合流命令
第四十五話 合流命令
太平洋の朝は、静かだった。
水平線の上に薄い光が広がり、海面はまだ青黒い色を残している。
その海を、巨大な艦隊が進んでいた。
第一航空艦隊。
その中心にいるのは、四隻の空母だった。
赤城。
加賀。
蒼龍。
飛龍。
赤城の艦橋で、艦長の青木泰二郎大佐は前方の海を見ていた。
海は穏やかだった。
艦首が波を割る音だけが、低く続いている。
「海は静かだな」
青木は呟いた。
副長がそっと頷く。
「はい」
青木は海から目を離さなかった。
「だが、静かな海ほど油断はならん」
その声は穏やかだったが、艦橋にいた者たちは背筋を伸ばした。
赤城は進む。
まだ誰も知らない運命の海へ。
◇
加賀の飛行甲板では、整備兵たちが機体の確認を続けていた。
艦長、岡田次作大佐は甲板の動きを見下ろしていた。
艦爆。
艦攻。
零戦。
すべてが次の作戦へ向けて整えられている。
「搭乗員には休ませておけ」
岡田は静かに言った。
「飛ぶ時が来れば、休む暇など無い」
「はっ」
士官が敬礼する。
岡田は甲板に並ぶ機体を見た。
機体だけでは戦えない。
艦だけでも戦えない。
最後に飛ぶのは、人だ。
加賀は重い船体を進めていた。
静かな波を押し分けながら。
◇
蒼龍の艦橋では、海図が広げられていた。
艦長、柳本柳作大佐は航路を確認していた。
予定通り。
すべては予定通りに進んでいる。
だからこそ、柳本の表情は緩まなかった。
「予定通りに進んでいる時ほど」
柳本は海図から目を離さずに言った。
「予定外を考えろ」
参謀が顔を上げる。
「はい」
「海も空も、人間の都合では動かん」
柳本は静かに続けた。
「勝つつもりで進む。だが、勝つつもりだけでは戦は勝てん」
蒼龍の艦橋に、張り詰めた空気が流れた。
◇
飛龍は、少し離れた位置を進んでいた。
艦長、加来止男大佐は甲板に立ち、風を受けていた。
海風が制服の裾を揺らす。
艦は生き物のように、波の上を進んでいる。
「最後にものを言うのは、艦でも機体でもない」
加来は低く言った。
そばにいた士官が顔を向ける。
加来は飛行甲板を歩く搭乗員たちを見た。
「人だ」
その一言に、士官は黙って頷いた。
飛龍は進む。
まだ名もなき朝の海を。
だがその先には、太平洋の運命を変える戦場が待っていた。
◇
同じ頃。
第五航空戦隊にも、新たな命令が届いていた。
空母、翔鶴。
艦長、有馬正文大佐は、受け取った命令書を読み終えると、ゆっくりと顔を上げた。
「ミッドウェー作戦に参加せよ、か」
艦橋の空気が引き締まる。
翔鶴は、珊瑚海の戦いをくぐり抜けていた。
だが、本来受けるはずだった大きな損傷はなかった。
飛行甲板は使える。
機関も生きている。
搭乗員も失われていない。
それは、あの戦場に現れた一機の零戦によってもたらされた結果だった。
乗員たちは、まだその意味を知らない。
ただ、助かった。
ただ、帰ってきた。
それだけだと思っていた。
だが、その結果が今、次の作戦へ繋がろうとしている。
「翔鶴は出られる」
有馬は言った。
「総員に伝えろ。第五航空戦隊はミッドウェー作戦に参加する」
「はっ」
副長が敬礼する。
有馬は甲板を見下ろした。
整備兵たちが走っている。
機体が並んでいる。
搭乗員たちが出撃準備を進めている。
「珊瑚海で拾った命だ」
有馬は低く呟いた。
「ならば、次の海で使うまでだ」
◇
空母、瑞鶴。
艦長、横川市平大佐のもとにも、同じ命令が届いていた。
横川は命令書を机の上に置いた。
「ミッドウェーか」
その声は静かだった。
瑞鶴もまた、珊瑚海から戻っていた。
本来なら、航空隊の消耗によって次の大作戦には間に合わないはずだった。
だが、この世界では違った。
搭乗員は生き残っていた。
機体も残っていた。
艦は動ける。
そして、航空隊は飛べる。
横川は艦橋から飛行甲板を見た。
そこには、珊瑚海の空を生き延びた搭乗員たちがいた。
まだ若い者もいる。
何度も死線を越えた者もいる。
だが、彼らは次の海へ向かう。
「翔鶴と並んで出ることになるか」
横川は小さく笑った。
副長が頷く。
「はい」
「ならば、恥ずかしい戦はできんな」
横川は命令書を畳んだ。
「瑞鶴、出撃準備」
「はっ」
その日、第五航空戦隊はミッドウェーへ向かって動き始めた。
赤城。
加賀。
蒼龍。
飛龍。
そして、翔鶴。
瑞鶴。
史実には存在しなかった六隻の空母。
その意味を、まだ日本海軍の誰も知らない。
ただ一人。
未来を知る男を除いて。
◇
未来基地の作戦室には、端末の光が浮かんでいた。
京子がミッドウェー作戦に関する情報を整理している。
海図。
艦隊の予想進路。
