コルセア前倒し
第15話 コルセア前倒し
米軍司令部の会議室には、重い空気が流れていた。
机の上には、数枚の写真が並んでいる。
ムスタングの残骸。
セイロン沖で撃墜された英軍機の破片。
そして、遠距離から撮影された一枚の不鮮明な写真。
雲の下を横切る、一機の零戦。
機体番号は読めない。
所属も分からない。
だが、報告書にはすでに名が書かれていた。
Phantom Zero。
「もう待てません」
参謀の一人が言った。
「この機体を通常の零戦として扱うのは危険です」
上官は黙って写真を見ていた。
「F4Uの前線投入は時期尚早だ」
「承知しています」
「離着艦の問題も解決していない。機体の癖も強い。事故を増やすだけだ」
「それでも必要です」
参謀は引かなかった。
「ムスタング八機を失いました。セイロン沖では、対零戦機動の最中に戦術そのものを崩されています。通常機で対処できない敵が出ている以上、こちらも通常の手段では足りません」
会議室の視線が、机の端に置かれた別の写真へ向く。
逆ガル翼。
巨大なプロペラ。
太い胴体。
ヴォートF4U コルセア。
まだ完全とは言えない新鋭機。
だが、その性能は誰もが知っていた。
「サッチ」
上官が言った。
「君の意見は」
ジョン・サッチは、しばらく黙っていた。
彼の前には、セイロン沖の戦闘記録が広げられている。
無線記録。
撃墜位置。
生還した搭乗員の証言。
その中に、何度も同じ言葉が出ていた。
速いのではない。
いる場所がおかしい。
「機体だけでは足りません」
サッチは言った。
「コルセアを投入しても、同じ戦い方をすれば落とされます」
「では反対か」
「いいえ」
サッチは顔を上げた。
「必要です。ただし、Phantom Zeroを追うためではありません。罠を作るために使います」
上官の目が細くなる。
「続けろ」
「奴は味方を助けに来ます。そこが唯一、予測可能な行動です」
サッチは地図に鉛筆で線を引いた。
「味方機を危険に見せる。奴がそこへ来る。そこへ、速度と火力で外側から押さえる機体が必要です」
「それがコルセアか」
「はい」
サッチは頷いた。
「Phantom Zeroは、我々の射線の外へ出る。ならば、その外側に、さらに射線を置く」
会議室は静まり返った。
「二重の交差機動か」
「それでも足りないかもしれません」
サッチは言った。
「ですが、今やれる中では最善です」
上官は長く黙っていた。
やがて、ゆっくりと写真を机に置いた。
「分かった」
参謀たちが顔を上げる。
「F4Uの前倒し投入を承認する。ただし、正式配備ではない。特別試験部隊として扱う」
「ありがとうございます」
「搭乗員は選べ。腕だけでは駄目だ。あの零戦を見ても逃げない者を選べ」
サッチは静かに頷いた。
「了解しました」
上官は最後に付け加えた。
「この任務の目的は一つだ」
会議室の全員が、その言葉を待った。
「Phantom Zeroを撃墜する」
その頃、未来基地では、京子がひとり戦史データを見つめていた。
大型モニターには、次の空戦記録が表示されている。
本来の歴史。
改変後の予測。
そして、まだ確定していない未来の線。
京子は指先で画面をなぞった。
「早い……」
その声に、美希が振り返る。
「何が?」
「米軍の反応です」
京子はモニターを拡大した。
「Phantom Zeroという呼称が複数の通信記録に現れ始めています。さらに、航空機配備の流れが変わっている」
「また慎一さん?」
「慎一だけではありません」
京子は小さく首を振った。
「私たちが介入したことで、歴史が別の可能性を選び始めている。ムスタングの早期投入。対零戦戦術の前倒し。そして……」
京子の指が、ある機体名で止まった。
「F4U コルセア」
美希が眉を寄せた。
「コルセアって、まだ早いんじゃないの?」
「本来なら、この時点で実戦に出る機体ではありません」
「じゃあ」
「ええ」
京子は静かに言った。
