生きて帰った者たち
第二十四話 生きて帰った者たち
太陽は、ほとんど水平線の向こうへ沈んでいた。
海は赤から黒へ変わり始めている。
その薄闇の中へ、四機のP-40が帰ってきた。
空母の甲板には、すでに着艦誘導の灯りが点っている。
一機目が降りる。
ワイヤーを掴み、機体が大きく揺れた。
二機目。
三機目。
そして最後の四機目。
全機、戻ってきた。
致命的な損傷はない。
だが、操縦席から降りた男たちは、誰一人として勝者の顔をしていなかった。
「全機帰還か」
甲板士官が言った。
「日本機二機を追っていたはずだろう」
誰も答えない。
やがて、隊長機の操縦士がヘルメットを外した。
顔には汗が張りついている。
夕暮れの冷たい風の中でも、その汗は引いていなかった。
「報告は艦長へ直接行う」
その声だけが、妙に乾いていた。
艦内の作戦室には、重い空気が流れていた。
P-40隊の四人は並んで立っている。
艦長は椅子に座ったまま、最後まで報告を聞いた。
「後方より、零戦一機が高速で接近」
隊長は言った。
「当隊は、Phantomの可能性ありと判断。追撃中だった日本軍機二機への攻撃を中止。散開し、交戦を回避しました」
艦長は表情を変えない。
「その結果、日本軍機二機は離脱。当隊四機、損害なし」
報告が終わった。
作戦室は静まり返った。
艦長はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「損害なし、か」
隊長は答えない。
艦長は机の上に置かれた報告書へ目を落とした。
「君たちは、二機の零戦を追っていた」
「はい」
「そのうち一機は被弾していた」
「はい」
「撃墜は時間の問題だった」
「……はい」
艦長は顔を上げた。
「そこへ、後方から一機の零戦が現れた」
「はい」
「君たちはPhantomの可能性ありと判断し、散開した」
「はい」
艦長の声は荒くない。
だが、その静けさが余計に重かった。
「では聞こう」
隊長の喉が小さく動いた。
艦長は言った。
「もし本当にそれがPhantomだったなら、君たちはなぜ生きている」
誰も答えなかった。
四人のP-40乗りは、互いの顔を見なかった。
見れば、自分と同じ疑問がそこにあると分かっていたからだ。
艦長は続けた。
「Phantomは噂だけではない。何度か報告が上がっている。異常な速度で現れ、通常の零戦では不可能な機動を行う。そうだな」
「はい」
「ならば、君たちはなぜ戻れた」
隊長は拳を握った。
答えはなかった。
ただ、あの時の光景だけが頭の中に残っている。
何かが後方から来た。
最初は別の機体だと思った。
だが、見えたのは零戦だった。
ただの零戦だった。
「……零戦でした」
隊長が呟いた。
艦長は目を細める。
「何?」
「何が来たのかと思いました。ですが、見えたのはただの零戦でした」
作戦室の誰もが黙って聞いている。
隊長は続けた。
「ただ、分かりません」
「何がだ」
「何故あんなに速く近づいたのか、説明できません」
別の操縦士が言った。
「自分も見ました。零戦です。形は間違いなく零戦でした」
若い操縦士が唇を噛む。
「でも、あんな速さの零戦はありません」
隊長は艦長を見た。
「自分は、撃たれると思いました」
艦長は黙っている。
「奴は、撃てました」
その言葉に、作戦室の空気が変わった。
「どういう意味だ」
「自分の後ろに入りました。撃てる位置です」
「だが撃たれなかった」
「いえ」
隊長は首を振った。
「撃たれました」
艦長の眉が動く。
「被弾はない」
「当てなかったんです」
沈黙。
隊長は低く言った。
「あれは外したんじゃありません。外されたんです」
艦長は報告書を閉じた。
「君は、Phantomが意図的に見逃したと言いたいのか」
「分かりません」
隊長は答えた。
「ですが、自分は今、ここにいます」
その言葉だけが、作戦室に残った。
艦長はしばらく何も言わなかった。
やがて、短く命じた。
「この件は上へ上げる」
四人は敬礼した。
艦長は最後にもう一度だけ言った。
「次にその零戦を見たら、勝手に追うな」
「了解しました」
「そして、見失うな」
隊長は一瞬だけ目を伏せた。
「了解しました」
だが、彼には分かっていた。
あれは見失ったのではない。
理解できなかったのだ。
