海図
第四十二話 海図
格納庫に、工具の音がしばらく響いていた。
右翼の三つの傷は、幸雄の手で表面を削られ、再処理の準備に入っていた。
慎一はその様子を少しだけ見ていたが、幸雄に追い払われた。
「邪魔だ。飯でも食ってこい」
「俺の機体だぞ」
「だから直してる」
幸雄は振り向きもしなかった。
慎一は肩をすくめ、格納庫を出た。
通路を抜けると、基地内の小さな食堂に灯りがついていた。
テーブルの上には、すでに夕食が並んでいる。
焼いた肉。
野菜の炒め物。
味噌汁。
白い飯。
見慣れたようで、この時代にはありえないほど整った食事だった。
京子が小さな鍋を持って、最後に味噌汁を置いた。
「座って」
慎一は椅子に座った。
美希とはるみも席についている。
美希は箸を持ったまま、待ちきれない顔をしていた。
「京子さん、今日は味噌汁なんですね」
「ええ。少し濃いめにしたわ。慎一、今日は汗をかいてるでしょう」
「戦闘機の中でな」
「なら、ちょうどいいはずよ」
慎一は味噌汁を一口飲んだ。
少しだけ動きが止まる。
「……うまいな」
京子は何でもないように言った。
「普通よ」
「普通じゃないだろ」
美希が笑った。
「慎一さん、今さら気づいたんですか。京子さん、料理上手なんですよ」
はるみも頷く。
「基地の食事、だいたい京子さんが味を見てるんです」
「そうなのか」
慎一は京子を見た。
京子は少しだけ目を逸らした。
「食べられる物を出しているだけよ」
「いや、これは食べられるどころじゃない」
慎一は飯を口に運んだ。
「うまい」
美希がにやにやする。
「京子さん、褒められてますよ」
「聞こえてるわ」
京子はそっけなく答えた。
だが、その声は少しだけ柔らかかった。
格納庫ではまだ幸雄が作業している。
食堂には、久しぶりに穏やかな空気があった。
ソロモンの空。
敵弾。
Phantom。
片桐。
そうしたものが、少しだけ遠くなる。
慎一は黙って飯を食べた。
美希とはるみは、ソロモンでの戦闘を聞きたがったが、京子が視線だけで止めた。
今は食事の時間。
そう言われたような気がして、二人もそれ以上は聞かなかった。
しばらくして、食事が終わった。
京子は湯呑みを置き、立ち上がった。
「食後に少し話があるわ」
慎一は箸を置いた。
「今度は何だ」
「戦場の話」
その一言で、空気が変わった。
京子は壁面のモニターを起動した。
黒い画面に、太平洋の海図が浮かび上がる。
日本。
ソロモン。
ニューギニア。
中部太平洋。
いくつもの点と線が、海の上に現れた。
慎一は湯呑みを持ったまま、その海図を見た。
「ソロモンだけじゃないのか」
「ええ」
京子は静かに言った。
「ソロモンは重要よ。けれど、戦争はそこだけで終わらない」
赤い線が、日本側の補給路を示す。
青い線が、米軍の進出方向を示す。
京子は指先で、ソロモン周辺を示した。
「ここは、これからも消耗戦になる。日本は船を送り、飛行機を送り、人を送り続ける」
慎一は黙って聞いていた。
「でも、米軍は一箇所だけを見ていない」
京子の指が、海図の上を滑る。
「ニューギニア」
別の光点が浮かぶ。
「中部太平洋」
さらに別の光点。
「そして、島から島へ進む道」
美希が小さく息を呑んだ。
はるみも表情を曇らせる。
慎一は海図を見ていた。
点と線だけなら、ただの地図だ。
だが京子の声が入ると、それは戦場になった。
「日本はまだ戦っている。けれど、守らなければならない海が増え続けているの」
「戦力は」
「足りないわ」
京子は即答した。
「飛行機も、燃料も、船も。そして何より、人が足りなくなっていく」
