ポートモレスビー
第三十七話 ポートモレスビー
昭和十七年五月十七日。ニューギニア、ラエ飛行場。
朝の空へ、零戦が次々と舞い上がっていた。
台南海軍航空隊、零式艦上戦闘機二一型十八機。
目的地はニューギニア島南岸、ポートモレスビー。珊瑚海海戦が終わってからまだ十日も経っていない。海では空母同士が激突したばかりだが、この方面の航空戦が止まったわけではなかった。
むしろ、戦いは続いている。
ラエからポートモレスビーまでは、ただ海岸沿いに飛べば着くような場所ではない。その間にはニューギニアの背骨、オーエン・スタンレー山脈が横たわっている。
十八機の零戦は高度を上げ、山々へ向かった。
途中、一機が不調のため編隊を離れ、ラエへ引き返した。
残った十七機は、そのまま南を目指す。
第二中隊を率いる中島正の周囲には、西澤廣義、笹井醇一、太田敏夫、坂井三郎ら、台南空でも腕の立つ搭乗員たちがいた。
眼下には深い緑。
その先に灰色の山肌が幾重にも連なっている。
山を越えればポートモレスビーだ。
坂井は前方を見たまま、わずかに機首を振った。
列機が応じる。
このところ、米軍の迎撃は変わってきていた。
以前のように零戦を相手に無闇な旋回戦へ入ってこない。速度を使い、高度差を利用し、一撃をかけて離れる。
相手も学んでいる。
それでも、零戦の側にも負けるつもりはない。
西澤の機体が、編隊の中で小さく位置を変えた。
隣を飛ぶ零戦との間隔は一定のまま。
誰も無駄な動きをしない。
彼らにとって、ポートモレスビーへの出撃は初めてではなかった。
やがて山脈を越えた。
景色が変わる。
眼下に平地が広がり、その向こうに海が見えた。
ポートモレスビー。
七マイル飛行場、十二マイル飛行場。
そして港。
日本軍機の接近は、すでに察知されていた。
米軍側では警報が鳴り響き、エアラコブラが次々と滑走路を離れていた。
三十機。
P-39を中心とする迎撃隊だった。
日本軍の零戦がポートモレスビー上空へ入る。
その直後、空が一変した。
高度を取っていたエアラコブラが降ってくる。
零戦が散開した。
坂井は迫ってきた一機を見ながら操縦桿を倒す。
機体が鋭く傾いた。
敵機がそのまま通り過ぎる。
追わない。
もう一機いる。
坂井が機首を起こした直後、その横を別の零戦が抜けた。
西澤だった。
エアラコブラが急降下する。
西澤も追う。
だが敵は旋回戦には入らず、そのまま速度を使って離れていった。
「やけに数が多いな……それに攻撃の仕方が違う!」
坂井は呟いた。
以前とは違う。
零戦の旋回性能を知らずに付き合ってくる相手ではなくなりつつある。
その頃、第三基地の管制室では、京子たちが同じ空を見ていた。
大型画面にはニューギニア南東部の地形が映し出され、その上を複数の光点が激しく動いている。
京子が画面を見つめた。
「場所は?」
美希が座標を確認する。
「ポートモレスビーです。日本軍機十七、米軍機三十。多すぎますよ、すでに交戦しています」
「日本軍は?」
「ラエから出た台南海軍航空隊です」
その言葉に、幸雄が振り向いた。
「台南空?」
「そうみたい」
京子の表情が変わる。
「慎一さんを呼んで」
美希が立ち上がりかけた時、管制室の扉が開いた。
「聞こえてる」
慎一だった。
彼はそのまま画面へ近づく。
「今日は何日だ?」
「一九四二年五月十七日よ」
慎一の足が止まった。
「五月十七日……」
画面に表示された文字を見直す。
ニューギニア。 ラエ。 ポートモレスビー。
そして、台南海軍航空隊。
慎一の顔から、わずかに表情が消えた。
「搭乗員の名前は分かるか?」
美希が記録を呼び出す。
「全部は無理です。でも第二中隊に……中島正、西澤廣義、笹井醇一、太田敏夫……」
一度、画面をスクロールした。
