外周哨戒
第四十六話 外周哨戒
ミッドウェーまで、あと四日。
太平洋の海は、静かに見えた。
だが、その静けさの下で、日米双方の艦隊はすでに動き始めていた。
日本の機動部隊は、ミッドウェーへ向かって進んでいる。
赤城。
加賀。
蒼龍。
飛龍。
翔鶴。
瑞鶴。
史実には存在しなかった六隻の空母。
その存在は、日本軍自身にもまだ大きな意味を持ってはいなかった。
ただ、戦力が増えた。
作戦が厚くなった。
そう見えているだけだった。
だが、未来を知る男にとっては違う。
それは、歴史がすでに変わっている証だった。
◇
真珠湾。
アメリカ太平洋艦隊司令部の一室では、再び報告書が並べられていた。
机の上には、機体性能表が置かれている。
F4Fワイルドキャット。
F4Uコルセア。
P-40ウォーホーク。
そして、P-51ムスタング。
サッチ少佐は、腕を組んだまま資料を見ていた。
部屋にはハーパーもいた。
彼の顔には、以前よりも深い影がある。
Phantom。
その名は、もう誰も笑わなかった。
「コルセアでは届かない」
技術士官が言った。
「速度はある。だが、今の運用状態では安定性と実戦投入に不安が残る。少なくとも、Phantomを追う機体としては不十分です」
別の士官が資料をめくる。
「では、ムスタングか」
「現時点では、それが最適解です」
技術士官は答えた。
「直線速度。航続距離。上昇力。いずれも、既存の艦上戦闘機より期待できます」
ハーパーが口を開いた。
「だが、ムスタングは一度やられている」
室内が静かになった。
誰も、その事実を忘れてはいない。
Phantomに接触した新型機。
交信は途中で途切れた。
残されたのは、断片的な声だけだった。
異常な接近速度。
見えない射撃。
そして沈黙。
「どう落とされたかは分かっていない」
サッチが言った。
「交信記録から推測するしかない」
ハーパーは頷いた。
「分かっているのは、近づいたと思った瞬間には、もう遅かったということだけです」
彼の声は低かった。
「追えたのか?」
サッチが問う。
ハーパーは少し黙った。
「追えた、とは言えません」
「では?」
「追える可能性がある機体です」
サッチはハーパーを見た。
ハーパーは資料の上に置かれたムスタングの写真を見つめていた。
「ワイルドキャットでは論外。P-40では距離を詰めきれない。コルセアはまだ信用できない」
ハーパーは顔を上げた。
「なら、今の最適解はムスタングです」
その言葉に、誰も反論しなかった。
勝てるとは言っていない。
撃ち落とせるとも言っていない。
ただ、今ある手札の中で、一番ましなもの。
それがムスタングだった。
サッチはゆっくりと頷いた。
「ハーパー」
「はい」
「ミッドウェー外周哨戒に行け。」
ハーパーの目が動く。
「Phantomを探すのですか」
「いや」
サッチは海図を見た。
「奴を探すな。探せば死ぬ」
その声は静かだった。
「ただし、奴が現れた場所を見ろ」
「現れた場所?」
「奴がいる場所には、意味がある」
サッチはミッドウェー北西の海域を指した。
「奴は重要局面に現れる。ならば、奴を見つけることは、日本側の動きを読むことにもなる」
ハーパーはしばらく海図を見ていた。
そして、小さく頷いた。
「了解しました」
「交戦は避けろ」
サッチは言った。
「可能なら距離を取れ。無理なら逃げろ」
「逃げられれば、ですが」
「逃げろ」
サッチの声が強くなった。
「君はPhantomを倒すために飛ぶのではない。Phantomを見て、生きて帰るために飛ぶ」
ハーパーは、何か言いかけてやめた。
そして敬礼する。
「了解」
部屋を出る時、彼はもう一度だけ机の上の写真を見た。
ムスタング。
あの幽霊に届くかもしれない、唯一の機体。
だが、その機体もすでに一度、落とされている。
ハーパーは低く呟いた。
「今度は、見失わない」
◇
未来基地では、慎一の零戦が出撃準備に入っていた。
格納庫の中。
零戦は静かにそこにあった。
外見は、どこから見ても普通の零戦だった。
塗装も、機体番号も、傷跡も、補修跡もそのまま残されている。
だが中身は違う。
ハイパーコーティングで強化された機体。
高出力化された栄エンジン。
最新化された無線。
レーダー。
そしてレールガン。
幸雄が機体の下で点検をしていた。