日本側の戦力。
米軍の動き。
それらが大きな画面に次々と表示されていった。
慎一は椅子に座り、腕を組んだまま画面を見ていた。
ミッドウェー。
十日後の十時二十分。
その数字は、頭から離れない。
「現時点で確認できる日本側の参加艦艇一覧よ」
京子が言った。
画面が切り替わる。
最初に表示された名は、慎一の記憶と同じだった。
赤城。
加賀。
蒼龍。
飛龍。
慎一は黙って見ていた。
史実通りだった。
この四隻が、ミッドウェーの中心になる。
この四隻が、燃える。
そうなるはずだった。
だが、次の行を見た瞬間。
慎一の目が止まった。
翔鶴。
瑞鶴。
慎一は、しばらく何も言わなかった。
京子が不思議そうに振り向く。
「どうしたの?」
「待て」
慎一は画面を見つめたまま言った。
「翔鶴と瑞鶴までいるのか?」
「第五航空戦隊ね」
京子が端末を操作する。
「ええ。ミッドウェー作戦への合流命令が出ているわ」
慎一は眉を寄せた。
「おかしい」
「おかしい?」
「ああ」
慎一は画面の二隻の名から目を離さなかった。
「この二隻は、本来ミッドウェーにはいない」
京子の手が止まる。
「どういうこと?」
「史実では、翔鶴は珊瑚海で損傷を受けた。瑞鶴は艦自体は無事だったが、航空隊が大きく消耗した」
慎一はゆっくりと言った。
「だから、ミッドウェーには参加できなかった」
作戦室の空気が変わった。
はるみが顔を上げる。
美希も端末を見る。
幸雄は腕を組んだまま、慎一の横顔を見ていた。
「でも、現在の記録では参加予定になってる」
京子が言った。
「翔鶴、瑞鶴、共に第五航空戦隊として合流命令を受けているわ」
慎一は何も言わなかった。
珊瑚海。
あの海で、自分は飛んだ。
翔鶴も瑞鶴も、ほぼ無傷だった。
搭乗員も失われなかった。
沈むはずだった運命。
傷つくはずだった甲板。
帰れないはずだった搭乗員。
そのすべてが、今、この画面の中に戻ってきていた。
「この前助けた艦か」
慎一は低く呟いた。
京子が慎一を見る。
「慎一君」
「そうか」
慎一は小さく息を吐いた。
「そういうことか」
「何が?」
京子が訊いた。
慎一は画面を見つめたまま、静かに言った。
「違うな」
その声は、驚きというより確認に近かった。
「どうやら俺は、思った以上に歴史を変えてたらしい」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
画面には、六隻の空母の名が並んでいる。
赤城。
加賀。
蒼龍。
飛龍。
翔鶴。
瑞鶴。
史実とは違う機動部隊。
それは、慎一がこれまで飛んできた結果だった。
京子は静かに言った。
「これで、勝てる可能性は上がったの?」
慎一はすぐには答えなかった。
勝てる。
その言葉は、簡単に口にできない。
ミッドウェーは、空母の数だけで決まる戦ではない。
索敵。
判断。
兵装転換。
直掩の位置。
攻撃隊のタイミング。
そして、運。
すべてが絡み合って、十時二十分へ向かっていく。
「可能性は上がった」
慎一は言った。
「でも、同時に危険も増えた」
「危険?」
「歴史が変わったということは、俺の知っている通りには進まないかもしれない」
京子の表情が引き締まる。
「未来知識が絶対ではなくなる」
「ああ」
慎一は頷いた。
「俺は、史実のミッドウェーなら知っている。だが、翔鶴と瑞鶴が加わったミッドウェーは知らない」
作戦室に沈黙が落ちた。
それは恐怖ではなかった。
慎一たちが、初めて本当に歴史の外へ出た音だった。
幸雄が低く言った。
「なら、機体は余計に万全にしないとな」
「ああ」
慎一は短く答えた。
美希が端末を抱え直す。
「米軍の反応も変わるかもしれません。Phantomの警戒も強まってるはずです」
「そうだな」
はるみが静かに言った。
「でも、助かった人たちがいるから、今この艦隊になったんですよね」
慎一は、はるみを見た。
そして少しだけ笑った。
「そうだな」
画面の中の六隻の名が、白く光っていた。
それはただの艦名ではなかった。
慎一が飛んだ証だった。
歴史が少しずつ変わり始めた証だった。
そして同時に、もう誰にも分からない未来への入口だった。
「翔鶴、瑞鶴が加わっても」
慎一は言った。
「俺のやることは変わらない」
京子が顔を上げる。
「赤城の上空?」
「ああ」
慎一は海図を見た。
「十日後の十時二十分。俺はそこにいる」
六隻の空母が、海図の上でミッドウェーへ向かっていた。
史実には存在しなかった艦隊。
未来を知る男にも読めない戦い。
それでも、慎一は迷わなかった。
変えてしまったのなら。
最後まで、変えるしかない。




