ミッドウェー
第四十三話 ミッドウェー
食堂の灯りは、まだ落とされていなかった。
夕食の皿は片づけられていたが、テーブルの上には海図が広げられたままだった。
京子が赤い鉛筆で引いた線。
その線は、ソロモンの海からさらに北東へ伸びていた。
薄い紙の上に描かれた海。
無数の島。
そして、その先にある小さな文字。
ミッドウェー。
慎一は、その文字を見た瞬間、動きを止めた。
食堂の中にあった空気が、そこで一度止まったように感じられた。
「どうしたの?」
京子が顔を上げる。
慎一は答えなかった。
ただ、海図の一点を見つめていた。
ミッドウェー。
その名は、ただの島の名ではなかった。
慎一の頭の中で、古い記憶がいくつも開いていく。
赤城。
加賀。
蒼龍。
飛龍。
四つの名前が、海図の上に浮かび上がるようだった。
そして炎。
青い海の上で、巨大な空母が燃えていた。
甲板を走る兵。
黒煙。
傾く艦橋。
海面に落ちていく機体。
何度も本で読んだ。
何度も映像で見た。
何度も考えた。
どうして、あの瞬間を止められなかったのか。
「……ミッドウェーか」
慎一の声は低かった。
京子の表情が変わる。
「知っているの?」
「知ってるどころじゃない」
慎一は、海図から目を離さなかった。
「そこは、日本海軍が負ける海だ」
食堂の空気が、重く沈んだ。
はるみが、持っていた湯呑みをそっと置いた。
美希は端末から顔を上げ、幸雄は腕を組んだまま黙って慎一を見た。
京子だけが、慎一の言葉を確かめるように口を開いた。
「ミッドウェー海戦……日本海軍が大敗した戦い。それは私も知ってる。でも、細かい経過までは知らないわ」
「普通は知らない」
慎一は苦く笑った。
「でも、俺は知ってる」
「どうして?」
京子の問いは静かだった。
責めるような声ではない。
ただ、本当に分からないという声だった。
慎一は少し黙った。
海図の上に置いた指を、ゆっくりと動かす。
「好きだったんだよ」
「え?」
「昔からな。こういう話が」
慎一は海図を見たまま言った。
「本を読んだ。資料を読んだ。映像も見た。戦史ものは、妙に頭に残るんだ」
美希が小さく呟いた。
「好きだから、覚えてた……?」
「そういうことだ」
慎一は短く答えた。
「ただの歴史じゃなかった。何度読んでも、同じところで引っかかった」
「同じところ?」
京子が訊く。
「ここだ」
慎一の指が、ミッドウェー北西の海域を押さえた。
「この海で、日本海軍は主力空母を失う」
誰も動かなかった。
慎一は続けた。
「赤城、加賀、蒼龍、飛龍。四隻だ」
はるみが息を呑んだ。
「四隻……」
「ああ」
慎一は頷いた。
「そのうち三隻は、ほとんど同じ瞬間にやられる」
「同じ瞬間……?」
「数分だ」
慎一の声が、食堂に低く落ちた。
「たった数分で、赤城、加賀、蒼龍が燃える」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
未来基地の中には、いつも機械の微かな音があった。
空調。
端末。
壁の奥で動く何か。
だがその時だけは、その音さえ遠く感じられた。
「そんな状態になる前に、作戦を止めればいいんじゃないの?」
美希が言った。
声はいつもより小さかった。
「簡単じゃない」
慎一は首を横に振る。
「作戦はもう動いている。連合艦隊も、機動部隊も、勝つつもりで進む。誰も、自分たちが負けるなんて思ってない」
幸雄が低く言った。
「だからこそ、止まらないか」
「ああ」
慎一は幸雄を見た。
「負ける理由が、負けるまでは分からない」
京子は海図を見下ろした。
「何が起きるの?」
慎一は少し息を吐いた。
「最初は、ミッドウェー島への攻撃だ。日本の機動部隊は島を叩く。だが、一度では足りない。再攻撃が必要だと報告が入る」
