悪夢の始まり
第三十話 悪夢の始まり
米軍機動部隊の空母では、出撃前のブリーフィングが行われていた。
作戦内容は単純だった。
日本軍の補給船団を発見し、位置を確認する。
可能ならば攻撃する。
護衛機も多めにつけられていた。
理由は、例の噂だった。
「Phantom、ね」
若い操縦士の一人が鼻で笑った。
「幽霊零戦とは、日本人は怪談が好きらしい」
数人が笑った。
別の男が肩をすくめる。
「零戦一機が編隊を崩した? そんな話を本気で信じろってのか」
「サッチ少佐の報告書に出ている」
情報将校が言った。
だが、操縦士たちの顔にはまだ余裕があった。
「少佐は慎重な人だ。慎重すぎるくらいにね」
「見間違いだろう」
「戦場ではよくある。火を噴いた味方を見て、敵が十機に見えることもある」
「もし本当に出たら?」
誰かが冗談めかして言った。
若い操縦士は笑った。
「その時は幽霊退治だ」
部屋に軽い笑いが起きた。
出撃前の緊張をごまかす笑いだった。
誰も本気ではなかった。
五十機近い編隊。
F4Fワイルドキャット。
SBDドーントレス。
TBDデバステーター。
単機の零戦など、包囲して撃ち落とせる。
少なくとも、彼らはそう信じていた。
やがて、編隊は発艦した。
太平洋の空は明るかった。
視界は良好。
雲は少ない。
索敵には悪くない日だった。
そして彼らは、日本軍の補給船団を発見した。
「輸送船団確認!」
「油槽船らしき艦影あり!」
「座標を送れ!」
任務は順調に進んでいるように見えた。
その時、一人が叫んだ。
「上空に単機!」
「零戦か?」
「そう見える」
「例のPhantomか?」
誰かが笑った。
「ちょうどいい。噂の幽霊を見てやろう」
その数分後。
その笑いは、完全に消えた。
帰還した機体が空母へ降り始めた時、甲板上の整備兵たちは首を傾げた。
戻ってきた機体は、思ったほど傷んでいなかった。
主翼に大穴が開いているわけではない。
胴体が蜂の巣になっているわけでもない。
燃料漏れも少ない。
むしろ、外から見れば無事に帰ってきた機体が多かった。
だが、数が足りない。
明らかに足りない。
整備兵の一人が着艦したF4Fに駆け寄った。
操縦席から降りてきた若い操縦士は、顔色を失っていた。
「おい、どうした」
整備兵が声をかける。
「機体は大してやられてないじゃないか」
操縦士は答えなかった。
ヘルメットを外そうとして、手が震えた。
留め具がうまく外れない。
整備兵が代わりに外してやる。
「おい、しっかりしろ。何があった」
操縦士は、しばらく甲板を見つめていた。
そして、ようやく口を開いた。
「ジャックが落ちた」
「何?」
「マイクも、ハリーも、ビルも……みんな落ちた」
整備兵は言葉を失った。
周囲でも同じような光景が起きていた。
機体は無事なのに、搭乗員が壊れている。
怒鳴る者はいない。
勝利を叫ぶ者もいない。
ただ、青ざめた顔で空母の甲板に立ち尽くしている。
やがて、帰還機の数が集計された。
出撃、五十機。
帰還、二十機。
未帰還、三十機。
航空隊長室に生還者が集められた。
部屋の空気は重かった。
机の上には、出撃名簿と未帰還者の一覧が置かれている。
航空隊長は、しばらくその数字を見つめていた。
そして、顔を上げる。
「敵機の数は」
誰もすぐには答えなかった。
やがて、一人の操縦士が言った。
「一機です」
航空隊長は眉を寄せた。
「もう一度言え」
「敵機は、一機でした」
「日本軍の戦闘機隊ではないのか」
「違います」
「艦隊の対空砲火か」
「違います」
「護衛の零戦隊か」
「いいえ」
「では、何に三十機も落とされた」
沈黙が落ちた。
誰も言いたくなかった。
言えば、自分が狂っているように聞こえるからだ。
だが、言わなければ説明がつかない。
操縦士は唇を震わせた。
「Phantomです」
その名が出た瞬間、部屋の空気が変わった。
