帰って来た搭乗員たち
第二十話 帰ってきた搭乗員たち
夕暮れの飛行甲板には、潮と油の匂いが混じっていた。
空母の艦橋から見下ろすと、整備兵たちが慌ただしく甲板を走っている。
着艦を終えた零戦が一機、また一機と誘導され、翼を畳む間も惜しむように整備員が取り付いた。
破れた外板。
弾痕の残る主翼。
油で黒く汚れた胴体。
それでも、機体は帰ってきていた。
艦長は無言で甲板を見下ろしていた。
戦いは終わった。
いや、終わったと言えるほど簡単なものではない。
攻撃隊は損害を受けた。
護衛戦闘機も傷ついた。
だが、艦長の胸に残っているのは敗北感ではなかった。
むしろ、奇妙な感覚だった。
思ったより、多い。
帰ってきた機が多い。
「帰還機の集計は」
艦長が低く尋ねると、参謀が手元の記録を確認した。
「現在確認中です。ただ、未帰還は想定より少ない模様です」
「想定より、か」
艦長は甲板を見たまま呟いた。
想定など、戦場では簡単に崩れる。
それは分かっている。
だが今回の崩れ方は、いつもと違っていた。
悪い方ではない。
良い方に、崩れている。
それがかえって気味悪かった。
「搭乗員の報告は」
「いずれも混乱しています」
「混乱?」
「はい。敵機に追われていたところ、所属不明の零戦に救援されたという証言が複数あります」
艦長はようやく参謀を見た。
「所属不明の零戦だと」
「はい」
「味方ではないのか」
「零戦である以上、味方機と思われます。ただ、該当する部隊機が確認できません」
艦橋の中が静かになった。
零戦でありながら、所属が分からない。
そんなことがあるのか。
艦長は眉を寄せた。
「敵の誤認ではないのか」
「敵ではありません。少なくとも、帰還した搭乗員たちは皆そう言っています」
参謀は一枚の報告書を差し出した。
艦長はそれを受け取り、目を通す。
そこには、いくつもの短い証言が並んでいた。
敵戦闘機に追尾される。
右後方より零戦らしき機体接近。
敵機、瞬時に撃破。
救援後、所属を名乗らず離脱。
別の証言も似ていた。
白く光るような零戦。
異常に速い上昇。
見たことのない射撃。
一撃で敵機が裂けた。
艦長は報告書から目を離した。
「白く光る零戦、か」
参謀は困惑した顔をした。
「誇張かもしれません。戦闘直後です。搭乗員たちは興奮しています」
「だろうな」
艦長はそう答えた。
だが、報告書を閉じる気にはなれなかった。
戦場帰りの搭乗員は、よく誇張する。
怖かったものは大きくなり、助かった出来事は奇跡のように語られる。
それは珍しいことではない。
しかし今回は、証言の芯が同じだった。
所属不明の零戦。
見たことのない武器。
そして、助かった者たち。
艦長は甲板へ視線を戻した。
一人の搭乗員が、整備兵に肩を貸されながら歩いていた。
足元はふらついている。
それでも自分の足で歩いている。
その男の名前を、艦長は知っていた。
朝、出撃していった時の顔も覚えている。
本来なら、戻らない可能性も十分にあった男だ。
だが、今そこにいる。
煙草をくわえた整備兵が、その背中を叩いていた。
搭乗員は笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「艦長」
参謀が言った。
「一部では、幽霊のようだった、と」
「幽霊?」
「はい。敵機の後ろに現れ、撃ち、すぐに消えたと」
艦長は小さく息を吐いた。
海軍の艦橋で、幽霊などという言葉を真面目に扱うつもりはない。
だが、その幽霊とやらのおかげで、甲板には帰ってきた者がいる。
それだけは確かだった。
「搭乗員を休ませろ」
艦長は言った。
「報告は後でいい。まず飯を食わせ、寝かせろ」
参謀が一瞬だけ目を上げた。
「よろしいのですか」
「今すぐ問い詰めても、まともな報告にはならん」
艦長は甲板を見下ろした。
「帰ってきた者には、帰ってきたという実感が必要だ」
参謀は黙って頭を下げた。
艦長は再び報告書を開いた。
所属不明の零戦。