「それで?」
「そこで、艦載機の兵装を変える」
慎一の指が、海図の上で止まった。
「敵空母を攻撃するための魚雷や爆弾を、島を攻撃するための爆弾へ変える」
京子の眉がわずかに動いた。
「でも、敵空母が見つかったら?」
「その通りだ」
慎一は静かに言った。
「その直後に、敵空母発見の報告が入る」
はるみの顔が青ざめた。
「じゃあ、もう一度戻すの?」
「ああ」
「そんな……」
「格納庫は混乱する。爆弾。魚雷。燃料。発艦準備中の機体。帰ってくる攻撃隊。上空直掩の零戦は、アメリカ軍の雷撃隊に低空へ引きずられていく」
慎一の声は淡々としていた。
だが、言葉の一つ一つが重かった。
「そして上が空く」
京子が息を止めた。
「そこへ、急降下爆撃隊が来る」
食堂の空気が凍った。
慎一には見えていた。
雲間から突き落ちるように降りてくる機影。
太陽を背にした米軍機。
気づいた時には、もう遅い。
甲板が揺れる。
爆弾が落ちる。
火が走る。
空母が燃える。
「何時?」
京子が訊いた。
慎一は、すぐに答えなかった。
その時刻だけは、嫌になるほど覚えていた。
何度も見た。
何度も読んだ。
何度も、そこで歴史が折れるのを見た。
「十時二十分」
慎一は言った。
京子が顔を上げる。
「十時二十分?」
「ああ」
慎一は、海図の上に置いた指を動かさなかった。
「十日後の十時二十分」
食堂の中に、数字だけが残った。
十日。
十時二十分。
それはまだ、遠いようで近かった。
京子は海図を見つめた。
「今が、十日前……」
「そうだ」
慎一は頷いた。
「あと十日後の十時二十分」
その声は、今までよりもはっきりしていた。
「そこが、運命の分岐点だ」
誰も言葉を返せなかった。
はるみは両手を握りしめていた。
美希は端末の画面を見ていたが、何も操作していない。
幸雄は腕を組んだまま、口を固く結んでいた。
京子は慎一を見た。
「慎一君」
「ん?」
「止めるつもりなのね」
慎一は、少しだけ笑った。
笑ったが、その目は笑っていなかった。
「止めなきゃ、俺がここにいる意味がない」
京子は何も言わなかった。
慎一の言葉の重さを、彼女は理解していた。
歴史を変える。
その言葉は、聞くだけなら簡単だった。
だが実際には、ひとつの海で死ぬはずだった者を救い、勝つはずだった者の未来を変えるということだった。
そこには、必ず別の結果が生まれる。
それでも。
慎一は海図を見つめた。
赤城。
加賀。
蒼龍。
飛龍。
その名を、燃える艦としてではなく、海を進む艦として残したかった。
「準備するわ」
京子が言った。
慎一が顔を上げる。
「十日ある。機体の整備、兵装の確認、作戦経路の計算。全部やる」
はるみも頷いた。
「私も、補給と救急装備を確認します」
美希が端末を抱え直した。
「通信記録と米軍の動き、拾えるだけ拾います」
幸雄は短く言った。
「機体をもう一度見る。熱と負荷が心配だ」
慎一は四人を見た。
未来基地の食堂。
白い灯り。
海図。
赤い線。
そこにいたのは、歴史を眺める者たちではなかった。
これから、その中へ飛び込む者たちだった。
「ありがとう」
慎一は静かに言った。
京子は少しだけ微笑んだ。
「まだ早いわ」
「そうだな」
「ありがとうは、帰ってきてから聞く」
慎一は笑った。
今度は、ほんの少しだけ本当に笑った。
食堂の灯りが、海図の上を白く照らしていた。
ミッドウェー。
小さな島の名。
だがその一点へ、十日後、日米双方の運命が集まる。
慎一はもう一度、その海を見た。
十日後の十時二十分。
そこに、自分はいる。
赤城の上空に。
歴史が折れる、その瞬間に。
慎一は静かに拳を握った。
誰か、気付かなかったのか。
昔、そう思った。
今は違う。
気付いた。
ならば、行くしかない。




