戦況を変える零戦
第18話 戦況を変える零戦
コルセアの翼が、青い空を切った。
風防越しに目が合った、次の瞬間だった。
ハーパーは、迷わず引き金を引いた。
六挺の機銃が一斉に火を噴く。
太い曳光弾が、慎一の零戦へ伸びる。
「来る!」
慎一は操縦桿を左へ叩き込んだ。
零戦が一気に横転する。
次の瞬間、エレベーターを引く。
機体は旋回ではなく、空中で刃を返すように進路を変えた。
そこへ、右ラダーを一瞬だけ踏む。
尾がわずかに流れる。
機体が弾道の外へ、半機身だけずれた。
曳光弾が風防のすぐ横を抜ける。
右翼のすぐ外側を、赤い線が走った。
一発も当たっていない。
本当に紙一枚。
その差で、零戦は生きていた。
「……あっぶねえ」
慎一は思わず笑った。
恐怖ではない。
久しぶりに、背筋が冷たくなる感覚だった。
ハーパーは、目を細めた。
「今のを避けるか」
無線からサッチの声が飛ぶ。
『ハーパー、深追いするな』
「了解」
ハーパーは答えた。
だが、その声には笑みが混じっていた。
『今は観測だ。奴の動きを記録しろ』
「分かっています」
分かっている。
だが、目の前にいる。
あれがPhantom Zero。
あの幽霊は、確かに空にいる。
慎一はコルセアを追わなかった。
追えば罠に入る。
それは一瞬で分かった。
「京子」
『はい』
「あいつ、強いぞ」
『分かっています。離脱を』
「まだだ」
『慎一』
「味方が崩れかけてる」
慎一は視線を戦場へ戻した。
日本側の零戦隊は、米軍機の交差機動に押されていた。
敵は巧妙だった。
逃げる機体を追えば、別の機体が射線を作る。
上へ逃げれば、下から突き上げる。
下へ逃げれば、上から押さえる。
零戦の旋回性能を封じるように、空の流れそのものが組まれている。
「サッチって奴か」
慎一は呟いた。
「なるほどな」
その時、左前方で味方零戦が二機、米軍機に挟まれた。
一機が背後へ付く。
もう一機が逃げ道を塞ぐ。
さらに外側に、三機目が待っている。
典型的な誘い込みだった。
慎一はスロットルを押し込んだ。
栄エンジンが唸る。
強化された二千馬力が、機体を前へ蹴る。
だが、慎一は正面から突っ込まない。
上へ行くと見せて、機体を軽くロールさせる。
敵の一機が反応する。
その瞬間、慎一は機首を沈めた。
零戦は、敵の射線の下をくぐる。
そして、逃げ道を塞いでいた米軍機の前に出た。
敵パイロットが気付く。
遅い。
短い射撃。
普通の二十ミリではない。
レールガンの弾丸が、空を真っ直ぐ貫いた。
米軍機の胴体が、内側から弾けた。
炎上する間もなく、翼と尾翼がばらばらに裂け、海へ落ちていく。
一機。
味方零戦の逃げ道が開く。
慎一はそのまま追撃しない。
次の味方へ向かう。
右下で別の零戦が追われている。
背後の米軍機は、射撃位置に入りかけていた。
慎一は敵の後ろへは行かなかった。
敵が撃つ直前に、どこへ機首を置くか。
その一点だけを見た。
「そこだな」
零戦を横倒しにする。
エルロンで姿勢を作り、エレベーターで高度を切る。
機体が斜めに落ちる。
敵機の射線と味方零戦の間に、慎一の零戦が割り込んだ。
米軍機は一瞬、引き金を引けなかった。
その一瞬で十分だった。
慎一は機首を上げ、敵の前方へ抜ける。
発砲。
二機目が火を噴いた。
片桐は、その光景を見ていた。
「まただ……」
所属不明機は、味方を助ける場所へ現れる。
敵を追っているのではない。
味方が死ぬはずだった空間へ、先に入り込んでいる。
小野寺の無線が震えた。
『片桐、あいつ……』
「ああ」
『やっぱり三上の機だ』
片桐は答えなかった。
機体は三上のものだ。
だが、乗っている者は違う。
あんな飛び方を、三上慎一はしない。
その頃、米軍側の無線は混乱し始めていた。
『また現れた!』
『どこだ!』
『味方の後ろじゃない、前だ!』
『追うな! 追うなと言われているだろ!』
『無理だ! 放っておけばこっちが落とされる!』
米軍機二機が、左右から日本の攻撃隊へ向かおうとしていた。
慎一はそれを見た。
「攻撃隊を狙う気か」
敵二機は別々の方向から入り、交差する瞬間に味方編隊を撃つつもりだった。
慎一は追わない。
交差点を読む。
二機の米軍機が、互いの射線を避けるために、ほんの一瞬だけ同じ高さへ揃う。
そこしかない。
慎一は機体をわずかに上昇させた。
高度差を合わせる。
速度を殺しすぎない。
照準の中で、二つの機影が重なった。
「今だ」
トリガーを押す。
レールガンが唸った。
