名も知らぬ零戦乗り
第三十九話 名も知らぬ零戦乗り
ポートモレスビーの空から、戦闘の音が消えていった。
散開していた零戦が一機、また一機と集まり始める。その中で坂井三郎は、遠ざかっていく一機を目で追っていた。
見慣れた零戦の姿をしている。
だが、あれを普通の零戦と呼ぶ気にはなれなかった。
速い。
それだけなら、まだ分かる。
エンジンを強化したのかもしれない。機体を軽くした可能性もある。だが、あの戦い方だけは説明がつかなかった。
坂井は自分の右手を見た。
七・七ミリ。
自分も使っている機銃だ。
あの男も、同じものを使っていた。
それなのに結果が違いすぎる。
「坂井」
横へ並んだ零戦から西澤が手を上げた。
坂井も軽く手を上げて応じる。
その向こうでは笹井の機体も旋回し、隊へ戻ろうとしていた。戦闘は終わった。残ったP-39の姿はもうない。
坂井はもう一度、先ほどまで謎の零戦がいた方角を見る。
最初は偶然だと思った。
一機目のP-39からプロペラが飛んだ時には、狙いが前へずれただけだと思った。
二機目。
三機目。
それでもまだ信じられなかった。
だが四機目を見た時、偶然ではないと分かった。
あの男は最初から、そこしか狙っていなかった。
高速で回転するプロペラを、空戦の最中に撃ち抜いていた。
しかも、ほんの一連射で。
坂井は小さく息を吐いた。
「とんでもない奴だ」
自分でも射撃には自信がある。
だからこそ分かる。
あれがどれほど馬鹿げたことなのか。
地上に置かれた標的を撃っているのではない。自分も相手も飛んでいる。高度も速度も角度も、一秒ごとに変わる。
その中で、回転する三枚のプロペラへ七・七ミリを叩き込む。
狙って出来るものではない。
だが、あの男はやった。
何度も。
坂井の頭に、もう一つ引っ掛かっていることがあった。
撃墜しようと思えば、できたはずだ。
あれほどの腕があるなら、操縦席でも燃料タンクでも狙えた。
なのに狙わなかった。
プロペラだけを壊し、飛べなくすると次の敵へ向かった。
敵機が煙を噴いて落ちていく光景を、あの男は一度も確かめようとしなかった。
「妙な奴だな」
坂井は呟いた。
強い奴なら知っている。
上手い奴も知っている。
だが、あんな戦い方をする搭乗員は知らない。
その時、少し離れたところを飛ぶ一機が目に入った。
片桐の零戦だった。
被弾している。
先ほどP-39二機に追い込まれていた機体だ。
そして、あの零戦に助けられた。
坂井は機体を寄せた。
片桐は気づかない。
まだ遠ざかっていった零戦の方を見ている。
坂井は少し眉を寄せた。
助けられたから気になる。それだけなら分かる。
だが片桐の様子は、それとは少し違った。
何かを見た顔だった。
やがて片桐がこちらに気づいた。
坂井は片手を上げた。
片桐も反射的に手を上げる。
それでも視線は、すぐに遠い空へ戻った。
もう謎の零戦は見えない。
坂井はそれ以上近づかなかった。
空の上で聞けることでもない。
やがて帰投の合図が出た。
零戦隊がゆっくりと機首をそろえる。
坂井も操縦桿を倒した。
眼下にはニューギニアの海岸線が伸びている。
戦闘の痕跡は、もう遠くなり始めていた。
それでも頭から離れない。
七・七ミリの短い火線。
飛び散る銀色の破片。
次々に回転を失っていくP-39のプロペラ。
そして最後に、自分の横を通り過ぎた零戦。
翼がゆっくりと左右へ振られた。
あれは偶然ではない。
自分に向けたものだった。
だから坂井も翼を振った。
名前も知らない。
所属も分からない。
なぜあの空へ現れたのかも分からない。
それでも、あの一瞬だけは同じ空を飛んだ。
同じ零戦に乗り。
同じ七・七ミリで戦った。
坂井は前を向いた。
「また会えるかもな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
少し離れたところでは、片桐がまだ一度だけ後ろを振り返っていた。
その顔を坂井は見ていた。
やはり、おかしい。
驚いているのではない。
怯えているのでもない。
知っている顔だ。
坂井は何も聞かなかった。
今はそれでいい。
零戦隊は編隊を整え、帰投針路へ入った。
片桐もようやく前を向く。
だが操縦桿を握る手から、力が抜けなかった。
風防越しに見えた顔が、何度も頭に浮かぶ。
見間違えるはずがない。
珊瑚海で死んだはずの男。
もう二度と会うことはないと思っていた男。
片桐は声には出さなかった。
ただ一つの名前だけが、胸の奥から消えなかった。
三上慎一。