その文字だけが、妙に目に残った。
誰の機かは分からない。
どこの部隊かも分からない。
なぜそこに現れたのかも分からない。
だが、その機体が現れた場所では、味方が帰ってきている。
それは偶然なのか。
それとも、何者かの意思なのか。
艦長には分からなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
今日、何人かの搭乗員が海に消えずに済んだ。
その事実だけが、甲板の上に残っていた。
夕暮れの空を、一羽の鳥が横切った。
艦長はその影を目で追った。
空は、まだ赤かった。
まるで、戦いの熱だけがそこに残っているようだった。
その夜、艦内の一室に、数名の搭乗員が集められた。
正式な尋問ではない。
報告を取るというより、まず何が起きたのかを確かめるための場だった。
艦長は机の上に置かれた湯呑みに手を触れた。
中身はもう冷めかけている。
だが誰も、それに口をつけようとはしなかった。
最初に口を開いたのは、若い零戦搭乗員だった。
「敵は、二機で来ました」
声は少しかすれていた。
「一機がこちらを追い、もう一機が上から押さえるように回っていました。逃げ場を塞がれて……正直、もう駄目だと思いました」
艦長は黙って聞いていた。
「その時です。右上から、零戦が入りました」
「味方機か」
参謀が問う。
搭乗員は迷った。
「形は零戦でした。ですが……」
「ですが?」
「見たことのない零戦でした」
部屋の空気が少し重くなる。
別の搭乗員が口を挟んだ。
「自分も見ました。あれは普通の零戦ではありません。速さが違います。旋回も、上昇も、何もかも違う」
「新型か」
参謀が言った。
「分かりません」
搭乗員は首を振った。
「ですが、あの機体は敵を追い回してはいませんでした」
艦長の眉が、わずかに動いた。
「追い回していない?」
「はい」
搭乗員は自分の手で空中に線を描いた。
「こちらを追っていた敵機の後ろへ入るのではなく、敵が逃げる先へ先に入っていたように見えました」
その言葉に、艦長は少しだけ身を乗り出した。
「先に、か」
「はい。敵が曲がる前に、もうそこにいたんです」
別の搭乗員が頷いた。
「私も同じように見えました。敵機が反転しようとした瞬間、あの零戦はすでに射線に入っていました」
参謀が記録を取る手を止めた。
「それで、撃ったのか」
搭乗員は息を飲んだ。
「はい。ただ……」
「ただ?」
「あれは機銃ではありません」
部屋が静かになった。
艦長は搭乗員を見た。
「詳しく言え」
「音が違いました。二十ミリの音ではありません。機体が震えるような音ではなく、空気を打つような……短い衝撃でした」
別の搭乗員が続ける。
「光りました。ほんの一瞬です。赤い線のようなものが走って、敵機の胴体が裂けました」
「裂けた?」
「はい。燃えたというより、切られたように見えました」
参謀が思わず顔を上げた。
「馬鹿な」
その言葉に、誰も反論しなかった。
だが、誰も笑わなかった。
艦長は机の上の報告書を見た。
どの証言も、同じところへ戻ってくる。
所属不明の零戦。
見たことのない射撃。
そして、帰ってきた搭乗員。
「その機体は、名乗ったか」
「いいえ」
「識別符号は」
「確認できませんでした」
「日の丸は」
搭乗員は少し考えた。
「見えました。確かに、日の丸はありました」
艦長は深く息を吐いた。
日の丸がある。
零戦である。
だが所属が分からない。
その事実が、かえって不気味だった。
「救援後、その機体はどうした」
「すぐに離脱しました」
「どこへ」
「分かりません。雲の方へ上がったと思ったら、もう見えなくなっていました」
別の搭乗員が小さく呟いた。
「まるで、最初からそこにいなかったみたいでした」
艦長はその言葉を聞き流さなかった。
まるで、いなかったみたい。
戦場では、そういう言葉が残ることがある。
恐怖を見た者。
死にかけた者。
偶然生き残った者。
そういう者たちは、自分が助かった理由をどこか人間離れしたものとして語る。