「前倒しされています」
はるみが不安そうに聞いた。
「それって、慎一さんを狙うため?」
京子はすぐには答えなかった。
モニターには、次の戦線候補がいくつも表示されている。
その中の一つに、赤い印が付いた。
「おそらく」
幸雄が端末を覗き込んだ。
「コルセアか。面白ぇ機体だな」
京子が横目で見る。
「面白がるところではありません」
「いや、機体としては面白いだろ。逆ガル翼に大径プロペラ。扱いは難しいが、馬力も速度もある。普通の零戦なら相手にしたくねえ」
「普通の零戦なら、でしょう」
美希が言う。
幸雄は少し笑った。
「まあな。慎一の零戦は普通じゃねえ」
京子はモニターを見つめた。
「問題はそこではありません」
「じゃあ何だ」
「米軍が慎一の行動原理を読み始めていることです」
その言葉に、幸雄の顔から笑みが少し消えた。
「行動原理?」
「慎一は味方を助ける」
京子は言った。
「敵を全て倒すためではなく、戦場の流れを戻すために動く。米軍がそこに気付き始めている」
美希が息を呑んだ。
「じゃあ、次はそこを狙われる」
「はい」
京子は頷いた。
「味方機が落とされそうになる場所。慎一が助けに行く場所。そこに罠を置かれる可能性があります」
その時、格納庫の方から慎一の声が聞こえた。
「何を難しい顔してるんだ」
全員が振り返る。
慎一は紙コップのコーヒーを片手に立っていた。
「次の出番か?」
京子は一瞬だけ黙った。
それから、静かに言った。
「ええ」
「敵は?」
「まだ確定ではありません」
「そうか」
慎一はコーヒーを一口飲んだ。
「でも、面倒そうな顔だな」
幸雄が笑う。
「今度はコルセアかもしれねえぞ」
「コルセア?」
慎一は少し考えた。
「聞いたことはあるな。変な翼のやつか」
「そうだ。でかいプロペラを回す化け物だ」
「速いのか」
「速い。力もある。だが癖も強い」
慎一は少しだけ目を細めた。
「癖があるなら、分かりやすいかもな」
幸雄が吹き出した。
「お前はそう言うと思ったよ」
京子は慎一を見た。
「油断しないでください」
「してない」
「敵はあなたを追うのではなく、あなたが来る場所を作るかもしれません」
慎一はコーヒーを持ったまま、しばらく黙った。
「なるほど」
「分かりますか」
「俺なら、そうする」
京子の表情がわずかに変わった。
慎一はモニターの戦況図を見た。
「助けに来る奴を落とすなら、助けたくなる状況を作ればいい」
幸雄が低く笑った。
「分かってるじゃねえか」
「嫌な手だな」
慎一はそう言って、紙コップを置いた。
「でもまあ、来るなら行くしかないだろ」
京子は小さく息を吐いた。
「そう言うと思いました」
慎一は零戦の方を見た。
「幸雄」
「なんだ」
「ラダーの調整、変にするなよ」
「変にはしねえよ。お前の変な飛び方に合わせるだけだ」
「それが心配なんだよ」
幸雄は笑った。
未来基地の中で、次の空戦の影が静かに濃くなっていった。
そして数日後。
米軍の前線飛行場では、異様な姿の戦闘機が滑走路に並んでいた。
逆ガル翼。
巨大なプロペラ。
濃い機体色。
F4U コルセア。
その前に立つ搭乗員たちは、誰も笑っていなかった。
サッチは彼らの前を歩いた。
「諸君」
彼は静かに言った。
「君たちの任務は、通常の零戦との交戦ではない」
搭乗員たちの視線が集まる。
「目標は一機。所属不明の零戦。通称Phantom Zero」
滑走路に風が吹いた。
コルセアのプロペラが、ゆっくりと回り始める。
「奴を追うな」
サッチは言った。
「奴が来る場所を作れ」
エンジン音が高まる。
一機。
また一機。
コルセアが滑走を始める。
巨大なプロペラが空気を掴み、機体が震える。
そして、重い鳥のように滑走路を離れた。
歴史より早く、コルセアが空へ上がる。
その翼が向かう先には、まだ何も見えない。
だが、彼らの目的は一つだった。
Phantom Zero。
その幽霊を、今度こそ空から引きずり下ろすことだった。




