見えない作戦
第三十三話 見えない作戦
米軍司令部の会議室には、重い空気が漂っていた。
長い机の上には、太平洋の海図が広げられている。
海図には赤と青の線がいくつも引かれ、要所には小さな駒が置かれていた。
空母。
巡洋艦。
駆逐艦。
輸送船団。
それらはただの駒ではない。
この海の上で動く、何千、何万という人間の命だった。
会議室に集まった将校たちは、誰も軽口を叩かなかった。
理由は一つ。
Phantom。
その名が、彼らの頭の片隅にこびりついていた。
先日の戦闘で、米軍は五十機近い航空隊を投入しながら、一機の零戦に翻弄された。
撃墜された機体は、およそ三十。
生還した搭乗員たちの証言は、どれも信じがたいものだった。
速すぎる。
旋回が異常だ。
撃っても当たらない。
そして、気づいた時には背後にいる。
報告書だけを読めば、悪夢の中の怪物の話にしか見えない。
だが、それは現実だった。
「Phantomについて、追加報告はあるか」
上座に座る司令官が静かに言った。
情報参謀が、手元の書類をめくる。
「現時点で、新たな出現は確認されていません。ただし、先の輸送船団攻撃における生存者の証言は、サッチ少佐の報告とほぼ一致しています」
室内に、わずかなざわめきが走った。
サッチ少佐の報告。
それは当初、極度の戦闘状態における誤認か、心理的混乱を含むものと見なされていた。
だが、今は違う。
別の部隊。
別の海域。
別の搭乗員。
それらが同じものを見ていた。
つまり、Phantomはいる。
「奴は、通常の零戦ではありません」
情報参謀が続けた。
「速度、上昇力、火力、すべてが既存の零戦を大きく上回っています。さらに、目撃証言の一部には、機体が消えた、あるいは突然別方向に現れた、というものもあります」
「幽霊か」
誰かが低く呟いた。
笑う者はいなかった。
司令官は海図を見たまま言った。
「幽霊であろうとなかろうと、我々の任務は変わらん」
その一言で、室内の空気が少し締まった。
「Phantomは脅威だ。だが、一機だ」
司令官は指で海図の一点を押さえた。
「奴がどれほど優れた機体であっても、同時に二つの場所には現れない。どこかで船団を守っているなら、別の場所は空く」
作戦参謀が頷いた。
「今回の主目標は、日本軍の前線補給線です。特に、この海域を通る輸送経路。ここを断てば、連中の航空隊と地上部隊は一気に苦しくなります」
青い鉛筆で、海図に細い線が引かれる。
その線は、目立たない。
だが、日本軍にとっては命綱だった。
燃料。
弾薬。
部品。
食料。
それらを運ぶ輸送船が通る海。
「日本軍は、我々がPhantomに気を取られていると考えるでしょう」
別の将校が言った。
「ならば、こちらはその逆を行く。Phantomを追わず、Phantomが守れない場所を叩く」
司令官はゆっくりと頷いた。
「航空部隊は分散投入する。大規模な無線通信は避けろ。命令は必要最小限。各隊は出撃直前まで最終目標を知らなくていい」
「無線封鎖ですか」
「そうだ。余計な通信はするな。Phantomの所在を探るために騒げば、こちらの意図も漏れる」
情報参謀が一瞬だけ眉を動かした。
「日本側に、高度な通信解析能力があると?」
司令官は答えなかった。
代わりに、机の上に置かれたPhantom関連の報告書を指先で軽く叩いた。
「常識では説明できない敵がいる。ならば、常識で安全だと思うものも、安全とは限らん」
その言葉に、会議室の誰も反論しなかった。
彼らはPhantomを恐れている。
だが、恐怖で止まるほど米軍は小さな組織ではなかった。
損害を受けても、次の作戦を組む。
失敗しても、別の手を打つ。
それが戦争だった。
「囮は使いますか」
作戦参謀が尋ねた。
「使う。ただし、派手にやりすぎるな。奴を誘い出すための囮ではない。日本軍の目を散らすための囮だ」
司令官の指が、別の海域を示した。
「こちらで小規模な牽制作戦を行う。日本軍には、そこが本命だと思わせる。だが本命はこっちだ」
海図の上で、二つの線が交差した。
表向きの作戦。
そして、隠された本命。
「攻撃隊は夜明け前に進出。低高度で接近し、哨戒機の網を避ける。発見される前に叩け」
「目標は輸送船団ですか」
「輸送船団だけではない」
司令官は冷たく言った。
「護衛艦、燃料集積、前線飛行場の補給施設。叩けるものは叩く。敵の飛行機を落とす必要はない。飛べなくすればいい」
室内が静まり返った。
これはPhantomへの復讐ではなかった。
もっと地味で、もっと恐ろしい作戦だった。
敵の英雄を倒すのではない。
英雄が守るべきものを削る。
日本軍の喉元を、少しずつ締める作戦だった。
「Phantomが現れた場合は?」
若い将校が尋ねた。
司令官は少しだけ顔を上げた。
「交戦を避けろ」
「避ける、ですか」
「そうだ。奴を撃墜しようとするな。相手をするな。任務を優先しろ。攻撃を終えたら散開して離脱。追われた機は捨て駒になる覚悟を持て」
若い将校の喉が動いた。
それがどういう意味か、彼にも分かった。
Phantomに捕まった者は助からない。
だが、その一機を追わせている間に、別の隊が目標を叩く。
冷酷だが、合理的だった。
司令官は全員を見渡した。
「忘れるな。我々の目的はPhantomを倒すことではない」
彼は海図の上、日本軍の補給線を指でなぞった。
「日本軍を倒すことだ」
その言葉で、会議は終わった。
将校たちは書類を閉じ、必要最小限の命令だけを持って部屋を出ていく。
廊下に出ても、誰も大きな声を出さなかった。
Phantom。
その名は、誰の口にも出ない。
だが全員の頭の中にあった。
それでも作戦は動き出す。
音もなく。
目立たず。
日本軍にも、未来基地にも、まだ見えない場所で。
数時間後。
夜明け前の暗い海上を、米軍機の編隊が低く飛んでいた。
無線は静かだった。
月明かりを避けるように、機体は雲の影を縫って進む。
彼らが目指す先には、日本軍の補給線がある。
その頃、日本軍はまだ気づいていなかった。
未来基地の美希も、異常な通信を拾えていなかった。
京子も、慎一も、幸雄も、はるみも知らなかった。
戦いは、彼らの見えない場所で始まっていた。
そしてその作戦は、米軍自身の予想を超えるほどの成功を収めることになる。




