帰って来た搭乗員たち
第二十話 届いた報告
夕暮れの飛行甲板には、潮と油の匂いが混じっていた。
着艦を終えた零戦が一機、また一機と誘導され、整備兵たちが翼を畳む間も惜しむように取り付いていく。外板には弾痕が残り、油に汚れた胴体からは白い煙が立ち上っていたが、どの機体にも操縦席から降りる人影があった。
艦橋から甲板を見下ろしていた艦長は、戻ってきた機体の数に違和感を覚えていた。
攻撃隊は激しい迎撃を受けた。護衛戦闘機にも相応の損害を覚悟していたが、甲板へ誘導されてくる零戦は予想より多い。損傷した機体ばかりとはいえ、搭乗員が自力で帰還できたことに変わりはなかった。
「帰還機の集計はどうなっている」
尋ねられた参謀は、手元の記録を確認してから答えた。
「まだ最終確認中ですが、未帰還機は当初の想定より少ないようです。ただし、搭乗員の証言に奇妙な点があります。複数の者が、敵戦闘機に追われていたところを、所属不明の零戦に救われたと話しています」
「所属不明とは、どういう意味だ。零戦なら味方機だろう」
「該当する部隊機が見つかりません。救援を受けた場所も一か所ではなく、離れた空域にいた搭乗員から似た証言が出ています」
参謀から渡された報告書には、帰還直後に聞き取った内容が簡潔にまとめられていた。
敵機に追尾され、回避不能となった直後、右後方から零戦らしき機体が接近。敵機を一撃で撃破したのち、通信にも応じず離脱。
別の搭乗員は、雲の上から白く光る零戦が降りてきたと証言していた。異常な上昇速度を見た者もいれば、敵機の一部が大きく抉られ、そのまま空中で砕けたと話す者もいる。
表現には多少の違いがあったが、共通している点は多かった。
零戦であること。
味方を救ったこと。
これまで見たことのない速度と武器を持っていたこと。
そして、救援を終えると何も告げずに姿を消したこと。
「戦闘直後の証言です。興奮や誤認が混じっている可能性はありますが、全員が同じものを見間違えたとも考えにくいかと」
艦長は報告書を閉じず、もう一度最初から読み直した。
「救われた搭乗員を呼べ。報告書ではなく、本人から聞きたい」
ほどなくして、三人の搭乗員が艦橋へ呼ばれた。いずれも疲労の色が濃く、飛行服には血や油の跡が残っていたが、大きな負傷はない。
艦長は彼らを順番に見た。
「一人ずつ話せと言うと、今度は互いの証言に引きずられる。代表して、お前が最初から説明しろ。他の二人は、違うと思ったところだけ訂正すればいい」
一番年長の搭乗員が姿勢を正した。
「敵戦闘機二機に追われ、後方を取られていました。弾もほとんど残っておらず、次の射撃で落とされると思った時、右上方から零戦が降りてきました。敵機の横を通り過ぎたように見えた直後、一機の胴体が大きく抉られ、もう一機は翼を失って墜落しました」
「発砲は見たか」
「いいえ。発射炎も曳光弾も見えませんでした。ただ、少し遅れて空気を叩くような衝撃が来ました」
「救援した零戦は、その後どうした」
「こちらを一度見たように思います。そのまま雲の方へ上がり、すぐに見えなくなりました。呼びかけましたが返事はありませんでした」
残る二人も、細部に違いはあるものの、大筋では同じ証言をした。
一人は敵機が撃たれた場所を「爆発ではなく、そこだけ持っていかれたようだった」と表現し、もう一人は救援機の上昇を「零戦の動きではなかった」と話した。
「部隊の識別標識は見えなかったのか」
「確認する余裕がありませんでした。ただ、日の丸は見えました。あれは間違いなく日本の零戦です」
若い搭乗員が、少し迷ってから付け加えた。
「ですが、こちらと同じ零戦には思えませんでした。飛び方も、武器も、何もかも違っていた。まるで……」
「まるで、何だ」
「幽霊を見たようでした」
艦橋の空気が静まった。
艦長はその言葉を笑わなかったが、報告書へ書くつもりもなかった。
「お前たちが何を見たかは、こちらで判断する。今夜は憶測を広めず、見た事実だけを整備担当と参謀へ話せ。ただし、助けられたことまで忘れる必要はない」
三人の顔が上がった。
