帰投
第12話 帰投
格納庫の中に、栄エンジンの余熱が残っていた。
プロペラはすでに止まっている。
だが、機体の奥ではまだ金属が小さく鳴っていた。
チン。
チン。
冷えていく音だ。
俺は操縦席から降りると、零戦の主翼を軽く叩いた。
「よく飛んだな」
そう呟いた時だった。
格納庫の奥から、幸雄が大股で歩いてきた。
手には工具箱ではなく、端末を持っている。
「おい慎一」
「なんだ」
「お前、何をやった?」
幸雄の声は低く太い。
だが怒っている声ではなかった。
どこか楽しそうだった。
「何をって、普通に飛んだだけだ」
「普通?」
幸雄は端末の画面を俺に向けた。
そこには、飛行中の機体負荷や舵の入力、エンジン出力が細かく表示されている。
「これのどこが普通だ」
俺には細かい数字はよく分からない。
だが、線が妙な曲がり方をしていることだけは分かった。
「主翼の負荷はまだ余裕がある。機体補強も効いてる。そこはいい」
幸雄は画面を指で拡大した。
「問題はここだ。尾翼への横荷重。ラダー入力。エルロンとの合わせ方。お前、敵の射線を外す時に機体をわざと滑らせただろ」
「滑らせた方が早かったからな」
「だろうな」
幸雄は、にやりと笑った。
「普通の搭乗員なら、まずやらねえ。抵抗は増えるし、尾翼には横から力が掛かる。だが、お前はそれを曲がるためじゃなく、位置をずらすために使ってる」
「そんな難しいことは考えてない」
「考えろよ」
「体が先に動いた」
「そこが面白ぇんだよ」
幸雄は端末を叩いた。
「操縦入力としては荒い。だが結果だけ見れば、敵の射線から綺麗に外れてる。しかも無駄な追撃をしてねえ。必要な所だけ崩して、後は味方に渡してる」
美希が横から画面を覗き込んだ。
「本当だ。敵編隊の中心を壊した後、慎一さん、すぐ次へ行ってる」
はるみも頷く。
「全部落とそうとしてないのね」
「味方が戦えるなら、俺が全部やる必要はないだろ」
俺がそう言うと、幸雄はますます面白そうに笑った。
「そこだ」
「何がだ」
「お前は撃墜数を稼いでない。戦場の流れだけ変えてる」
幸雄は太い指でログをなぞった。
「こいつは面白い。機体制御を少し変えた方がいいな」
「何をする気だ」
「お前の滑らせ方に合わせる。ラダーを踏んだ時、尾翼が泣かねえように補助制御を少し入れる」
「余計なことをすると逆に邪魔になるぞ」
「分かってる。だから邪魔しねえように作るんだよ」
幸雄は端末を閉じた。
「こいつは零戦だ。だが、お前の飛ばし方は零戦乗りの飛ばし方じゃねえ。なら機体の方を少し寄せるしかねえ」
「俺専用にする気か」
「もうなってる」
幸雄は笑った。
その時、格納庫の入口に京子が立っているのに気付いた。
いつものように落ち着いた顔をしている。
だが、その目だけが少し違っていた。
焦りではない。
怒りでもない。
驚き。
それに近かった。
「京子」
俺が声をかけると、京子はゆっくり歩いてきた。
「お疲れ様、慎一」
「あまり嬉しそうじゃないな」
「嬉しくないわけではありません」
京子は端末を持っていた。
画面には、戦史データらしき線がいくつも表示されている。
「セイロン沖海戦は、日本軍の勝利で終わりました」
「それなら良かったじゃないか」
「ええ。勝敗だけを見れば、史実に近い形です」
「なら問題ないだろ」
京子は首を横に振った。
「問題は、勝ったことではありません」
「じゃあ何だ」
京子は壁面モニターにデータを映した。
そこには、いくつもの出来事が並んでいた。
ムスタングの早期投入。
対零戦編隊戦術の前倒し。
所属不明機の目撃情報。
日本軍内部で発生し始めた噂。
京子は画面を見つめたまま言った。
「私たちは最初から歴史に介入するつもりでした」
「そうだろうな」
「だから、歴史が変わること自体には驚きません」
「じゃあ何に驚いてる」
京子は少しだけ息を吸った。
「速すぎるんです」
「速い?」
「歴史の反応が」
格納庫の中が静かになった。
幸雄も、美希も、はるみも、京子の方を見る。
「私たちは一つの戦場に介入しただけです。けれど、その影響はもう次の戦術、次の兵器運用、次の噂へ広がり始めている」
京子はモニターの一部を拡大した。
「米軍は、あなたを単なる敵機ではなく、撃墜すべき特異目標として見始めています」
次に別の線を示す。
「日本軍側では、所属不明の零戦として噂が広がり始めています」
「噂?」
「ええ」
京子は俺を見た。
「幽霊零戦」
その言葉に、俺は眉を寄せた。
「なんだそれ」
「セイロン沖で現れ、味方を救い、名乗らず消えた零戦。そういう噂です」
幸雄が口笛を吹いた。
「いいじゃねえか。かっこいい名前だ」
京子が鋭く見た。
「幸雄」
「悪い」
幸雄は肩をすくめたが、顔は少し笑っていた。
俺はモニターを見た。
幽霊零戦。
どうにも居心地の悪い名前だ。
「俺は幽霊じゃないぞ」
「分かっています」
京子は静かに答えた。
