緊急発進
第二十二話 緊急発進
夕暮れの未来基地には、まだ炭の匂いが残っていた。
海から吹く風が、格納庫の外に置かれた金網の煙をゆっくり流していく。
さっきまで、慎一の昔話で笑っていた空気が、まだそこにあった。
幸雄は金網の前にしゃがみ込み、残り少なくなっていた焼肉をじっと見ていた。
「……これは誰の肉だ」
「慎一さんのじゃないですか?」
はるみが紙皿を片付けながら言った。
「いや、あいつはさっき二枚食った」
「よく見てますね」
「整備士は残量管理が仕事だからな」
美希が呆れたように言う。
「肉を部品みたいに管理しないでください」
慎一はコーヒーのカップを片手に笑った。
「幸雄、肉に細かいな」
「お前が雑なんだよ」
「肉は待てる奴が勝つんだろ」
「それを言ったのはお前だ」
「そうだったな」
慎一が笑った、その時だった。
基地の奥で、短い電子音が鳴った。
ピッ。
一度だけ。
けれど、その音で全員の動きが止まった。
京子の端末が赤く点滅している。
さっきまで柔らかかった京子の表情が、一瞬で消えた。
美希はもう端末を開いていた。
「接触あり」
慎一はカップを置いた。
「米軍か?」
「違います」
美希は空中表示を開いた。
夕暮れの海域図に、二つの光点が浮かぶ。
「日本海軍機です。零戦二機」
その後ろに、赤い光点が四つ現れた。
美希の声が低くなる。
「追われています」
幸雄が肉を置いた。
「敵は?」
「米軍機四。距離を詰めています」
京子がすぐに問う。
「基地へ向かっていますか」
「いいえ。基地空域からは外れています」
美希は地図を拡大した。
「ただし、このままなら数分以内に捕捉されます」
場が静かになった。
未来基地が見つかるわけではない。
この島は、上空から見ればただの無人島だ。
偽装も機能している。
本来なら、何もする必要はなかった。
ただ見ているだけでいい。
歴史への干渉を避けるなら、それが正しい。
だが、モニターの上では、日本軍の零戦二機が夕暮れの海の上を必死に逃げている。
その後ろから、米軍機四機が確実に距離を詰めていた。
慎一は画面を見た。
零戦二機のうち、一機は高度が安定していない。
時折、ふらつくように線が落ちる。
「ありゃ、追いつかれるな」
誰も答えなかった。
慎一は静かに立ち上がった。
「出る」
京子は慎一を見た。
止める理由はあった。
歴史への不用意な干渉。
機体への負担。
敵に見られる危険。
だが、止める言葉は出なかった。
京子は短く頷いた。
「了解。目的は救援です。撃墜は必要最小限にしてください」
「分かった」
幸雄が立ち上がった。
「零戦を着陸点へ送る。お前は先に行け」
「肉は?」
「まだ言うか」
慎一は笑った。
「帰ったら食う」
幸雄は一瞬だけ黙り、それから口の端を上げた。
「焦がさずに待っててやるよ」
「頼んだ」
慎一は走り出した。
さっきまで肉を焼いていた男が、夕暮れの草地へ向かって走る。
はるみはその背中を見送った。
六十六歳の何でも屋。
ブリキの車をばらし、工業高校でレーシングカートを作った男。
その男が今、戦場へ向かっている。
「慎一さん、無理をしないでください」
はるみが小さく呟いた。
京子の声が基地内通信に響く。
「全員、配置についてください」
その一言で、空気が完全に変わった。
美希は管制席へ走る。
はるみも端末を抱えて後を追う。
幸雄は格納庫へ駆け込んだ。
格納庫の中央には、零戦が静かに置かれていた。
見慣れた灰緑色の機体。
だが、その中身はもう普通の零戦ではない。
幸雄がコンソールを叩く。
「転送座標、着陸点に固定」
格納庫の床に、青白い光が走った。
零戦の輪郭が淡く揺れる。
「転送開始」
次の瞬間、零戦は格納庫から消えた。
基地外縁。
ブッシュが薄くなった着陸点に、零戦が音もなく現れる。
そこへ慎一が駆け込んだ。
夕暮れの風が草を揺らしている。
遠くの空には、まだ赤みが残っていた。
慎一は機体に手を掛け、操縦席へ身を滑り込ませた。
キャノピーを閉める。
計器が立ち上がる。
京子の声が通信機から聞こえた。
『対象まで八分。味方機は高度を落としています』
「敵との距離は?」
『縮まっています。間に合うかどうかは、あなた次第です』
「分かりやすくていい」
慎一はスイッチを入れた。
空間磁気コイル、起動。
低い振動が機体全体に広がる。
零戦の車輪が、ゆっくりと草から離れた。
一メートル。
さらに少し。
機体は草むらの上、二メートルほどの高さで静止する。
地面には触れていない。
だが、まだ空を飛んでいるわけでもない。
ただ、浮いている。
慎一は栄エンジンの始動操作に入った。
プロペラが一度、重く回った。
次に、鋭く空気を叩く。
栄エンジンが吠えた。
夕暮れの草が、プロペラ後流で波のように倒れていく。
「行くぞ」
慎一はスロットルを押し込んだ。
零戦が前へ滑り出した。
車輪を格納する。
滑走路は必要無い。
草むらの上を、二メートル浮いたまま加速していく。
栄改エンジンが唸り、可変ピッチプロペラをぶん回す。
速度が上がる。
風が機体を叩く。
主翼が夕暮れの空気を受け始めた。
操縦桿の重さが変わった。
さっきまで機体を支えていたのはコイルだった。
だが今、翼が支えている。
零戦はようやく、零戦になった。
慎一は操縦桿をわずかに引いた。
機首が上がる。
草むらが下へ沈む。
夕暮れの島が遠ざかる。
零戦は赤みの残る空へ、滑るように上昇していった。
美希の声が入る。
『敵機まで六分』
はるみが続ける。
『味方機一機、機体損傷の可能性あり。高度が不安定です』
慎一は前方を見た。
夕暮れの海。
その上で、小さな点が二つ逃げている。
その後ろに、四つの影。
まだ遠い。
未来改造零戦は、この時代のどの戦闘機よりも速い。
だが、それでも限界はある。
栄エンジンで引き出せる速度は、およそ六百五十キロ。
追いつくには足りない。
だが、この零戦には未来の技術が積まれていた。
慎一は迷わなかった。
スロットル脇のブースタースイッチへ指を伸ばす。
「間に合わせる」
カチリ。
慎一はブースターのスイッチを入れた。