「坂井三郎」
慎一が画面を見た。
「坂井三郎……」
知っている。 本で読んだ名前だった。
戦後まで生き、その体験を残した零戦乗り。
その男が今、画面の向こうで飛んでいる。
歴史の中の人物が今、生きている。
操縦桿を握り、敵と戦っている。
慎一は画面から目を離した。
「零戦を出してくれ」
京子が慎一を見る。
「行くんですね」
「ああ、流石に数が多過ぎる」
それだけ答えると、慎一は管制室を出た。
地下格納庫では、未来の技術を詰め込まれた零戦がすでに転送位置へ移されていた。
「ゼロちゃん、転送します」
機体の輪郭が揺れ、消える。
慎一が地上へ出ると、百メートルほど先の草地に零戦が待っていた。
走る。 主翼へ飛び上がり、操縦席へ滑り込む。
燃料、兵装、機関、異常なし。
栄改を始動すると、プロペラが回り、草が大きく伏せた。
空間磁気コイルを作動。零戦の機体が地面を離れる。
主脚を収めると同時に前へ出た。
翼が風を掴む。
慎一は機首を上げた。
「京子、誘導を頼む」
『了解。ポートモレスビーまで誘導します』
高度を取る。
通常の零戦なら、今から向かったところで間に合う距離ではない。
慎一は右手を伸ばした。
ブースターのスイッチを入れる。
低い唸りが機体を包み、次の瞬間、零戦が前へ押し出された。
速度計の針が跳ね上がる。栄改の二千馬力に、粒子加速噴射が加わる。
零戦は一気に南へ走った。
雲が後方へ流れていく。慎一は前だけを見ていた。
その頃、ポートモレスビー上空では戦闘が続いていた。
七マイル飛行場へ降下した零戦に、地上から五十口径機銃の火線が伸びる。
曳光弾が空を走った。
一機の零戦が機体を振る。
その後ろを別の零戦が抜けていく。
上空ではエアラコブラが高度を取り直し、再び攻撃の機会をうかがっていた。
西澤が一機を追う。敵は急降下。
零戦では追いつけない速度域へ逃げようとする。
西澤は追撃を切り上げ、機首を起こした。
その瞬間、別のエアラコブラが上から入った。
笹井の零戦が割り込む。
射撃。
敵機が機首を振って離脱する。
空のあちこちで同じことが繰り返されていた。
零戦は旋回では上回る。
だが米軍機は、もうその土俵へ簡単には入ってこない。
それでも台南空の搭乗員たちは食らいつく。
坂井が周囲を見回した。
味方の位置、敵の高度、地上から上がる対空砲火。
一瞬でも判断を誤れば終わる。
その時だった。
遠くの空に、小さな点が現れた。
坂井が目を細める。
零戦?
そう見えた、だがおかしい、速すぎるのだ。
こちらへ向かってくるその一機だけが、空の流れから外れていた。
あきらかに、零戦の速度ではない。
「なんだ……?」
西澤も気づいた。
見る間に大きくなる。
濃緑色の機体に日の丸。
間違いなく零戦だ。
だが、その零戦は彼らの知る零戦ではなかった。
慎一はブースターを切った。
急激に速度を落としながら戦場を見下ろす。
海岸線に沿って眼下にポートモレスビーの飛行場。
そして、空を埋める零戦とエアラコブラ。
京子の声が入った。
『到着しました。ポートモレスビー上空です』
「ああ、見えてる」
慎一は息を吐いた。
本の中の記録でもなく、ユウチュウブの映像でもない、
一九四二年五月十七日の空が、目の前にあった。
その中を、坂井三郎も、西澤廣義も、笹井醇一も飛んでいる。
「本当にいたんだな……」
慎一は小さく呟いた。
だが、感慨に浸っている暇はなかった。
上方から一機のエアラコブラが降りてくる。
狙われている零戦は、まだ気づいていない。
慎一の手が操縦桿を倒した。
零戦が翼を翻す。
「歴史見物に来たわけじゃない」
機首が下がる。
照準器の中へ、エアラコブラが入った。
慎一の零戦が、ポートモレスビーの戦いへ飛び込んだ。




