三上の零戦
第13話 三上の零戦
片桐徹は、まだ眠れずにいた。
セイロン沖海戦の勝利は、すでに艦内に伝わっている。
食堂では整備兵たちが声を上げ、搭乗員たちも安堵した顔を見せていた。
勝った。
確かに勝った。
だが、片桐の胸の中には、勝利とは別のものが残っていた。
あの零戦。
雲の影から滑るように現れた、所属不明の零戦。
敵の編隊を崩し、味方を救い、何も言わずに消えた機体。
そして何より。
あれは、三上慎一の零戦だった。
「片桐」
背後から声をかけられた。
振り返ると、同じ隊の小野寺が立っていた。
「まだ起きてたのか」
「眠れない」
「俺もだ」
小野寺は片桐の横に腰を下ろした。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
遠くで、整備兵の工具の音が聞こえる。
カン。
カン。
その音が、妙に耳に残る。
先に口を開いたのは小野寺だった。
「見たんだろ」
片桐は答えなかった。
「例の零戦」
「見た」
「本当に三上の機か」
片桐は、ゆっくり頷いた。
「間違いない」
小野寺は顔をしかめた。
「三上は死んだ」
「分かってる」
「機体も失われたはずだ」
「分かってる」
「じゃあ、なんでだ」
片桐は答えられなかった。
答えられるはずがなかった。
分かっているのは、ただ一つ。
あの左翼の補修跡。
風防の後ろに走った細い傷。
主翼根元の塗装の違い。
何度も隣に並んで飛んだ機体だ。
見間違えるはずがない。
「あれは三上の零戦だ」
片桐は言った。
「でも、乗っていたのは三上じゃない」
小野寺が眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「あんな飛び方、三上はしない」
その言葉を口にした瞬間、片桐の胸に昔の景色が蘇った。
南方の飛行場。
むせるような熱気。
油と土と海風の匂い。
格納庫の前で、三上慎一が整備兵に頭を下げていた。
「また脚を痛めたのか、三上!」
整備兵の怒鳴り声が響く。
三上は困ったように笑っていた。
「すみません。横風が思ったより強くて」
「横風のせいにするな! お前の着陸はいつも丁寧すぎるんだ!」
片桐は横で笑った。
「丁寧で怒られる奴も珍しいな」
三上は苦笑した。
「無茶して壊すよりはいいだろ」
「無茶しなさすぎて脚を痛めてたら同じだ」
「それは言うな」
二人は笑った。
三上慎一は、そういう男だった。
臆病ではない。
だが無茶を好まない。
派手な撃墜を狙うより、編隊を乱さず帰ることを選ぶ。
上官から見れば、扱いやすい搭乗員。
同期から見れば、真面目すぎる男。
片桐から見れば、不思議と隣にいて落ち着く男だった。
ある日の夕方、食堂で三上は飯を食っていた。
白飯。
味噌汁。
少しの漬物。
片桐は三上の皿から漬物を一切れ取った。
「おい」
三上が顔を上げる。
「今、取っただろ」
「知らんな」
「見てたぞ」
「戦場では目が良いんだな」
「食堂でも目は良い」
三上は真顔でそう言った。
片桐は吹き出した。
「お前、そういう所だけ妙に真面目だな」
「漬物は大事だ」
「戦争中に言うことか」
「戦争中だからだ」
三上は箸を置いて、少し遠くを見た。
「帰ったら、母さんの漬物を食べたい」
片桐は笑うのをやめた。
「母親か」
「ああ」
三上は少し照れくさそうに頷いた。
「出る前に、無事に帰れって言われた」
「みんな言われるだろ」
「そうだな」
「帰るさ」
片桐は軽く言った。
「俺もお前も」
三上は片桐を見て、小さく笑った。
「そうだな。帰ったら、飯でも食いに行こう」
「また飯か」
「腹が減ると、ろくなことを考えない」
「空戦中に考えるなよ」
「分かってる」
その笑顔を、片桐は今でも覚えている。
だが、三上は帰らなかった。
出撃したまま戻らなかった。
撃墜されたと記録された。
生存は絶望的。
機体も喪失。
そう報告された。
それで終わったはずだった。
片桐は現実へ戻った。
目の前には、小野寺がいる。
「三上は真っ直ぐな奴だった」
片桐は静かに言った。
「操縦もそうだ。丁寧で、慎重で、無理をしない。敵の射線にわざと入って、そこから横へ滑るような真似はしない」
「今日のあれは」
「違う」
片桐の声は、思ったより強かった。
「あれは三上じゃない」
「だが機体は三上のものだった」
「ああ」
「じゃあ、誰が乗ってる」
片桐は窓の外を見た。
夜の海は暗い。
月明かりだけが、波の上に細く伸びている。
「分からない」
それが正直な答えだった。
その夜、片桐は飛行日誌を開いた。
古い記録。
出撃日。
帰投時刻。
機体番号。
搭乗員名。
そこに、三上慎一の名前があった。
そして、その横には無機質な文字が記されている。
戦死。
片桐は、その二文字を見つめた。
何度も見たはずの文字だった。
だが今夜は違った。
その文字の奥から、今日の空が立ち上がってくる。
雲の影。
敵機の曳光弾。
味方の悲鳴。
そして、滑るように現れた零戦。
三上の機体。
三上ではない飛び方。
片桐は拳を握った。
「馬鹿野郎」
小さく呟いた。
「生きてるなら、返事しろよ」
もちろん、返事はない。
日誌の上で、三上慎一の名前は黙っている。
だが片桐の耳には、あの戦闘中の無線がまだ残っていた。
「助かった」
誰かがそう言った。
本当に、助かったのだ。
あの機が来なければ、もっと多くの仲間が落ちていた。
そのことだけは、疑いようがない。
片桐は日誌を閉じた。
三上。
お前なのか。
いや、違う。
でも、あれはお前の零戦だ。
ならば。
片桐は窓の外へ目を向けた。
いつか、もう一度会えるかもしれない。
あの零戦に。
その時、自分は確かめる。
あれに乗っているのが誰なのか。
死んだはずの三上慎一なのか。
それとも、三上の機体を操る別の誰かなのか。
夜の艦内に、低いエンジン整備の音が響いていた。
どこかで、誰かが言った。
「幽霊零戦」
その噂は、もう広がり始めている。
片桐はその言葉を聞きながら、静かに目を閉じた。
幽霊でも構わない。
もう一度、あの零戦に会えるなら。
そう思ってしまった自分に、片桐は少しだけ苦笑した。