「でも、外から見ればそう見える。どこの所属でもない。発艦記録もない。戦場にだけ現れて、名乗らず消える」
「たまたまだ」
「その、たまたまが歴史に記録され始めています」
京子の声は落ち着いていた。
だが、その落ち着きの下に、何か震えるものがあった。
「歴史は、私たちが書き換える対象だと思っていました」
京子は小さく言った。
「でも今は違う」
「違う?」
「歴史が、こちらの介入に反応して、自分で形を変え始めているように見えます」
俺はその言葉の意味を考えた。
歴史が自分で形を変える。
まるで生き物みたいだ。
「俺のせいか」
「あなた一人のせいではありません」
京子は即座に言った。
「あなたをこの時代へ連れてきたのは私たちです。零戦を改造したのも私たちです。歴史に触れたのも私たちです」
「でも飛んだのは俺だ」
「はい」
京子は俺をまっすぐ見た。
「そして、あなたは私たちの予想以上に飛んでしまう」
幸雄がぼそりと言った。
「歴史を変えたい女と、変えすぎる男だな」
京子は今度は睨まなかった。
ただ、少しだけ困ったように息を吐いた。
「……否定しづらいのが困ります」
美希が小さく笑った。
はるみも口元を緩めた。
少しだけ、格納庫の空気が柔らかくなる。
俺は零戦の主翼に手を置いた。
「俺は、目の前で落とされそうな味方がいたら助けるぞ」
「分かっています」
「敵が来たら落とす」
「それも分かっています」
「難しいことは、後で考える」
京子は苦笑した。
「あなたらしいですね」
「そうか?」
「ええ」
はるみが奥から紙コップを持って戻ってきた。
「コーヒー、淹れましたよ」
「お、助かる」
俺は受け取って、一口飲んだ。
苦い。
だが悪くない。
幸雄はモニターを見ながら、まだ何か考えている。
「やっぱりラダー制御だな。いや、尾翼だけじゃ足りねえか。主翼側の補助も……」
「また変な改造を考えてるのか」
俺が言うと、幸雄は顔を上げた。
「変じゃねえ。お前の変な飛び方に機体を合わせるだけだ」
「それを変な改造って言うんだ」
「うるせえ」
美希が笑った。
京子も少しだけ笑った。
その笑顔を見て、俺はふと別のことを思った。
幽霊零戦。
その名が出た瞬間、胸の奥に引っかかるものがあった。
俺は幽霊ではない。
だが、この機体はどうだ。
この零戦は、俺のものではない。
この体も、俺のものではない。
「なあ」
「何ですか」
京子がこちらを見る。
「三上慎一って、どんな奴だったんだ?」
その場の空気が、少しだけ変わった。
幸雄の手が止まる。
美希も、はるみも、こちらを見た。
京子はしばらく黙っていた。
「急にどうしたんですか」
「この体を使ってるのに、俺はあいつのことを何も知らないなと思ってな」
京子は端末を伏せた。
「三上慎一は、真面目な人でした」
「真面目」
「はい。目立つ人ではありません。飛び抜けた撃墜王でもない。けれど、任務を投げ出さない人だったと記録にはあります」
「そうか」
「母親思いでもありました」
その言葉だけが、妙に胸に残った。
母親。
この体の記憶ではない。
だが、三上慎一という名前の向こうに、一人の母親がいる。
出撃する息子を見送った母親。
帰って来なかった息子。
俺は、その息子の体で零戦に乗っている。
「俺は、あいつの代わりになってるのか」
「いいえ」
京子はすぐに答えた。
「あなたは三上慎一ではありません」
「だろうな」
「でも」
京子は少しだけ言葉を選んだ。
「三上慎一の機体で、三上慎一の体で、あなたは今も飛んでいます」
「ややこしいな」
「はい」
京子は静かに頷いた。
「とても」
俺はコーヒーをもう一口飲んだ。
苦味が口の中に残る。
「三上の仲間は、まだ生きてるのか」
京子は俺を見た。
「なぜ、それを?」
「なんとなくだ」
本当に、なんとなくだった。
セイロン沖で助けた零戦隊。
その中に、この機体を知る者がいたかもしれない。
そんな気がした。
京子は端末に目を落とした。
「三上慎一の所属部隊には、生存者がいます」
「そうか」
「ですが、接触は危険です」
「分かってる」
俺は零戦を見た。
「今の俺を見たら、幽霊だと思うだろうな」
京子は答えなかった。
その沈黙で十分だった。
格納庫の奥で、幸雄の工具の音が響いた。
カン。
カン。
小さな音が、夜の基地に滲んでいく。
俺は立ち上がり、零戦の機首に手を置いた。
「三上」
小さく呼んでみた。
もちろん、返事はない。
ただ、冷えた金属の感触が手のひらに残るだけだ。
「お前の機体、もう少し借りるぞ」
誰にも聞こえない声でそう言った。
京子だけが、それを聞いていた。
彼女は何も言わなかった。
ただ、少しだけ悲しそうな顔をしていた。
外の海は静かだった。
だが、世界はもう静かではない。
米軍では、あの零戦をPhantom Zeroと呼び始めている。
日本軍では、幽霊零戦の噂が広がり始めている。
そしてこの基地では、まだ誰も知らないまま、慎一という名の男がコーヒーを飲んでいる。
歴史は、確かに動き始めていた。




