五十対一
第二十九話 五十対一
その日、輸送船団の見張り員だった若い水兵は、南方の海を見ていた。
海は穏やかだった。
青い。
ただ青い。
それが余計に不気味だった。
戦場の海は、静かな時ほど怖い。
波の音だけが聞こえる時ほど、何かが来る。
彼はそう教えられていた。
船団は、ゆっくりと進んでいる。
輸送船。
油槽船。
弾薬を積んだ貨物船。
それを護衛する駆逐艦が数隻。
華々しい艦隊ではない。
だが、この船団が沈めば、前線は困る。
燃料が届かない。
弾薬が届かない。
米が届かない。
戦う前に、人も機械も腹を空かせる。
だからこそ、彼らは運んでいた。
ただ運ぶために、海を進んでいた。
「右舷前方、異常なし」
見張り員は声を上げた。
喉が乾いている。
暑い。
だが、気を抜くわけにはいかない。
その時だった。
水平線の少し上に、黒い点が見えた。
一つではない。
二つ。
いや、違う。
増えている。
「……敵機?」
彼は目を凝らした。
黒い点が、空に広がっていく。
十。
二十。
三十。
数えようとして、途中でやめた。
多すぎる。
「敵機発見!」
声が裏返った。
「敵機多数! 右舷前方!」
甲板が一瞬で騒がしくなった。
伝声管へ怒鳴る声。
機銃座へ走る兵。
艦橋から飛ぶ命令。
「対空戦闘用意!」
「総員配置!」
「弾薬急げ!」
だが、遅い。
敵はすでにこちらを見つけている。
彼には分かった。
あれはただの哨戒機ではない。
大編隊だ。
空を埋めるほどではないが、この船団を沈めるには十分すぎる。
護衛駆逐艦の高角砲が動き始める。
機銃が空へ向く。
だが、敵機の数が多すぎる。
彼は喉の奥が冷たくなるのを感じた。
終わった。
そう思った。
この船団は、燃える。
油槽船に火がつけば海まで燃える。
弾薬船に直撃すれば、船ごと消える。
そういう話を、彼は聞いたことがあった。
聞いたことがあるだけだった。
だが今、その話が自分の頭上から降ってこようとしている。
「上空!」
別の見張り員が叫んだ。
彼は反射的に空を見上げた。
船団の上空を、一機の零戦が飛んでいた。
一機。
たった一機。
緑の機体。
白い日の丸。
低く唸るエンジン音。
その零戦は、船団の上を一度旋回した。
まるで、こちらを確認するように。
「味方機だ!」
誰かが叫んだ。
だが、彼は喜べなかった。
一機ではどうにもならない。
敵は五十機近い。
たった一機の零戦がどうにかできる数ではない。
艦橋でも同じことを思っていた。
護衛駆逐艦の艦長は、双眼鏡を握ったまま低く言った。
「一機だけか」
副長が答える。
「はい。周囲に味方編隊は確認できません」
「無茶だ。退避させろ」
その時、無線員が顔を上げた。
「米軍の無線を傍受。敵は本機を確認した模様」
「本機?」
「いえ、あの零戦です」
艦長は眉を寄せた。
無線員は続けた。
「敵通信内で、妙な呼称が出ています」
「何だ」
「Phantom、と」
艦長はその言葉を知らなかった。
だが、敵の通信の慌て方だけは分かった。
米軍編隊は、船団だけを見ているのではない。
あの一機の零戦を見ている。
空の上では、米軍機が散開を始めていた。
F4Fワイルドキャット。
SBDドーントレス。
TBDデバステーター。
偵察機を護るための編隊ではない。
船団を攻撃し、なおかつ例の幽霊零戦に備えるため、多めに出された航空隊だった。
彼らは輸送船団を発見した。
そして同時に、もう一つのものを見つけた。
Phantom。
「見つけたぞ!」
「単機だ!」
「逃がすな!」
「全機、包囲!」
「輸送船団の座標を送れ!」
米軍機が動く。
一部は船団へ。
一部は零戦へ。
数の差は圧倒的だった。
一方、慎一は上空で小さく息を吐いた。
「しゃあないな」
本来なら、逃げられる。
ブースターを吹かせば、敵は追いつけない。
単独で離脱するだけなら簡単だ。
だが、下には補給船団がいる。
あの船たちは逃げられない。
補給船団の位置を持ち帰られれば、後で大きな攻撃が来る。