慎一は湯呑みを置いた。
「搭乗員か」
「ええ」
京子は頷く。
「熟練搭乗員は、簡単には戻らない。一機を失うことは、機体だけを失うことじゃない」
慎一は一瞬、ソロモンの空を思い出した。
撃墜された二機の零戦。
海へ落ちていった味方。
その中に、帰るはずだった人間がいた。
「だから船団を守った意味があるのか」
「あるわ」
京子ははっきりと言った。
「あなたが守ったのは、船だけじゃない。補給線そのものよ。あそこが切られれば、前線は戦う前に痩せていく」
慎一はしばらく黙っていた。
それから、いつもの調子で言った。
「で、次はどこへ行けばいい」
京子は少しだけ目を細めた。
「すぐそうなるのね」
「話の流れからして、そうだろ」
「まだ決めない」
京子は海図へ目を戻した。
「今は右翼の修復が先。それに、米軍も動きを変えるはずよ」
「Phantom対策か」
「ええ。ソロモンでの戦闘記録を、向こうがどう受け取るか。そこを見ないといけない」
美希が腕を組んだ。
「でも、向こうは帰還者ゼロなんですよね?」
「だから厄介なの」
京子は言った。
「見えていないものを、恐怖で補う。そういう相手は、時に大胆な作戦を取るわ」
慎一は海図を見る。
「俺を避けるか」
「あるいは、引き離そうとする」
その言葉に、慎一は少しだけ眉を動かした。
「俺を?」
「そう」
京子はソロモンの光点を消し、別の場所に小さな光を灯した。
「Phantomは一機しかない。米軍はもうそれを知っている。一度は二箇所同時攻撃で成功した」
「今回もその流れだったな」
「ええ。でもソロモンでは失敗した。だから次は、もっと考えてくる」
慎一は息を吐いた。
「面倒だな」
「戦争は面倒なの」
京子は短く返した。
その時、食堂の入口から幸雄の声がした。
「その前に右翼だ」
全員が振り向く。
幸雄が作業着姿のまま立っていた。
袖には細かな粉が付いている。
「三箇所とも表面を削った。再処理はできる。だが、乾燥と定着に時間がいる」
「どれくらい」
京子が聞く。
「急げば半日。まともにやるなら一晩だ」
「まともにやって」
「そのつもりだ」
幸雄は慎一を見る。
「次に飛ばすなら、明日以降だ」
「飛べないのか」
「飛べる」
幸雄は即答した。
「だが、飛ばさない」
慎一は苦笑した。
「お前まで京子みたいなことを言う」
「俺は機体の話をしてる。京子はお前の話をしてる」
美希が小さく笑った。
「幸雄さん、たまにすごく正確なこと言いますよね」
「たまにとは何だ」
はるみも少し笑った。
京子は海図を消さずに、幸雄へ視線を向けた。
「右翼は任せるわ」
「ああ」
幸雄は頷いた。
それから海図を見る。
「次の戦場がどこだろうと、機体が万全じゃなきゃ話にならん」
慎一はその言葉を聞きながら、もう一度海図を見た。
ソロモン。
ニューギニア。
中部太平洋。
広い海に、いくつもの光点が浮かんでいる。
どこかでまた、船が狙われる。
どこかでまた、零戦が落ちる。
どこかでまた、誰かが死ぬ。
そして自分は、また飛ぶのだろう。
慎一は湯呑みを手に取った。
少し冷めた茶を飲む。
「飯はうまかった」
京子が一瞬だけ目を瞬かせる。
「今、その話?」
「大事だろ」
慎一は海図を見たまま言った。
「飛ぶなら、うまい飯を食ってからがいい」
美希が吹き出した。
はるみも笑う。
幸雄は呆れたように鼻を鳴らした。
京子は少しだけ肩の力を抜いた。
「……次も作るわ」
「ああ」
慎一は頷いた。
海図の光点は、まだ消えていない。
太平洋は広い。
戦場は、広がっている。
だがその夜、未来基地の食堂には、味噌汁の香りがまだ残っていた。