「無理はするなよ」
幸雄は顔を上げずに言った。
「本番前だ。今壊されると困る」
「分かってる」
慎一は答えた。
「今日は戦いに行くんじゃない。見るだけだ」
幸雄が鼻で笑った。
「お前の見るだけは信用できん」
美希が端末を抱えて近づいてくる。
「ミッドウェー外周に米軍の哨戒線が厚くなってます。PBYらしき反応、それから戦闘機の動きもあります」
「戦闘機?」
慎一が聞き返す。
「機種は不明です。ただ、速度が少し高い反応があります」
京子が慎一を見る。
「慎一君」
「ん?」
「本当に行くの?」
「ああ」
慎一は零戦を見上げた。
「敵ももう動いている」
京子は黙っていた。
「本戦まであと四日だ。この四日で、敵がどう変わっているかを見ておきたい」
「アメリカ軍は、あなたを警戒してる」
「分かってる」
「サッチもいるかもしれない」
「それも分かってる」
京子の表情が少し険しくなる。
「分かってるなら、余計に危ないわ」
慎一は少し笑った。
「だから見に行くんだ」
京子はため息をついた。
「あなたって、本当にそういう人ね」
「今さらだろ」
「ええ。今さらね」
京子は端末を操作した。
格納庫の奥で、転送装置が低く唸る。
「出撃地点はいつもの草地。そこから南東へ抜けて、ミッドウェー北西外周へ向かうルートを出すわ」
「頼む」
「戦闘は避けて」
「努力する」
「慎一君」
京子の声が少しだけ低くなる。
慎一は苦笑した。
「分かった。避ける」
京子はまだ納得していない顔だったが、それ以上は言わなかった。
慎一は基地の出口へと歩いて行く。
いつもの離陸点。
この零戦が飛ぶたびに、歴史は少しずつ変わっていく。
珊瑚海。
輸送船団。
ソロモン。
翔鶴。
瑞鶴。
そしてミッドウェー。
「行くか」
慎一はいつもの離陸点に転送された機体によじ登った。
操縦席に座る。
慎一は計器を確認した。
空間磁気コイル、作動。
機体がふわりと浮いた。
わずか二メートル。
主脚が格納される。
栄エンジンが始動した。
低い音が草地に広がる。
零戦は、滑るように前へ出た。
ブッシュの上を静かに進み、やがて機首を上げる。
離陸ではない。
空へほどけていくように、零戦は上昇した。
慎一は高度を取る。
南東へ。
海へ。
ミッドウェーへ向かう外周空域へ。
無線から京子の声が入る。
「慎一君、聞こえる?」
「聞こえる」
「米軍哨戒線まで、まだ距離があるわ」
「了解」
「本当に、戦闘は避けてね」
「分かってる」
慎一は前方を見た。
海は青く、雲は薄い。
静かな空だった。
だが、慎一は知っている。
静かな空ほど、何かが隠れている。
◇
同じ頃。
ミッドウェー北西外周。
ハーパーはムスタングの操縦席にいた。
これまで乗ってきた機体とは違う。
速度の乗り方。
操縦桿への反応。
視界。
すべてが少しずつ違っていた。
だが、悪くない。
少なくとも、ワイルドキャットよりは速い。
P-40より伸びる。
この機体なら、あの幽霊を少しは追えるかもしれない。
僚機が横につく。
二機のムスタングは、雲の切れ間を抜けていった。
下には海。
遠くに哨戒機の影。
ハーパーは周囲を見た。
Phantomを探すな。
サッチの言葉が頭に残っている。
探せば死ぬ。
だが、見つけなければならない。
矛盾している。
それでも、今の自分の任務はそういうものだった。
無線が入る。
「こちら哨戒三番機。北西方向、ゆつくり接近する機影あり」
ハーパーの目が細くなる。
「機種は?」
「不明。単機。高度を保っている。速度は普通です。」
単機。
ハーパーの背筋が冷たくなった。
僚機が無線で言う。
「日本機か?」
ハーパーは答えなかった。
遠くの空を見る。
雲の縁。
太陽の光。
その中に、小さな黒い点があった。
ハーパーは操縦桿を握り直した。
機影はまだ遠い。
だが、見間違えるはずがなかった。
あの位置取り。
あの静けさ。
あの、戦場を先に読んでいるような飛び方。
「見つけたぞ」
ハーパーは低く呟いた。
喉が乾く。
手袋の中で、指が汗ばんでいた。
黒い点は、少しずつ形を持ち始める。
零戦。
だが、ただの零戦ではない。
ハーパーは無線の送信ボタンを押した。
「こちらハーパー」
一瞬、声が詰まった。
それでも、彼は言った。
「Phantomを視認した」