鋼鉄の弾丸が、空を一直線に走る。
手前の米軍機の胴体を貫く。
弾丸はそこで止まらない。
後方にいたもう一機の主翼根元を、同じ線で撃ち抜いた。
二機がほぼ同時に崩れた。
三機目。
四機目。
一発で二機。
小野寺が叫んだ。
『おい、今の見たか!?』
片桐は息を呑んだ。
「あんなもの、機関砲じゃない」
所属不明の零戦は、まるで何事もなかったかのように機首を返した。
次の敵へ向かう。
米軍の編隊が崩れた。
慎一が落としているのは、ただの敵機ではない。
戦場の支点だった。
一機落ちるたびに、米軍の交差機動が一つ崩れる。
味方零戦が逃げる道ができる。
攻撃隊を守る空間が戻っていく。
「次」
慎一は低く言った。
左上方から、三機の米軍機が降ってくる。
一機が囮。
二機目が本命。
三機目が逃げ道を塞ぐ。
慎一は最初の一機を無視した。
二機目の前へ出る。
敵パイロットは驚いて機首を振る。
慎一は撃たない。
そのまま敵に回避を強いる。
二機目が崩れた瞬間、三機目の射線が消える。
そこで初めて撃つ。
短い射撃。
五機目が海へ落ちた。
残る二機は散開する。
だが、散開が遅い。
慎一は上へ逃げた一機を追わず、下へ逃げた一機の進路へ先回りした。
機首を置く。
発砲。
六機目。
上へ逃げた一機は、味方零戦が追い込んだ。
慎一はそこへは行かない。
味方が戦えるなら、それでいい。
「流れが戻ったな」
慎一は周囲を見た。
日本側零戦隊は、さっきまでの防戦一方から立ち直り始めていた。
片桐機も、小野寺機も、もう逃げるだけではない。
攻撃に移っている。
その変化を見た米軍側の管制官が叫んだ。
『Phantom Zero出現後、味方編隊が崩れています!』
『損害は』
『確認できるだけで六機以上! いや、さらに増えています!』
『奴を追うな。外側へ誘導しろ』
サッチの声が無線に入る。
『作戦を崩すな。Phantom Zeroは味方を助けに来る。そこを使え』
サッチは地図の上の線を睨んでいた。
報告通りだった。
いや、報告以上だった。
奴は敵を落としているのではない。
戦場の流れを変えている。
こちらが作った交差点を壊し、味方機が動ける空間を作っている。
「厄介だな」
サッチは低く呟いた。
ハーパーは高度を取りながら、その光景を見ていた。
コルセアの風防越しに、Phantom Zeroの動きを追う。
「あれは撃墜数を稼いでるんじゃないな」
ハーパーが呟く。
『どう見える』
サッチが聞く。
「味方を生かしてる」
その言葉に、サッチは黙った。
ハーパーは続けた。
「そして、こちらの形を壊してる。あの零戦が一機いるだけで、戦場の重心が変わる」
『だから追うな』
「分かっています」
だが、ハーパーの手は操縦桿を握り直していた。
追いたい。
今すぐ、あの零戦に喰らいつきたい。
だが、まだだ。
サッチの罠は完全には崩れていない。
慎一はその外側の空気を感じていた。
「まだいるな」
『何がですか』
京子が聞く。
「あのコルセアだ」
『離れてください』
「向こうもまだ来ない」
『なら今のうちに帰投を』
「あと少し」
京子が黙った。
その沈黙の意味は分かっている。
怒っている。
心配している。
だが慎一は、まだ離れなかった。
味方攻撃隊の外側に、最後の米軍機群が入り込もうとしている。
数は四機。
そのうち二機が先行し、二機が外側で待つ。
慎一はその形を見た。
「さっきより上手いな」
二機は、こちらを誘っている。
普通なら、そこへ入れば外側の二機に撃たれる。
だが、慎一はその外側へ入った。
敵が作った罠のさらに外へ。
「悪いな」
慎一はプロペラ反動トルクを利用し、機体を短く回頭させた。
エルロンで傾け、エレベーターで機首を跳ね上げる。
ラダーは踏まない。
機体を滑らせれば、今度は読まれる。
今回は、縦だ。
零戦は下から上へ、敵の予測線を切り裂くように上昇した。
外側で待っていた一機が、慎一に気付く。
遅い。
発砲。
七機目。
もう一機が逃げる。
慎一は追わず、味方攻撃隊へ向かう二機の間へ降りた。
敵二機が左右へ散る。
その瞬間、味方零戦隊が息を吹き返したように食らいついた。
一機は片桐に追われる。
もう一機は小野寺が押さえた。
慎一は残った一機だけを撃った。
八機目。
さらに、逃げようとした米軍機が二機、同じ高度で交差した。
慎一はそれを見逃さなかった。
レールガンの照準が、ほんの一瞬だけ重なる。
「もう一度」
発砲。
鋼鉄の弾丸が、一機目の操縦席後方を貫き、そのまま二機目のエンジンへ突き刺さった。
