ハイパーコーティング
第三十六話 ハイパーコーティング
未来基地の格納区画は、いつもより静かだった。
零戦は照明の下に置かれていた。
外から見れば、ただの零戦だった。
古い塗装。
機体番号。
風に焼けたような外板。
左翼に残る補修痕。
三上慎一が乗っていた零戦。
そう言われれば、誰も疑わない姿のままだった。
慎一は、その前に立っていた。
何度も見た機体だった。
だが、見るたびに胸の奥が少し重くなる。
この機体は、自分のものではない。
三上慎一のものだ。
その男はもういない。
そして今、その名で空を飛んでいるのは、六十六歳の未来人である仲川一登だった。
慎一は、左翼に残る補修痕へ目を向けた。
薄く歪んだ塗装。
昔の傷。
何度見ても、ただの零戦だった。
「これは、消さなかったのか」
慎一が言うと、機体の下から幸雄が顔を出した。
手には工具を持っている。
作業服には、いつものように油汚れが付いていた。
「消せたぞ」
幸雄は短く答えた。
「なら、なぜ残した」
幸雄は工具を置き、左翼を見上げた。
少しだけ黙った。
「綺麗にしたら、別の機体になるだろ」
それだけだった。
慎一は返事をしなかった。
幸雄は説明を足さない。
ただ、主翼を軽く叩いた。
「外板はそのままだ」
コン、と乾いた音が響いた。
「上から何か貼ったわけじゃない」
「ハイパーコーティングか」
「ああ」
幸雄は頷いた。
「超超ジュラルミンの組織に、高分子浸透剤を染み込ませてある」
「染み込ませる?」
「そうだ」
幸雄は主翼を見た。
「塗る技術じゃない」
そして、少しだけ間を置いた。
「金属そのものを書き換える技術だ」
慎一は機体へ近づいた。
左翼の補修痕に手を伸ばす。
指先が触れる。
見た目も手触りも、古い零戦の外板そのものだった。
塗装の荒れもある。
補修痕も残っている。
どこを触っても昔の零戦だ。
だが、その内側だけが違う。
金属組織そのものが強化され、かつての超超ジュラルミンとは別物になっていた。
「こんなことができるなら、もっと綺麗にできただろう」
「できる」
「新品みたいにも?」
「できるな」
「なら、なぜやらなかった」
幸雄は面倒くさそうに鼻を鳴らした。
「新品にしたいなら、最初から新しく作ればいい」
慎一は黙った。
「これは、こいつだ」
幸雄は機体を軽く叩いた。
「傷も、歪みも、補修も、こいつが飛んできた記録だ」
幸雄は左翼の補修痕を見た。
「そこを削って綺麗にしたら、ただの高性能な零戦もどきになる」
慎一の目が、わずかに揺れた。
幸雄はそれを見ていないふりをした。
「まあ、俺の趣味だ」
そう言って、また機体の下へ潜った。
格納区画に工具の音が戻る。
慎一はしばらく、その場を動かなかった。
左翼の補修痕を見つめる。
三上慎一が残した傷。
整備兵が直した跡。
叱られた記憶。
飛ぼうとした若い男の痕跡。
慎一は知らない。
その時の三上慎一を。
だが、この機体は知っている。
この零戦だけが、本物の三上慎一を空へ運んでいた。
そして今は、自分を運んでいる。
「幸雄」
「なんだ」
「この機体は、どこまで耐える」
機体の下から声が返ってきた。
「普通の零戦とは比べるな」
幸雄の声は低かった。
「骨格は補強した」
「だが、本当に効いてるのはハイパーコーティングの方だ」
慎一は耳を傾けた。
「高分子浸透剤が、超超ジュラルミンの奥まで入り込んでる」
「だから強い」
「表面じゃない」
幸雄は言った。
「金属そのものがな」
幸雄は機体の下から出てきた。
手についた油を布で拭く。
「弾は全部防げない」
「どんな装甲でも限界はある」
「だが、穴が開いても裂けにくい」
「火も走りにくい」
「燃料系は特に手を入れた」
「そうか」
「ただし」
幸雄は慎一を見た。
「無茶すれば壊れる」
「零戦がか」
「違う」
幸雄は短く答えた。
「お前がだ」
慎一は何も言わなかった。
「機体は直せる」
「部品も作れる」
「だが、乗ってる奴が潰れたら終わりだ」
その言葉は乱暴だった。
だが、軽くはなかった。
慎一は操縦席へ視線を向けた。
三上慎一が座っていた席。
今は仲川一登が座る席。
京子が格納区画へ入ってきた。
後ろには美希とはるみもいる。
「出撃準備、完了してます」
慎一は振り返った。
京子は端末を開く。
「栄改、出力安定」
「ブースター系統、待機状態」
「レーダー正常」
「無線正常」
美希が続ける。
「高波長域レーザー、照準系正常です」
「レールガンも問題ありません」
はるみも頷いた。
「前回損傷箇所の補修も終わってます」
慎一は頷いた。
京子は少しだけ間を置く。
「武装の使用判断は、あなたに一任する」
その言葉だけだった。
使えとも、使うなとも言わない。
慎一は零戦を見た。
左翼の補修痕。
古い塗装。
傷だらけの外板。
見た目は変わらない。
だが、中身はもう違う。
それは、まるで自分のようだった。
三上慎一の姿をしている。
三上慎一の名で呼ばれる。
三上慎一の母が帰りを待っている。
だが、中にいるのは別の男だ。
慎一は零戦を見上げた。
機体の下で、反重力浮上装置が静かに起動する。
車輪が床からわずかに離れた。
この先へ送られるのは、零戦だけだ。
人間は物資転送に耐えられない。
転送先は決まっている。
かつて三上慎一が不時着し、息絶えた場所。
あの草むら。
そこは、零戦にとっての着陸点だった。
そして今は、離陸点でもあった。
傷を残したまま。
別物にならないまま。
金属の内側だけを未来へ進めた零戦が、淡い光に包まれる。
次の瞬間。
守護神と呼ばれる機体だけが、格納区画から消えた。




