待つ人
第二十七話 待つ人
三上雪乃は、朝早くから台所に立っていた。
かまどの火はまだ弱い。
小さく割った薪をくべると、ぱち、と乾いた音がした。
湯気が上がる。
鍋の中では味噌汁が静かに温まっていた。
家の中は、いつもより少し広く感じる。
慎一がいないからだ。
あの子が海軍航空隊へ行ってから、家の音が減った。
朝に廊下を歩く足音も、庭で顔を洗う水の音も、飯をかき込む音もない。
それでも雪乃は、いつも通り朝食を作る。
一人分。
本当は、それだけでいい。
けれど、つい二人分作りそうになる。
「……いけませんね」
雪乃は小さく笑った。
鍋の蓋をずらし、味噌を溶く。
その手つきは慣れている。
若くして夫の雄一を亡くしてから、雪乃はずっとこの家を守ってきた。
慎一がまだ小さかった頃は、泣く暇もなかった。
泣いている間に飯を作らねばならない。
泣いている間に洗濯をしなければならない。
泣いている間に、慎一は腹を空かせる。
だから雪乃は泣くことを後回しにした。
後回しにしているうちに、いつしか人前では泣けなくなった。
雪乃は長い髪を後ろで一つに結んだ。
ただ邪魔だからだ。
炊事をするにも、洗濯をするにも、髪が落ちてくると面倒だった。
鏡を見る。
白い肌。
きめの細かい頬。
年齢より若く見える顔。
雪乃にとっては、それはただの顔だった。
人から褒められても、どう返せばいいのか分からない。
昔、雄一だけは言ってくれた。
「雪乃は、笑うと春みたいだな」
その時だけは、少し嬉しかった。
今でも、その言葉だけは忘れられない。
雪乃は鏡から目を離した。
仏間へ行き、小さな写真立ての前に座る。
そこには若い頃の雄一が写っていた。
口数は少ないが、よく笑う人だった。
「あなた」
雪乃は静かに手を合わせた。
「慎一は、立派に行きましたよ」
写真の中の雄一は、何も答えない。
それでも雪乃は続けた。
「少し、あなたに似てきました」
そう言って、雪乃は少しだけ微笑んだ。
慎一は父に似ている。
目元も、黙っている時の横顔も。
でも、時々妙に頑固なところは雪乃に似たのかもしれない。
玄関の方から声がした。
「雪乃さん、起きてるかい」
近所の女の声だった。
雪乃は立ち上がり、玄関へ向かった。
戸を開けると、隣家のおかみが籠を持って立っていた。
「おはようございます」
「おはよう。これ、少しだけど茄子を持ってきたよ」
「まあ、ありがとうございます」
雪乃は丁寧に頭を下げた。
「慎一さんから、便りはあったかい」
その言葉に、雪乃の手が少しだけ止まった。
けれど、顔には出さない。
「いいえ。まだです」
「そうかい。でも便りがないのは無事な証拠って言うからねえ」
「ええ」
雪乃は静かに頷いた。
「そうですね」
おかみは雪乃の顔を見て、少しだけ声を落とした。
「雪乃さん、あんたも無理しちゃいけないよ。まだ若いんだから」
雪乃は困ったように笑った。
「大丈夫です」
「村田の旦那がまた言ってたよ。雪乃さんさえよけりゃ、ちゃんと面倒を見るって」
雪乃は、少しだけ目を伏せた。
村田という男は、この辺りでは金のある商家の主人だった。
悪い人間ではない。
だが雪乃は、その名を聞くたびに、胸の奥が少し冷える。
「ありがたいお話です。でも、私は……」
そこまで言って、雪乃は言葉を止めた。
おかみは分かっているように、小さく息を吐いた。
「あんたは本当に、雄一さん一筋だねえ」
雪乃は答えなかった。
ただ、少しだけ笑った。
おかみはそれ以上言わなかった。
「まあ、茄子、食べておくれ」
「ありがとうございます」
戸を閉める。
家の中に戻ると、また静かになった。
雪乃は籠の中の茄子を見た。
慎一は焼き茄子が好きだった。
醤油を少しかけて、熱い熱いと言いながら食べる。
「帰ってきたら、作ってあげましょう」
雪乃はそう呟いた。
自分に言い聞かせるような声だった。
戦地がどこなのか、雪乃は詳しく知らない。
海軍航空隊。
零戦。
南方。
新聞には勇ましい言葉が並ぶ。
皇軍の快進撃。
敵機撃墜。
御国のために。
その文字を見るたびに、雪乃は胸がざわついた。
立派でなくてもいい。
手柄など立てなくてもいい。
ただ、生きて帰ってくればいい。
そう思うことは、母として間違っているのだろうか。
雪乃は新聞を畳んだ。
その時、遠くで飛行機の音がした。
雪乃は思わず外へ出た。
空は青い。
小さな機影が、遠くを横切っていく。
海軍機ではないかもしれない。
慎一が乗っているわけでもない。
それでも雪乃は、空を見上げた。
「慎一……」
名前を呼ぶ。
風に消えるほど、小さな声だった。
あの日。
慎一が家を出た日のことを、雪乃は何度も思い出す。
「慎一。御国のために頑張ってくるんだよ。何があっても死ぬんじゃないよ」
自分で言っておきながら、御国のためという言葉が、どこか遠く感じた。
本当は違った。
御国よりも、何よりも。
ただ、生きて帰ってほしかった。
「はい。何があっても生きて帰ります。待っていてください。お母さん」
慎一はそう言った。
あの子は嘘をつく子ではない。
だから、きっと帰ってくる。
雪乃はそう信じている。
信じるしかなかった。
家の奥へ戻ると、雄一の写真が見えた。
雪乃はもう一度、仏間に座る。
「あなた」
声が少しだけ震えた。
「慎一を、守ってください」
写真の中の雄一は笑っている。
若い日のまま。
雪乃の中では、雄一は今でもそのままだ。
時は進んだ。
慎一は大きくなった。
雪乃は四十になった。
それでも雄一だけは、写真の中で止まっている。
雪乃は写真立ての縁を指で拭いた。
そこに少しだけ埃がついていた。
「私、まだ待っています」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
雄一を。
慎一を。
それとも、もう戻らない日々を。
外ではまた、飛行機の音が遠ざかっていく。
雪乃は顔を上げた。
その空の遥か向こうで、三上慎一の名を持つ零戦が、すでに何度も死線を越えていることを、雪乃は知らない。
本当の慎一が、もうこの世にいないことも知らない。
そして今、その体に別の男が宿り、彼女の息子の名で空を飛んでいることなど、知る由もなかった。
雪乃にとって慎一は、今もただ一人の息子だった。
帰ってくると約束した息子だった。
雪乃は立ち上がった。
台所へ戻る。
味噌汁が少し煮詰まりかけていた。
「いけませんね」
雪乃は火を弱めた。
いつもの朝が続いていく。
息子のいない朝。
それでも息子を待つ朝。
雪乃は食卓に一人分の膳を置いた。
けれど、箸立ての中には、慎一の箸もそのまま入っている。
捨てる理由など、どこにもなかった。
その箸を見て、雪乃は静かに微笑んだ。
「帰ってきたら、ちゃんと叱らないと」
何を叱るのかは分からない。
でも、そう言えば少しだけ気が楽になった。
家の外では、風が洗濯物を揺らしていた。
雪乃は今日も待っている。
まだ届かない知らせを知らぬまま。
息子の帰りを信じて。