九機目。
十機目。
二機は別々の方向へ崩れ落ちた。
米軍無線が悲鳴のように乱れた。
『ありえない!』
『一発で二機やられた!』
『奴はどこを撃ってるんだ!?』
『Phantom Zeroだ! 間違いない!』
慎一は息を吐いた。
これで、味方は抜けられる。
日本側の攻撃隊は、米軍機の圧力から逃れつつあった。
零戦隊も再び護衛の形を取り戻している。
戦場は、慎一が来る前とは違っていた。
死ぬはずだった味方が生きている。
崩れるはずだった編隊が、もう一度形を持っている。
それが、慎一の戦いだった。
その時だった。
コルセアが動いた。
ハーパーは待ちきれなかった。
いや、待つ理由が消えた。
罠は壊された。
味方機は落とされ、Phantom Zeroはなお空にいる。
ならば。
「今度は俺の番だ」
『ハーパー、待て!』
サッチの声。
だが、コルセアはすでに降下に入っていた。
慎一はそれを見た。
「来たな」
ハーパーのコルセアは、真正面からは来ない。
右上方。
太陽を背にしない。
雲も使わない。
ただ、速度と角度だけで来る。
「正直な奴だ」
慎一は笑った。
コルセアの機首がわずかに沈む。
射線が来る。
慎一は操縦桿を左へ倒す。
零戦が横転する。
次の瞬間、エレベーターを引いた。
機体が空中で刃を返す。
そこへ右ラダーを一瞬だけ踏む。
尾がわずかに流れた。
機体は弾道の外へ、半機身だけずれる。
コルセアの機銃が火を噴いた。
赤い曳光弾が、風防のすぐ横を通過する。
右翼のすぐ外側を走る。
一発も当たらない。
だが、近い。
あまりにも近い。
慎一は歯を食いしばった。
「幸雄……効いたぞ」
ハーパーの目が見開かれた。
「避けた……?」
二機はそのまま交差した。
零戦。
コルセア。
距離が一瞬で消える。
風防越しに、顔が見えた。
目が合った。
ほんの一瞬。
言葉はない。
名前も知らない。
だが二人とも、同時に理解した。
こいつだ。
慎一は口元をわずかに上げた。
ハーパーも笑っていた。
次の瞬間、二機は逆方向へ抜けた。
『ハーパー、深追いするな!』
サッチの声が鋭く響いた。
ハーパーは機体を起こしながら、小さく舌打ちした。
「あと少しでした」
『だからだ。次に繋げる』
ハーパーは零戦を追わなかった。
追いたい。
だが、追えば今度はこちらが読まれる。
それは分かっていた。
「了解」
一方、慎一も追わなかった。
味方零戦隊は離脱方向へ動き始めている。
米軍の攻勢は削いだ。
目的は果たした。
「京子」
『はい』
「帰る」
京子の声に、少しだけ安堵が混じった。
『了解。帰投してください』
慎一は最後に一度だけ、遠ざかるコルセアを見た。
「あいつは、今追う相手じゃないな」
片桐は、遠ざかる所属不明機を見つめていた。
小野寺が無線で言う。
『片桐』
「なんだ」
『あれは、本当に三上なのか』
片桐は答えられなかった。
「あいつは三上じゃない」
小さく言った。
「でも、あの機体は……」
言葉は続かなかった。
空には、まだ戦闘の煙が残っている。
その向こうで、コルセアが旋回していた。
さらに遠くへ、Phantom Zeroが消えていく。
戦いは終わっていない。
むしろ、始まったばかりだった。
未来基地へ帰投した慎一は、操縦席から降りると、しばらく零戦の翼を見ていた。
傷はない。
だが、弾道は確かに機体のすぐそばを通った。
ほんの少し反応が遅れていれば、風防を抜かれていた。
幸雄が駆け寄ってくる。
「どうだった」
慎一は少し黙った。
はるみから紙コップのコーヒーを受け取り、一口飲む。
苦い。
だが、うまい。
「助かった」
幸雄の目が細くなる。
「ケーブルか」
「ああ」
慎一は零戦を見た。
「お前の改修がなければ、最初の一撃で風防を抜かれてた」
格納庫が静かになった。
幸雄はしばらく黙っていた。
それから、太い声で笑った。
「だろうな」
「嬉しそうだな」
「そりゃそうだ」
幸雄は零戦の主翼を叩いた。
「俺の改修が、お前の命を拾ったんだ。技術屋としては最高の褒め言葉だろ」
京子は黙って慎一を見ていた。
「相手は?」
彼女が聞いた。
慎一はコーヒーをもう一口飲んだ。
「あいつは強い」
「コルセアですか」
「ああ」
慎一は少しだけ笑った。
「面白い奴がいた」
その言葉に、京子の表情が曇った。
歴史はまた、速度を上げる。
慎一が敵を認めた。
それは、ただの戦闘報告ではなかった。
新しい戦いが始まったという合図だった。




