三上慎一
帰投した零戦が滑走路へ次々と降りてきた。
エンジンが止まるたびに整備兵が駆け寄り、被弾箇所を確認する。翼に穴を開けた機体、尾翼を傷つけた機体、脚を引きずるように戻ってきた機体もある。その中へ片桐の零戦も降りた。
風防を開けると、湿った熱気が一気に流れ込んできた。
「片桐、大丈夫か」
整備兵が翼へ上がってくる。
「ああ。機体を見てやってくれ」
「派手にやられてるな」
片桐は返事をせず、操縦席から降りた。
足が地面についたところで、無意識に空を見上げる。
もちろん、もうあの零戦はいない。
「片桐」
背後から呼ばれて振り返った。
坂井だった。
「少しいいか」
「はい」
二人は整備兵たちから離れ、飛行場の端へ歩いた。少し先では椰子の葉が風に揺れている。坂井はそこで足を止めると、片桐を見た。
「あの零戦乗りを知ってるな」
いきなりだった。
片桐は言葉に詰まった。
「……なぜ、そう思うんです」
「空でのお前の顔を見てた」
坂井はそれだけ言った。
「助けてもらって驚いた顔じゃなかった。知ってる人間を見た顔だった」
片桐は黙った。
やはり、この人には誤魔化せない。
坂井は急かさなかった。ただ片桐が話すのを待っている。
しばらくして、片桐が口を開いた。
「似ていたんです」
「誰に」
もう逃げられなかった。
「三上慎一」
坂井の眉がわずかに動いた。
「三上慎一?」
「はい」
「どこの隊だ」
片桐は一度、息を吐いた。
「元はラバウルです」
「元は?」
「偵察任務の帰りに……戦死したことになっています」
坂井の表情が止まった。
飛行場ではまだ整備兵たちが声を掛け合っている。工具の音も聞こえる。だが二人の間だけ、そこから切り離されたように静かになった。
「戦死した?」
「はい」
「いつだ」
「詳しくはわかりません、二十機あまりのアメリカ機と遭遇し、空戦中に被弾して落ちたと書いてます」
坂井は何も言わなかった。
片桐も続けなかった。
やがて坂井がゆっくりと空を見た。
「あれが?」
「……分かりません」
「さっきは知ってるような顔をしてたぞ」
「知っています。三上なら」
片桐は言葉を選んだ。
「でも、三上であるはずがないんです」
「顔は見たのか」
「見ました」
「はっきり?」
「はい」
今度は迷わなかった。
「風防越しに、目も合いました」
坂井が片桐へ視線を戻す。
「見間違いじゃないのか」
「そう思おうとしました」
片桐は小さく首を振った。
「でも、無理です。あれは三上でした」
「機体は?」
「そこが分からないんです」
片桐の声に苛立ちが混じった。
「三上が乗っていた零戦に似ています。でも同じじゃない。あんな速度は出なかった。弾を受ければ壊れます。まして、あんな戦い方……」
そこで言葉が止まる。
片桐の頭には、敵の射線へ飛び込んできた零戦が浮かんでいた。
P-39の機銃が火を噴いた。
その間へ入った零戦。
右翼に弾丸が当たり、火花が散った。
それでも飛び続けた。
「あいつ、お前を庇ったな」
坂井の言葉に、片桐が顔を上げた。
「見ていたんですか」
「見てた」
坂井は短く答えた。
「普通はやらん」
片桐もそう思っていた。
後ろの敵を撃つことはできたかもしれない。他にもやり方はあったはずだ。それなのに慎一は、自分の機体を片桐とP-39の間へ入れた。
「あのままだったら、私は撃墜されていました」
「だろうな」
「三上は……昔から、ああいう奴でした」
坂井の目が僅かに細くなった。
「どういう奴だ」
片桐はすぐには答えなかった。
「自分のことより先に、他人の方へ行くんです」
それだけだった。
坂井はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「面倒な奴だな」
片桐も少しだけ口元を緩めた。
「はい。かなり」
それで初めて、二人の間の張り詰めたものが少し緩んだ。
