ切った感覚がなかった。
むしろ逆だった。
今のは、避けたのではない。
避けさせられた。
そして、撃たれた。
あの零戦は、こちらの反応まで読んでいたのではないか。
そう思った瞬間、ハーパーの喉が乾いた。
「ハーパー! 何だ今のは!」
僚機が叫ぶ。
「分からん!」
ハーパーは叫び返した。
「だが、近づくな!」
零戦は、まだそこにいた。
追ってこない。
機首をこちらへ向けることもない。
ただ、空の一点に静かにいる。
その静けさが、かえって恐ろしかった。
ハーパーは反転した。
「離脱する!」
「逃げるのか!?」
「逃げるんだ!」
ハーパーは怒鳴った。
「ここで死んでも、何も持ち帰れない!」
僚機も反転する。
二機のムスタングは、海面へ向けて高度を下げながら、全力で離脱した。
ハーパーは何度も後方を確認した。
追ってこない。
なぜ追ってこない。
追えるはずだ。
撃てるはずだ。
あの零戦なら、ここで自分たちを落とせるはずだ。
だが来ない。
追ってこないことが、撃たれることより怖かった。
「……生かされたのか」
ハーパーは、無意識に呟いた。
僚機から返事はない。
ただ、荒い呼吸だけが無線に混じっていた。
ハーパーは操縦桿を握りしめた。
サッチに報告しなければならない。
Phantomは来ている。
ミッドウェーの外周に。
しかも、もう隠していない。
あれは高性能な零戦ではない。
あれは、戦場の中心を自分で決める機体だ。
◇
慎一は、遠ざかる二機を見ていた。
追えば落とせる。
それは分かっていた。
だが、追わなかった。
ここで無理に追う意味はない。
ミッドウェーは、まだ始まっていない。
本番は四日後だ。
今ここで敵を全て消すことが、必ずしも正解とは限らない。
それに。
慎一は、今の空戦を思い返した。
ムスタング。
アメリカ軍は、明らかにこちらへ届く可能性のある機体を出してきた。
そして、あのパイロット。
射線に入る直前に割れた。
偶然ではない。
あれは本能だ。
死ぬ場所を感じ取った。
慎一は小さく息を吐いた。
「まずいな」
計器の針が静かに揺れている。
「とりあえず帰って報告するか」
慎一は機首を反転させた。
零戦は、ゆっくりと未来基地の方角へ向かう。
ブースターは使わない。
ただ改修された栄エンジンだけが、低く唸っていた。
海の向こうでは、ミッドウェーが近づいている。
日本は変わった。
アメリカも変わった。
その両方が、十時二十分へ向かって進んでいる。
慎一は前方を見た。
「これはもう」
小さく呟く。
「俺の知っているミッドウェーじゃないな」
零戦は青い海の上を、静かに帰っていった。