出撃前に笑っていた名前。
幽霊零戦。
噂話。
戦場の誇張。
そのはずだった。
情報将校が静かに口を開いた。
「目標の機体識別は」
「零戦に見えました」
「型式は」
「分かりません」
「武装は」
「分かりません」
「速度は」
「分かりません」
航空隊長の顔が険しくなる。
「分からないばかりでは報告にならん」
操縦士は顔を上げた。
目だけが血走っている。
「見えないんです」
「何?」
「撃とうとした時には、もうそこにいませんでした」
別の生還者が続けた。
「囲んだはずでした」
「だが、囲まれたのは我々でした」
さらに別の男が言う。
「右にいたと思ったら、次の瞬間には後ろにいました。ハリーが燃えました。無線で呼んでも返事がない。振り返ると、もう海へ落ちていました」
「我々は散開しました」
「散開した機から落とされました」
「密集すれば射線が塞がれました」
「逃げようとした機は見逃されました。だが船団へ向かった機は落とされました」
情報将校の目が細くなった。
「船団へ向かった機だけ?」
「はい」
その証言で、部屋の中に別の緊張が走った。
単なる怪物ではない。
動きに意図がある。
Phantomは、輸送船団を守っていた。
航空隊長は机に置かれた報告書へ目を落とした。
「出撃前に、サッチ少佐の報告を読んだ者はいるか」
誰も答えなかった。
数人が気まずそうに目を伏せる。
彼らは読んでいた。
だが信じてはいなかった。
情報将校は棚から一冊の報告書を取り出した。
表紙にはサッチ少佐の署名がある。
彼はページをめくり、ある記述を読み上げた。
「対象は通常航空機の性能を超える」
誰も笑わなかった。
「追跡は推奨しない」
部屋の中に、艦の機関音だけが響いた。
「単独であっても、通常戦闘機として扱うべきではない」
情報将校はそこで報告書を閉じた。
「証言は一致しています」
航空隊長は低く言った。
「つまり、サッチの報告は正しかったと」
「はい」
「我々は、五十機で出て、二十機しか戻らなかった」
「はい」
「敵は一機」
「はい」
航空隊長は椅子に深く座った。
しばらく何も言わなかった。
部屋にいる者たちは、彼が怒鳴ると思っていた。
臆病者。
見間違い。
混乱。
そう言われると思っていた。
だが、航空隊長は怒鳴らなかった。
怒鳴れる状況ではなかった。
帰還した二十人の証言は、細部まで一致していた。
そして未帰還三十機という数字は、何よりも雄弁だった。
やがて彼は口を開いた。
「Phantomは実在する」
その一言で、部屋の中の何かが決定的に変わった。
それまで、Phantomは噂だった。
恐怖が生んだ幻だった。
しかし今、それは軍事上の脅威になった。
情報将校が静かに言った。
「上層部へ緊急報告を上げます」
「文面は」
航空隊長は、机の上の名簿を見た。
三十人の名前。
戻らなかった者たち。
そして、かつて笑っていた若い操縦士の顔を思い出した。
幽霊退治だ、と言った男は帰ってこなかった。
航空隊長は低く答えた。
「Phantomとの交戦を確認」
情報将校がペンを取る。
「続けてください」
「敵機一機により、航空隊は壊滅的損害」
「はい」
「対象は通常零戦に非ず」
航空隊長は少しだけ間を置いた。
「以後、Phantomを確認した場合、単独追跡を禁ずる」
部屋の誰も反論しなかった。
窓の外では、夕方の海が赤くなり始めていた。
甲板では整備兵たちが帰還機を点検している。
機体はほとんど無傷だった。
だが、その機体で帰ってきた者たちの目は、もう出撃前の目ではなかった。
出撃前、彼らは笑っていた。
幽霊などいるものかと。
だが今、笑う者はいない。
彼らは見た。
一機の零戦が、五十機の編隊の中で消え、現れ、仲間を次々と海へ落としていく光景を。
そして理解した。
あれは噂ではない。
幻でもない。
Phantomは、確かに空にいた。