だが坂井には、まだ聞きたいことがあった。
「あの射撃も、三上の腕か」
「射撃?」
「P-39のプロペラだ」
片桐は坂井を見る。
「あれを見たんですか」
「見たから聞いてる」
坂井は右手を軽く上げた。
「七・七ミリだった。二十ミリじゃない」
「はい」
「一機なら偶然だと思った。二機目でもまだ疑った。だが、あいつは何機やっても同じだった」
坂井の声から笑みが消える。
「全部、プロペラだけだ」
片桐も戦闘を思い返した。
撃たれたP-39は燃えていなかった。翼も折れていない。ただ推進力を失い、次々に戦列から離れていった。
「あれも昔からなのか」
「いいえ」
片桐は即答した。
「いくら三上でも、あんな真似はできませんでした」
「そうか」
「少なくとも、私の知っている三上には」
坂井は腕を組んだ。
それならなおさら分からない。
死んだはずの搭乗員。
見たこともない性能の零戦。
弾を弾く機体。
七・七ミリで敵機のプロペラだけを撃ち抜く射撃。
そして戦闘が終われば、どこの基地へ帰るでもなく消えていく。
「上には話したのか」
「まだです」
「どうする」
片桐は答えられなかった。
報告すべきだ。
軍人ならそうするのが正しい。
しかし、何を報告するのか。
戦死した三上慎一を見ました。
彼は正体不明の零戦に乗っていました。
機銃弾を弾き、見たこともない速度で飛び、敵機のプロペラだけを撃ち抜いていました。
そんな報告をして、何が起こる。
「顔を見た。それだけなんだな」
坂井が言った。
「はい」
「話はしたのか」
「していません」
「向こうはお前に気づいたのか」
片桐はあの瞬間を思い出した。
風防越しに目が合った。
自分が呆然としていると、慎一は軽く片手を上げた。
「気づいていたと思います」
「それでも何も言わなかった」
「はい」
坂井は鼻から短く息を吐いた。
「なら、今すぐ大騒ぎする必要もないだろ」
片桐が坂井を見る。
「しかし」
「見たことまで隠せとは言わん。あの零戦の性能も、戦い方も報告すればいい」
そこで坂井は一度言葉を切った。
「だが、死んだ男が乗っていたとなれば話が別だ。顔を見ただけで断定すれば、お前自身が説明できなくなる」
片桐には返す言葉がなかった。
その通りだった。
「もう一度現れれば、その時また見ればいい」
「もう一度……」
「来ると思うぞ」
「なぜです」
坂井は空を見上げた。
「知らん」
あっさりした答えだった。
片桐が思わず坂井を見る。
「ただ、あいつは俺に翼を振った」
「坂井さんに?」
「ああ」
坂井の口元が少し緩む。
「俺も振り返した」
片桐は初めてそのことを知った。
「知り合いだったんですか」
「まさか。名前も今聞いたばかりだ」
「じゃあ、なぜ」
「俺が聞きたい」
坂井は笑った。
「勝手に現れて、人の前で七・七ミリだけ使って、あんな馬鹿げた射撃を見せて、最後に翼まで振って消えやがった」
片桐も思わず笑いそうになった。
確かに、言われてみれば妙な話だった。
「だからな」
坂井が空から視線を戻す。
「もう一度くらい、顔を出す気がする」
根拠などない。
それでも不思議と、片桐にも否定できなかった。
坂井は歩き出した。
数歩進んだところで立ち止まる。
「三上慎一だったな」
「はい」
坂井はその名前を確かめるように、もう一度口にした。
「三上慎一」
そして今度こそ歩いていく。
片桐はその背中を見送り、それから空を見上げた。
青い空には、もう何もいない。
それでも、さっきまであそこを飛んでいた。
死んだはずの男が、自分を庇って。
昔とはまるで違う零戦に乗って。
片桐は小さく息を吐いた。
「どこにいるんだよ、三上」
返事はない。
ただ風だけが飛行場を抜けていった。
その日。
坂井三郎はその日初めて、その名を知った。三上慎一という一人の零戦乗りを。