だが今回は違う。
彼らは助かった理由を見ている。
見ているのに、説明できない。
「艦長」
参謀が静かに言った。
「この件、上へ報告しますか」
艦長はすぐには答えなかった。
報告すべきだ。
当然である。
所属不明の味方機が戦場に現れ、敵機を撃墜した。
新兵器の可能性もある。
未確認の部隊行動である可能性もある。
報告しなければならない。
だが、どう書く。
幽霊のような零戦に助けられた。
見たことのない武器で敵機を裂いた。
所属も部隊も分からない。
そんな報告をそのまま上げれば、搭乗員たちの混乱として処理されるかもしれない。
艦長はしばらく黙っていた。
やがて、低く言った。
「事実だけを書く」
「事実だけ、ですか」
「そうだ」
艦長は報告書を指で叩いた。
「帰還した搭乗員の複数名が、所属不明の零戦による救援を証言。該当機は確認できず。敵機撃墜の方法は不明。以上だ」
参謀は頷いた。
「幽霊、という表現は」
「書くな」
「了解しました」
艦長は搭乗員たちを見た。
「お前たちも、今夜は余計なことを言うな」
搭乗員たちは背筋を伸ばした。
「はっ」
「ただし」
艦長は少しだけ声を和らげた。
「助けられたことまで忘れる必要はない」
若い搭乗員の目がわずかに揺れた。
「はい」
「生きて帰ったなら、次も帰れ」
その言葉に、部屋の空気が変わった。
厳しい命令ではない。
だが、それは艦長が搭乗員に与えられる、最も重い言葉だった。
生きて帰れ。
戦場では、それがどれほど難しい命令か、ここにいる全員が知っていた。
搭乗員たちが退出したあと、艦長はしばらく報告書を見つめていた。
参謀が小さく言う。
「艦長は、あの機体をどうお考えですか」
「分からん」
艦長は即答した。
「だが、ひとつだけ言える」
「何でしょう」
「あの零戦が現れた場所では、こちらの損害が減っている」
参謀は黙った。
艦長は続けた。
「ならば、次に同じことが起きた時、我々はそれを偶然として扱ってはならん」
「つまり」
「あの機体の動きを妨げるな」
艦長は静かに言った。
「所属が分からなくとも、味方を助けているのなら、こちらもその意図を読む必要がある」
「作戦に組み込む、ということですか」
「そこまで急ぐな」
艦長は首を振った。
「まだ何者かも分からん。だが、少なくとも邪魔をしてはならん」
参謀はゆっくり頷いた。
艦長は窓の外を見た。
甲板の灯火が、夜の海に淡く浮かんでいる。
その光の下で、整備兵たちはまだ機体に取り付いていた。
帰ってきた零戦。
帰ってきた搭乗員。
傷ついた機体。
生きている者たちの気配。
戦果報告の数字だけでは分からないものが、そこにはあった。
艦長は思った。
今日帰ってきた者たちは、明日も飛ぶ。
その中には、次の戦いで誰かを救う者もいるだろう。
また別の誰かを連れて帰る者もいるだろう。
戦争とは、ただ敵を沈めることではない。
帰ってきた者が、次の戦いを支える。
その積み重ねで艦は戦う。
艦長は報告書を閉じた。
所属不明の零戦。
名前もない。
部隊もない。
だが、その機体は確かに何人かを海から連れ戻した。
その事実だけは、誰にも消せない。
「幽霊か」
艦長は小さく呟いた。
それから、首を振った。
幽霊なら、死者を連れて行く。
だが、あの零戦は違う。
あれは、死ぬはずだった者を連れ帰ってきた。
艦長は窓の外を見たまま、静かに言った。
「ならば、幽霊ではないな」
参謀が聞き返す。
「何か?」
「いや」
艦長は報告書を机の上に置いた。
「ただの独り言だ」
夜の海の上で、空母は静かに進んでいた。
まだ誰も知らない。
この日帰ってきた数人の搭乗員が、次の戦場で別の誰かを救うことを。
さらにその先で、失われるはずだった技術と経験を繋いでいくことを。
日本軍は歴史が変わり始めたことを知らない。
ただ、いつもより少し多くの搭乗員が帰ってきた。
それだけだった。
だが、その小さな差が、やがて太平洋の空に大きな影を落とすことになる。




