守護神
第三十一話 守護神
輸送船団が生き残ったという報は、まず護衛駆逐艦から打たれた。
敵航空隊、約五十機。
当方船団、損害軽微。
敵機撃墜、約三十機。
報告を受けた司令部の参謀は、最初、その数字を読み間違えたのかと思った。
「撃墜三十?」
声に出してから、もう一度紙面を見る。
間違いではない。
しかし、続く一文を見て、彼はさらに眉を寄せた。
味方航空隊の護衛、なし。
「どういうことだ」
周囲の士官たちも集まってきた。
「護衛なしで敵機三十を撃墜?」
「駆逐艦の対空砲火か」
「いや、報告にはそう書かれていない」
参謀は読み上げた。
「撃墜の大半は、上空に現れた零戦一機によるものと認む」
部屋の空気が止まった。
誰もすぐには言葉を返せなかった。
「一機?」
「一機で三十機?」
「馬鹿な」
誰かがそう言った。
だが、報告は一通だけではなかった。
輸送船からも、油槽船からも、護衛駆逐艦からも、次々に同じ内容の報告が届いた。
上空に零戦一機。
敵編隊へ単独突入。
敵機多数を撃墜。
船団被害、軽微。
その証言は、どれも似ていた。
一機だった。
本当に一機だった。
敵だけが落ちた。
司令部の空気は、次第に疑念から困惑へ変わっていった。
その頃、護衛駆逐艦の艦橋では、艦長がまだ空を見上げていた。
空にはもう何もいない。
黒煙の筋も、風に流されて薄くなっている。
だが、彼の目にはまだ残っていた。
一機の零戦が、五十機の敵編隊へ向かっていった光景が。
「艦長」
副長が声をかける。
「報告文、これでよろしいでしょうか」
艦長は紙を受け取った。
敵機来襲。
船団危機。
味方零戦一機、敵編隊に突入。
敵三十機前後撃墜。
船団、航行継続可能。
艦長はしばらく黙っていた。
「これでは、誰も信じんだろうな」
副長は苦笑することもできなかった。
「ですが、事実です」
「そうだ。事実だ」
艦長は静かに頷いた。
「我々は見た」
艦橋の外では、乗組員たちがまだ興奮していた。
「あれは何だったんだ」
「零戦だろ」
「零戦があんな動きをするか」
「俺は見たぞ。敵の真ん中で消えた」
「消えたんじゃない。速すぎたんだ」
「どっちでもいい。俺たちは助かった」
誰かが言った。
「守護神だな」
その言葉に、周りが黙った。
そして、誰かが小さく頷いた。
「そうだな」
「輸送船団の守護神だ」
その呼び名は、甲板から甲板へ、船から船へと広がっていった。
あの一機がいなければ、船団は沈んでいた。
油槽船は燃え、弾薬船は吹き飛び、輸送船は海に沈んでいた。
だが、そうはならなかった。
一機の零戦が来た。
そして、敵を落とした。
それだけだった。
だが、それだけで十分だった。
司令部では、さらに詳細な聞き取りが始まっていた。
通信参謀が、護衛駆逐艦の報告を読み上げる。
「敵機多数来襲。船団対空戦闘準備中、上空に味方零戦一機を確認」
別の士官が続ける。
「同機、敵編隊に単独で突入。敵戦闘機、爆撃機、雷撃機を連続撃墜」
「味方機の損害は?」
「確認されず」
「燃料切れや被弾で不時着した可能性は」
「報告なし。同機は戦闘後、船団上空を通過し、翼を振って離脱」
「翼を振った?」
「はい」
部屋の中に、妙な沈黙が落ちた。
誰かが呟く。
「まるで礼を返したようだな」
その一言で、空気が少し変わった。
ただの兵器ではない。
ただの偶然でもない。
その一機には、意思があった。
船団を守る意思が。
参謀の一人が低く言った。
「例の機体か」
誰もが、その言葉の意味を理解した。
珊瑚海の戦闘で現れた謎の零戦。
米軍機を圧倒し、味方を救ったという不可解な報告。
一部の将兵の間で、すでに囁かれていた名。
Phantom。
米軍がそう呼んでいるらしい、幽霊のような零戦。
だが日本側の士官は、その名を口にするのを少し躊躇った。
幽霊。
悪夢。
怪物。
それは、敵が恐れて呼ぶ名だ。
彼らが見たものは違った。
少なくとも、船団の者たちにとっては違う。
参謀は報告書を机に置いた。
「米軍は、これをPhantomと呼ぶかもしれん」
彼は少しだけ間を置く。
「だが、我々にとっては違う」
周囲の士官が顔を上げる。
参謀は静かに言った。
「これは守護神だ」
その言葉は、司令部の中に不思議な重さで落ちた。
誰も笑わなかった。
敵機五十に対し、一機。
それだけなら荒唐無稽な話だ。
だが、船団は生きている。
燃料も弾薬も食料も、前線へ向かっている。
結果がすべてを物語っていた。
その一機は、確かに戦場に現れた。
そして、船団を守った。
一方、補給船団の上では、日が傾き始めていた。
船員たちは、まだ空を見上げている。
もう敵機はいない。
零戦もいない。
ただ、夕暮れの空だけが広がっている。
若い見張り員は、手すりに寄りかかりながら、さっきの光景を思い出していた。
敵機が五十。
味方は一機。
誰もが終わりだと思った。
だが、その一機は逃げなかった。
敵へ向かった。
そして勝った。
「俺、帰ったら話すんだ」
隣の水兵が言った。
「何を」
「あの零戦のことだよ。五十機相手に一機で突っ込んだって」
若い見張り員は苦笑した。
「誰も信じないぞ」
「だろうな」
二人は少しだけ笑った。
だが、その笑いは馬鹿にするものではなかった。
信じられない。
だが、見た。
その矛盾が、胸の中でまだ熱を持っていた。
やがて、船団は再び航行を続けた。
油槽船の煙突から煙が上がる。
輸送船の船腹が波を切る。
駆逐艦が周囲を守る。
何もなかったように、船団は進んでいる。
だが、何もなかったわけではない。
その日、その海で一つの伝説が生まれた。
一機の零戦が、五十機の敵編隊から補給船団を守った。
米軍はそれを悪夢と呼んだ。
Phantom。
だが、日本の船乗りたちは違う名で呼んだ。
守護神。
その名は、南方の海を渡り、やがて前線の将兵たちの間へ広がっていくことになる。
そして誰もが、空を見上げるたびに思うようになる。
もしあの一機が来てくれたなら。
まだ、自分たちは生き残れるかもしれない、と。