「生きて帰ったなら、次も帰ってこい。今日助けられた命を、次の戦いで無駄にするな」
搭乗員たちは力強く敬礼し、艦橋を退出した。
扉が閉じた後、参謀が報告書を手に取った。
「この件は、どのように処理しますか。所属不明機による救援と、そのまま書けば、搭乗員の混乱として片づけられる可能性もあります」
「余計な名をつけるから混乱する。幽霊とも、新兵器とも書くな。複数の搭乗員が所属不明の零戦による救援を証言し、該当する部隊機は確認できず、敵機の撃墜方法も不明。それだけでいい」
「上へ報告しますか」
艦長は迷わなかった。
「すぐに第一航空艦隊司令部へ送れ。敵機を一撃で落とし、複数の空域で味方を救った零戦だ。こちらで正体が分からないからといって、存在までなかったことにはできん」
「南雲長官へ直接ですか」
「この艦だけで抱えるには大きすぎる。しかも、あの機体が現れた空域では、実際に損害が減っている。偶然なら一度で終わるが、次も現れるなら作戦に影響する」
参謀は頷き、通信室へ向かうため報告書を抱え直した。
「急がせろ。所属を探るだけではなく、同じ証言が他艦にもないか照会するんだ。名前のない機体ほど、見落とした時の代償は大きい」
◇
数時間後。
第一航空艦隊旗艦『赤城』の艦橋では、南雲忠一が届いた電文を読んでいた。
所属不明の零戦。
複数の味方搭乗員を救援。
異常な速度。
発射炎も曳光弾も見えない攻撃。
該当する部隊機なし。
南雲は最後まで目を通すと、電文を机へ置いた。
「一人の証言なら、戦場での誤認として処理できる。しかし、離れた場所で複数の搭乗員が同じ零戦を見ている。しかも、その機体が現れた空域では、実際に未帰還機が減っているそうだ」
そばにいた参謀が電文へ目を落とした。
「秘密部隊の機体という可能性はありませんか。現場へ情報が下りていないだけかもしれません」
「それなら、第一航空艦隊にも通達がある。味方の作戦空域を勝手に飛び回り、所属を名乗らずに交戦する部隊など、あってはならん」
「搭乗員たちは、白く光る零戦と呼んでいるようです」
「呼び名はどうでもいい。重要なのは、敵より速く味方の危機へ現れ、こちらの知らない武器で敵を落としたことだ」
南雲は海図へ歩み寄り、報告された救援地点へ印をつけさせた。点は一か所に固まらず、攻撃隊が撤退した航路に沿って散らばっている。
「この動き方では、偶然敵と遭遇したのではない。味方が追われている場所を選んで飛んでいるように見える」
「空から戦場全体を把握していたと?」
「そこまでは分からん。だが、零戦一機の視界だけで、これほど離れた味方を次々に見つけられるものか」
参謀は答えられなかった。
南雲は海図に残された印を見ながら、しばらく考えた。
正体を知らないまま作戦へ組み込むことはできない。しかし、味方を救っている機体を無視し、現場の判断だけに任せるわけにもいかない。敵なら警戒が必要であり、味方ならなおさら、その意図を知らなければならなかった。
「各空母と基地航空隊へ照会を出せ。該当する零戦が所属していないか、整備記録と出撃記録も含めて確認する。それから今後、同じ機体を見た者は、交戦せずに機体番号、識別標識、飛行方向を報告させろ」
「追跡はさせますか」
「通常の零戦を置き去りにする速度なら、追わせても燃料を捨てるだけだ。まずは邪魔をしないことだな。味方を救っているうちは、少なくとも我々へ敵意を向けてはいない」
南雲は報告書を手に取り、もう一度「所属不明」の文字へ目を落とした。
「何者かは分からんが、こちらの知らないところで戦局へ手を入れている。次に現れた時には、ただ驚いて見送るな。何を狙い、どこへ向かうのかを見届けろ」
命令を受けた参謀たちが動き始め、艦橋の通信員が各艦へ送る暗号電文の作成に取りかかった。
その頃、慎一はまだ知らなかった。
自分が救った搭乗員たちの証言が一枚の報告書となり、第一航空艦隊旗艦『赤城』へ届いたことを。
そして南雲忠一が、所属不明の零戦を探し始めたことを。
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