今ここで攻撃に移られれば、船団そのものが消える。
慎一は操縦桿を握り直した。
昨日の夢が、まだ胸の奥に残っている。
味噌汁の匂い。
古い柱。
雄一の写真。
そして、三上雪乃の声。
慎一は慎一になりなさい。
慎一は口元だけで笑った。
「悪いな、雪乃さん」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
「今日は少し荒っぽくなる」
通信機が鳴る。
京子の声だった。
「慎一さん、敵機五十前後。ブースターで離脱してください」
「離脱したら、あの船団がやられる」
「ですが」
「俺だけ逃げるわけにもいかんだろ」
通信の向こうで、京子が黙った。
それは、反対できない沈黙だった。
幸雄の声が割り込む。
「おい慎一。本気でやるのか」
「やるしかない」
「相手は五十機だぞ」
「全部は落とさん」
「お前の場合、その言葉が一番怖い」
慎一は少しだけ笑った。
「半分以上落とせば帰るだろ」
「発想がおかしいんだよ」
慎一はスロットルを押し込んだ。
零戦の機首が敵編隊へ向く。
その動きを見て、輸送船団の見張り員は息を呑んだ。
「あの零戦……」
誰かが呟いた。
「敵に向かっていくぞ」
艦長も見ていた。
双眼鏡の中で、一機の零戦が五十機の敵編隊へ向かっていく。
正気ではない。
だが、その機体は迷っていなかった。
最初のF4Fが撃った。
曳光弾が空を裂く。
見張り員は思わず目を閉じそうになった。
当たる。
そう思った。
だが、零戦は弾道の隙間を滑るように抜けた。
直後、あり得ない角度で上昇する。
「消えた?」
見張り員は叫んだ。
次の瞬間、F4Fの上から零戦が降ってきた。
一瞬だけ光が走る。
F4Fの主翼の付け根が白く弾けた。
機体が火を噴く。
落ちる。
一機目。
甲板が静まり返った。
誰も歓声を上げなかった。
何が起きたのか分からなかったからだ。
「……落とした?」
見張り員が呟く。
その間に、二機目が落ちた。
三機目。
四機目。
米軍編隊が乱れる。
零戦は、敵の中へ入り込んでいた。
囲まれたのではない。
自分から入ったのだ。
敵の数が多いほど、互いの射線が邪魔になる。
F4Fが撃てば、味方のF4Fが射線に入る。
SBDが降下姿勢を取ろうとすれば、零戦はその腹の下へ潜る。
TBDは鈍い。
重い雷撃機など、慎一の零戦改には止まって見えた。
「遅い」
慎一は短く言った。
引き金。
TBDのエンジンが吹き飛ぶ。
次。
SBDの尾翼が裂ける。
次。
F4Fが火を噴く。
撃墜数は増えていった。
五機。
八機。
十機。
輸送船団の上で、声が上がり始める。
「また落ちた!」
「敵だ! 敵が落ちてる!」
「あの零戦、何者だ!」
見張り員は、もう双眼鏡を下ろせなかった。
彼は見ていた。
一機の零戦が、空の中を切り裂いていく。
まるで見えない線の上を走っているようだった。
敵機の背後へ回る。
下へ潜る。
上へ抜ける。
一瞬消えたように見えたと思えば、次の瞬間には別の敵機の尾にいる。
「人間の動きじゃない」
彼はそう呟いた。
艦長も同じものを見ていた。
「本当に、一機なのか」
副長が答えられない。
機銃座の兵たちも、撃つことを忘れかけていた。
敵機はまだ多い。
だが、船団へ向かってくる機体は、ことごとくあの零戦に落とされている。
護衛駆逐艦の砲火が届く前に、敵が減っていく。
「艦長」
副長が言った。
「対空射撃、続行しますか」
艦長は一瞬迷った。
下手に撃てば、あの零戦の邪魔になる。
「船団へ近づく敵だけを撃て」
「はっ」
艦長は双眼鏡を握り直した。
「味方機に当てるな。絶対にだ」
空では米軍の恐慌が始まっていた。
「Phantomを見失った!」
「右だ!」
「違う、上だ!」
「味方に当たる!」
「散開しろ!」
「散開したら狙われる!」
「どこにいる!」
彼らは数で勝っていた。
だが、その数が邪魔をしていた。
五十機は、空を支配するはずだった。