一方その頃。
傷ついた二機の零戦も、日暮れぎりぎりの空へ帰っていた。
海はもう黒い。
空には、最後の赤みだけが残っている。
一機は機体をふらつかせながら、どうにか空母へ近づいていた。
被弾した右主翼が震えている。
エンジン音も安定していない。
「来たぞ!」
甲板で誰かが叫んだ。
「零戦だ!」
「二機とも戻った!」
整備兵たちが一斉に走り出す。
誘導の灯りが振られる。
一機目が降りた。
大きく跳ねたが、どうにか止まる。
続いて二機目。
傷ついた機体は、甲板に触れた瞬間、片側へ流れかけた。
「押さえろ!」
整備兵が駆け寄る。
機体が止まった時、周囲から大きな息が漏れた。
搭乗員が風防を開ける。
顔は青白い。
だが、生きていた。
「よく戻った!」
整備兵が叫んだ。
「米軍機に追われていたんじゃなかったのか!」
搭乗員はしばらく答えられなかった。
足元がふらついている。
別の搭乗員が肩を貸した。
そこへ、航空隊の士官が歩いてきた。
「報告しろ」
声は硬かった。
「敵機はどうした」
搭乗員は息を整えた。
「P-40、四機に追われました」
「振り切ったのか」
「いいえ」
周囲が静かになる。
士官は眉をひそめた。
「では、なぜ戻れた」
搭乗員は少し迷った。
自分でも、何を言えばいいのか分からなかった。
「……米軍機が離れました」
「離れた?」
「はい」
「なぜだ」
搭乗員は、夕暮れの空を振り返った。
もう何も見えない。
そこにはただ、夜へ沈む海があるだけだった。
「後ろから、一機の零戦が来ました」
士官の目が鋭くなる。
「零戦?」
「はい」
「味方機か」
「分かりません」
「分からないとは何だ」
搭乗員は拳を握った。
「見た目は零戦でした。ですが、速すぎました」
ざわめきが広がる。
別の搭乗員が言った。
「米軍機は、その零戦を見て散りました」
「米軍が零戦を見て逃げたのか」
「そう見えました」
誰かが小さく笑いかけた。
だがすぐに黙った。
戻ってきた二人の顔が、冗談を許さなかったからだ。
「その零戦は、敵を撃ったのか」
「分かりません」
「分からない?」
「少なくとも、自分たちを追っていたP-40は離れました」
「では、その零戦はどこへ行った」
「見失いました」
士官は唸った。
その時、後ろから別の声がした。
「その零戦に、特徴はなかったか」
片桐だった。
周囲が振り返る。
片桐の顔は、妙にこわばっていた。
士官が言う。
「片桐、何か知っているのか」
片桐は答えず、搭乗員へ近づいた。
「左翼に補修跡はなかったか」
搭乗員は目を瞬かせた。
「左翼……」
彼は記憶を探る。
夕暮れ。
赤い空。
異常な速度で迫る零戦。
ほんの一瞬、横腹が見えた。
「あった、と思います」
片桐の顔色が変わった。
「風防の後ろに傷は」
「……ありました」
周囲の空気が変わる。
片桐の声は少し低くなった。
「主翼の根元だけ、色が違っていなかったか」
搭乗員は、はっきりと頷いた。
「はい。そこは見えました」
片桐は黙った。
唇がわずかに震えている。
士官が言った。
「片桐」
片桐は、夜の空を見上げた。
そこには、もう零戦の影はない。
ただ、星がひとつだけ見え始めていた。
「見間違えるはずがありません」
片桐は呟いた。
「何をだ」
士官が問う。
片桐はゆっくりと答えた。
「あれは、三上の零戦です」
誰も声を出さなかった。
三上。
その名を知る者たちの間に、冷たいものが走った。
「三上は……」
士官が言いかけて、止まる。
片桐は首を振った。
「分かっています」
そしてもう一度、暗くなった空を見た。
「ですが、あの左翼の補修跡。風防の後ろにあった傷。主翼の根元の色の違い」
片桐の声は震えていた。
「見間違えるはずがありません」
助けられた搭乗員は、何も言えなかった。
自分たちは何に助けられたのか。
味方なのか。
幽霊なのか。
それとも、戦場が見せた幻なのか。
誰にも分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
米軍機は逃げた。
二機の零戦は生きて戻った。
そして、日暮れの空に現れた一機の零戦を、片桐は知っていた。
夜風が甲板を通り抜ける。
誰かが小さく呟いた。
「幽霊……」
片桐は、その言葉を否定しなかった。