だが今、その空は一機の零戦に支配されている。
慎一は敵の指揮機を探した。
補給船団の位置を送る機体。
攻撃隊をまとめる機体。
それを落とさなければ、何度でも狙われる。
「どれだ」
慎一は目を細めた。
F4F二機に守られたSBDがいる。
動きが違う。
あれだ。
慎一は機首を下げた。
護衛のF4Fが割り込む。
慎一は撃たない。
わずかに滑る。
一機目の下を抜ける。
二機目が旋回する前に、すでに背後へ回っている。
引き金。
F4Fが燃える。
続けて二機目。
護衛が消える。
SBDが逃げようとする。
遅い。
照準。
発射。
胴体中央が白く光り、SBDは火を噴いた。
「指揮機撃墜」
美希の声が通信に入る。
「敵編隊、統制低下」
幸雄が呆れたように言った。
「お前、ほんとに空で機械修理してるみたいに敵を外していくな」
「邪魔な部品から外すだけだ」
「戦闘機を部品扱いするな」
慎一は答えなかった。
次の敵が来ていた。
十五機。
二十機。
二十五機。
海面には黒煙が増えていく。
米軍機が落ちるたびに、輸送船団の甲板から声が上がる。
最初は恐怖だった。
次に驚きになった。
そして今は、祈りに近い歓声になっていた。
「行け!」
誰かが叫んだ。
「やれ!」
「そこだ!」
「落とせ!」
見張り員も、気づけば拳を握っていた。
さっきまで死を覚悟していた。
だが今、自分たちは空を見上げていた。
たった一機の零戦を。
味方の一機を。
守護神のように。
慎一は短くブースターを吹かせた。
零戦が視界から消える。
追っていたF4Fの操縦士は、目標を失った。
「消えた!」
次の瞬間、慎一はその背後にいた。
「消えたんじゃない」
引き金。
「移っただけだ」
F4Fが爆ぜた。
米軍編隊は限界だった。
「撤退!」
「撤退だ!」
「これ以上は無理だ!」
「輸送船団の座標は!」
「送れません! 通信機がやられた!」
「Phantomが来る!」
残った機体がばらばらに逃げ始める。
慎一は追わなかった。
補給船団から離れる方向へ逃げる機体は、そのままにする。
だが、なお船団へ向かう機体は許さない。
一機。
二機。
三機。
最後の一機が黒煙を引いて海へ落ちた時、空にはようやく静けさが戻った。
通信機から京子の声がした。
「慎一さん、敵機は撤退。補給船団への脅威は消失しました」
「撃墜数は」
美希が少し間を置く。
「概算、三十機」
幸雄が息を吐いた。
「本当に半分以上落としやがった」
慎一は疲れたように笑った。
「帰ってくれて助かった」
「どの口で言ってる」
慎一は旋回し、補給船団の上空へ戻った。
船団の甲板には、人が溢れていた。
帽子を振る者。
手を振る者。
呆然と立ち尽くす者。
泣いている者もいた。
護衛駆逐艦の艦橋では、艦長が直立していた。
そして、静かに敬礼した。
慎一は少し迷った。
それから、翼を軽く振った。
輸送船団から、歓声が爆発した。
風防越しに、その姿が見える。
声は聞こえない。
だが、伝わった。
彼らは生き残った。
慎一は小さく呟いた。
「これでいい」
一瞬だけ、夢の中の朝がよぎる。
雪乃の味噌汁。
雄一の写真。
慎一の箸。
帰る場所。
慎一は操縦桿を握り直した。
「帰るぞ」
京子の声が返る。
「はい。帰ってきてください」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
慎一は苦笑した。
「分かってる」
零戦は機首を未来基地へ向けた。
空にはまだ、黒煙の筋がいくつも残っていた。
その日、輸送船団の者たちは、一生忘れられない光景を見た。
一機の零戦が、五十機の敵編隊へ向かっていった。
誰もが、その零戦は撃ち落とされると思った。
だが海へ落ちたのは、敵機だけだった。
後に、船団の乗組員たちはその機体をこう呼んだ。
輸送船団の守護神。
だが米軍が呼んだ名は、別だった。
Phantom。
珊瑚海の空に現れた、二度目の悪夢だった。




